第5話
話が逸れすぎたので、米内藤子と松江、養母子の会話のシーンに話を戻す。
「ともかく軍服を着ていくから、大丈夫よ」
「確かに軍人を襲う輩は、そうはいないわね」
「それにズボンスタイルだからね」
「確かに」
松江の主張に、藤子は徐々に折れざるを得なかった。
さて、少なからずメタい話をせざるを得ないことになるが、この会話の背景を説明すると。
東京女子医科大学の予備役軍医士官課程に入学したものには、制服、軍服が支給されている。
此れは、周囲からの視線にさらされることで、本人に自覚を促すためでもあった。
そして、その軍服スタイルだが、その多くがズボンスタイルになっていた。
その理由だが、戦場で動き回り、傷病兵を診察等するのにスカートスタイルは向かないからである。
その為に女性の軍医も、ズボンスタイルの軍服に多くが身を包むことに、今ではなっているのだ。
尚、第二次世界大戦中までは、どうのこうの言っても、女性の軍服はスカートスタイルだったが。
前線近くで戦う女性達程、このスカートスタイルを嫌ったのが現実だった。
これは二つの側面から嫌われた。
まず第一に、スカートよりもズボンの方が機敏に動けるという側面からである。
それこそ戦場では自らの命が掛かっており、機敏に動けない為に死傷しては堪らない。
その為に少しでも機敏に動きたい、スカートよりズボンが良い、と考える女性が圧倒的多数だった。
第二に、自らの貞操を護るという側面からである。
スカートとズボンと、どちらが強姦等の被害に遭いにくいかというと、当然にズボンだった。
そして、戦場では当然に性犯罪とされることではあるが、そういった被害が多発しがちだった。
そうしたことから、前線近くで戦う女性達程、少しでも自分の身を護る為に、ズボンスタイルを希望する女性が多かったのだ。
とはいえ、後方で戦う女性達の殆どは、やはりスカートスタイルを好んだ。
この辺りは、この当時はズボンというと、やはり男性が着るモノという意識が当然だったのもある。
それに、一部からは柔弱等の批判の声が挙がったが、大多数の女性としては、それなりに化粧等をして、それなりの衣装を着たがったのだ。
そうした状況下にあったのが、第二次世界大戦時の女性の軍服で、実際に当時の日本の女性補助部隊の軍服にしても、スカートスタイルが採用されている。
だから、米内久子にしても、当時はスカートスタイルで重爆撃機等の整備を行っていたのだ。
だが、それを突き崩した女性部隊が、英領パレスチナ部隊、通称ユダヤ人部隊だった。
彼女達は、最前線まで赴いて戦うことがあり、そういった経験からスカートスタイルを厭うようになっていったのだ。
(更に言えば、ドイツ軍との交戦の際に、様々な被害を少しでも避けるという側面もあった)
それに本編でも描かれているが、英領パレスチナ部隊は英軍の中でも、はみだし部隊と言われても当然の部隊だったこともあった。
そうしたことから、しがらみも無く、ズボンスタイルの女性の軍服が、英領パレスチナ部隊の女性部隊では採用されることになったのだ。
(とはいえ、細かいことを言えば、英領パレスチナ部隊の女性達にしても、全てがズボンスタイルだった訳ではなく、スカートスタイルとズボンスタイルを併用している)
そして、それが発端になって、女性の軍服にズボンスタイルを採用する国、地域が徐々に増えることになり、1957年現在では日本でも女性の軍服として、ズボンスタイルとスカートスタイルを併用する事態が起きていたのだ。
(更に余談をすれば、実の末娘になる松江の軍服のズボンスタイルを見た久子は、
「こんな時代が来るとは」
と家族に呆れ声を挙げる羽目になった)
史実の1950年代では、まだまだ女性兵士の軍服は、スカートスタイルだったようですが。
この世界では、スカートスタイルが早く広まったのは、こういった背景があった、ということで平に緩く見て下さい。
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