第10話
そんな米内松江の想い、考えを無視して、支配人の話は続いていた。
「ともかく、このブレスト(及びその近郊)の地に日本軍の航空隊が展開して、対ドイツ戦で奮闘して、その結果として、祖国フランスからドイツ軍を追い払ったことを、今でもよく思い起こしますよ。
そうした日本軍の航空隊の面々の中で、取り分け目立っていたのが、女性の整備兵部隊の面々です。
特に、貴方の母の米内久子さんは、とても目立っていました」
支配人は、其処まで語った。
松江は、支配人が其処まで言うことに興味を抱いて、敢えて口を挟んだ。
「私の母は何故に其処まで目立ったのですか」
「それはですな」
松江の言葉は、支配人のいわゆるツボにハマったようで、支配人は長広舌を振るいだした。
(尚、以下は、その要約である)
支配人の言葉によれば、久子は女性整備兵部隊の面々の中でも最年長者に近かった。
(実際に、女性整備兵部隊の過半数というよりも殆どが20代の女性といっても過言では無かったが。
久子は1900年生まれであって40歳前後になっていて、最年長者と言われても、そう否定できない程の年齢に達していたのだ)
それに、久子としては想わぬことだったらしいが、極めて有能な軍用機整備の腕前にまで速やかに自らの技能を向上させてもいっていたのだ。
そうしたこともあって、女性整備兵部隊の多くというより殆どが兵身分であったが、久子は下士官に速やかに抜擢されて、准士官にまでなったのだ。
(少し詳細を説明すれば、ブレストに居た当時の久子の階級はその通りで、士官になったのは、第二次世界大戦終結後、第二次スペイン内戦が勃発してからのことになる)
ともかく、そうした点だけでも、久子は目立つ立場に居た、と言っても過言では無いのだが。
支配人が、久子に着目したのは、別の側面だった。
「軍務の合間には、戦時中ですから、半分闇に近かったですが、様々な農水産物の市場を、久子さんは訪ねては、色々と農水産物を買い求めて、それを売っている人に、
『どんな風に食べるのがお勧めなの、どう調理すれば良いの』
とか尋ねていました。
更には、そういったつながりから、戦時下ということから半分休業していた、と言っても過言ではない当ホテルの従業員、特に調理関係の面々と知り合うようになって、お互いの料理のレシピ等を教え合う事態にまでなっていました。
当ホテルの従業員の面々としても、このつながりは極めて有難かった。
久子さんは、そんなつもりは皆無でしたが、当ホテルは日本軍航空隊とつながりがある、そう周りから見られていたことから、それなり以上の便宜を受けられて、第二次世界大戦中からその後の混乱期の間、経営が維持できたのです」
支配人は、最後には涙にくれながら、其処まで言った。
「母の久子は、何故に其処まで料理に拘ったのか。何か聞いていませんか」
松江は、支配人に問い返した。
松江にしてみれば、母の久子の行動は余りにも意外というか、想いも寄らないことだった。
「久子さんは、よく零されていました。
子ども達5人から呆れ返られて当然だ、私は母の立場ではなく、妻の立場を優先してしまった。
でも、子ども達5人とやり直せるならば、やり直したい。
その時に、私が欧州で覚えた料理を振る舞って、共に味わうことで、子ども達に私の気持ちを分かって欲しい、と言われていました」
支配人は、松江の言葉に、そう答えた。
松江は、想わぬことに絶句しながら、考えざるを得なかった。
子ども達5人ということは、仁父さん、早苗、正、私以外に、藤子母さんも入っている。
実母の久子は、色々と行き掛かりはあったが、藤子母さんと完全には断絶せず、仲直りしたいと考えてはいたのだ。
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