第六話 異世界ですき焼き風
夕方。
王城の厨房を訪れた凪は、入り口で少しだけ足を止めた。
「……忙しそうだな」
昼間とは雰囲気がまるで違う。
いくつもの竈には火が入り、大鍋からは絶えず湯気が上がっている。
まな板を叩く包丁の音。
肉の焼ける匂い。
料理人たちが行き交い、ときおり短い指示が飛ぶ。
考えてみれば当然だった。
ここは王城の厨房だ。
王族だけではなく、城で働く人間たちの食事も作っている。
夕食前なら忙しくて当たり前である。
「時間、ずらした方がよかった?」
「いや。話は聞いている」
低い声が返ってきた。
厨房の奥から歩いてきたのは、四十代後半ほどの大柄な男だった。
短く切られた茶色の髪。
太い腕。
腰には使い込まれた布が下がっている。
「異世界の料理を作りたいそうだな」
「うん。厨房使っていいって聞いたんだけど」
「許可は出ている。俺はバルド。この厨房を預かっている」
「雨宮凪。よろしく」
「知っている」
「まあ、そうだよな」
この城で自分の名前を知らない人間を探す方が難しいかもしれない。
異世界から召喚された人間。
嫌でも目立つ。
「こっちを使え」
案内されたのは、厨房の端にある調理台だった。
竈も一つ空けられている。
「道具は?」
「包丁とまな板と……あと鍋借りたい。できれば浅くて広いやつ」
「浅くて広い鍋か」
バルドが料理人の一人に声をかける。
少しして運ばれてきた鍋を見て、凪は頷いた。
「これでいけそう」
「他には?」
「今のところ大丈夫。分かんない食材とかあったら聞く」
「そうしろ」
「ありがと」
凪は腕をまくった。
◇
調理台の上には、二つの世界の食材が並んでいた。
まずは地球から持ってきたもの。
豚肉。
豆腐。
長ねぎ。
卵。
それからキャベツ。
召喚された日、大学から帰ったあとにスーパーで買った食材だ。
まさか異世界で料理することになるとは、買ったときの自分は想像もしていなかっただろう。
魔法式の保存庫に預けていたおかげで、状態にも問題はない。
そして今日、城下で買ってきたもの。
グラウの肉。
加熱すると甘味が増すという薄紫色の根菜。
葉の厚い青菜。
他にもいくつか気になったものはあったが、さすがに買いすぎても使い切れないので今日はこのくらいにしておいた。
「さて」
凪は食材を見渡す。
作るものは決まっている。
すき焼き。
正確には、すき焼き風。
問題は
「調味料だな」
日本で家ですき焼きを作るなら、醤油、砂糖、味醂。
家によっては酒、市販の割り下を使う家もある。
だが、ここは異世界だ。
同じものがあるとは限らない。
「バルド」
「なんだ」
「ちょっと調味料について聞いていい?」
「ああ」
「まず、塩辛い液体で、豆とか穀物を発酵させて作るような調味料ってある?」
バルドが少し考える。
「発酵させた豆の調味料ならある。液体のものも使うぞ」
「マジ?」
「持ってこさせる」
「助かる」
運ばれてきた小さな瓶から、凪は少量を小皿へ取った。
色は濃い茶色。
見た目だけなら、少し醤油に似ている。
匂いを嗅ぐ。
「……似てるけど違うな」
舐めてみる。
「しょっぱ」
塩気はかなり強い。
香りも醤油とは違う。
それでも発酵由来らしい旨味がある。
「これ、なんていうの?」
「ラグだ」
「ラグ」
――ミーネ、記録。
『記録します』
「料理には普通に使う?」
「煮込みや肉料理にはな。魚に使うこともある」
「なるほど」
醤油そのものではない。
だが、役割はかなり近そうだった。
「次、甘い調味料。砂糖みたいなのある?」
「砂糖ならある」
「普通にあるんだ」
バルドが怪訝そうな顔をした。
「なぜないと思った?」
「いや、ないと思ったわけじゃないけど。一応確認」
「異世界だからか?」
「まあ、ちょっと」
「変な世界だと思われているな」
「俺からしたら実際変な世界なんだよ」
「それはそうか」
納得された。
持ってきてもらった砂糖を少しだけ舐めてみる。
「……うん。砂糖だ」
地球のものとまったく同じなのかは分からない。
だが、少なくとも料理に使う分には問題なさそうだ。
「あと、味醂……は説明難しいな」
「どういうものだ」
「甘い酒みたいな調味料。料理に使う」
「酒なら何種類かあるぞ」
「見せてもらっていい?」
今度はいくつかの酒が並ぶ。
凪は匂いを確かめ、ほんの少しずつ味を見る。
「これかな」
選んだのは、香りが比較的穏やかで、少し甘味のある酒だった。
味醂とは違う。
だが代用品としては使えそうだ。
「これも料理に使う?」
「ああ。肉や魚の煮込みにも使う」
「じゃあ大丈夫そう」
「何を作るつもりなんだ?」
「甘辛い汁で肉とか野菜を煮る料理」
「煮込み料理か?」
「似てるけど……ちょっと違う」
「どう違う」
「作りながら見た方が早いと思う」
バルドは少しだけ目を細めた。
「分かった。見せてもらおう」
その声には、料理人らしい興味が混じっていた。
◇
まず凪が手をつけたのは、野菜だった。
長ねぎを斜めに切る。
キャベツは大きめ。
豆腐も煮崩れしない程度の大きさに切り分ける。
現地の青菜は根元と葉を分けるように切った。
そして。
「こいつだな」
昼間に買った薄紫色の根菜。
包丁を入れてみる。
思ったより硬い。
「生でも食える?」
「食えなくはないが、普通は火を通す」
「どれくらいで柔らかくなる?」
「厚さにもよるが、それなりに時間はかかる」
「じゃあ薄めだな」
凪は根菜を数ミリ程度の厚さに切っていく。
すき焼きは長時間煮込む料理ではない。
鍋を囲みながら食べるなら、火の通りが早い方がいい。
「随分薄く切るんだな」
バルドが横から覗き込んでいた。
「早く火を通したいから」
「煮崩れないか?」
「これ、煮崩れやすい?」
「いや。むしろ崩れにくい」
「ならちょうどいい」
バルドが一枚持ち上げて厚みを見る。
「なるほどな」
「何?」
「いや。こちらでは煮込みに使うことが多いから、もう少し厚く切る」
「ああ」
「薄くして短時間で火を通すか」
「合わなかったら次変えるけどね」
「初めて使う食材で、よく迷わず切れるな」
「火の通り方聞いたし。食材なんて切って食ってみないと分かんないだろ」
「……それもそうだな」
バルドが少し笑った。
凪はそのまま手を動かす。
包丁の扱いに特別な技術があるわけではない。
プロの料理人と比べれば当然敵わない。
それでも、一人暮らしではないにせよ普段から家で料理をしている。
野菜を切る程度なら困らない。
地球の豚肉は既に薄切りだ。
問題はグラウの肉だった。
「これも薄くしたいな」
「そのまま切るのか?」
「やってみる」
肉の筋を見る。
包丁を入れる。
一枚。
少し厚い。
「……もうちょい薄くいけるな」
二枚目。
三枚目。
徐々に感覚を合わせる。
「そんなものだろう」
バルドが言った。
「やっぱプロから見ると厚い?」
「いや。その料理なら十分だと思う。ただ、グラウは筋に沿って切ると硬くなりやすい」
「あ、そっち?」
バルドが肉を指差す。
「その筋を断つように刃を入れた方がいい」
「なるほど」
凪は肉の向きを変えた。
同じように薄く切る。
「こう?」
「ああ」
「了解」
それだけ聞けば、あとは自分で進められる。
バルドも手を出してこない。
ただ横から、興味深そうに凪の手元を見ている。
「……なんか緊張するな」
「なぜだ」
「プロに見られながら料理するの普通に嫌だろ」
「俺は面白いぞ」
「そっちはな」
「見たことのない料理だからな」
「失敗するかもしれないけど」
「それも含めて面白い」
「料理人だなあ」
「料理人だからな」
便利な言葉だった。
◇
具材の準備が終わる。
次は割り下だった。
とはいえ。
「割合、覚えてないんだよな」
醤油。
味醂。
砂糖。
酒。
家で作るときも毎回きっちり計量していたわけではない。
まして今回は、そのどれも完全に地球と同じではない。
『既知の料理情報を検索しますか?』
――いや、いい。
『よろしいのですか?』
――今日はこっちの味で作ってみたい。
『了解しました』
ラグを少量。
酒。
砂糖。
水。
まずは控えめに混ぜる。
火にかける前に味を見る。
「……濃いな」
ラグを減らすことはできない。
なら他を足す。
水。
酒。
少量の砂糖。
もう一度。
「うん」
「もう決まったのか?」
「だいたい」
バルドが驚いたように見る。
「もっと何度も試すものかと思った」
「煮たら肉とか野菜から味出るから、今完璧にしてもしょうがないよ」
「なるほど」
「薄かったら後で足せるし」
「最初から完成させるのではなく、鍋の中で味を作るのか」
「すき焼きって割とそんな感じじゃない?」
少なくとも凪の感覚ではそうだった。
家庭によって作り方も違う。
最初に肉を焼く家もあれば、割り下で煮る家もある。
砂糖や醤油を直接入れて調整する家もある。
「じゃあ試しにグラウ焼いてみるか」
浅い鍋を熱する。
少量の脂を引き、グラウの肉を一枚置いた。
じゅう。
気持ちのいい音が響く。
「……腹減るな」
「まだ夕食前だぞ」
「だから減るんだろ」
肉の色が変わっていく。
軽く焼き色がついたところで、砂糖をほんの少し。
そこへラグと酒を合わせた汁を入れる。
じゅわっ、と音が変わった。
同時に、甘辛い香りが立ち上る。
「おお……」
凪より先に声を漏らしたのはバルドだった。
「いい匂いだな」
「だろ?」
「甘味を肉へ直接合わせるのか」
「珍しい?」
「ないわけではない。だが、ここまで甘味を前に出す肉料理は俺ならあまり作らん」
「へえ」
「だから面白い」
バルドが鍋を覗き込む。
「食ってみる?」
「いいのか?」
「味見しないと分かんないだろ」
一枚を取り出し、半分にする。
凪が先に食べる。
「熱っ」
「今焼いたんだから当たり前だ」
「……うん」
噛む。
グラウは牛肉に似ている。
だが、味は少し濃い。
脂にも独特の香りがある。
そこへ甘辛い味が絡む。
「うまい」
思っていた以上に合う。
バルドも口に入れた。
「……ほう」
「どう?」
「面白い」
「美味いじゃなくて?」
「美味い。だが、それより先に面白いと思った」
「料理人だなあ」
「この味付けなら、グラウの脂の強さも悪くない」
「あー、確かに」
「ただ、肉を増やすならラグは今以上に濃くしない方がいい。煮詰まれば塩気が強くなる」
「それは俺も思った」
「なら問題ない」
バルドはそれ以上口を出さなかった。
凪も続きを始める。
長ねぎ。
薄く切った根菜。
豆腐。
キャベツ。
グラウ肉。
豚肉。
火の通りにくいものから順に入れる。
青菜はまだ。
「全部一度に入れないのか」
「葉っぱは最後。煮すぎたら食感なくなるし」
「なるほど」
「長ねぎも本当はもうちょい焼いてからでもいいかな」
鍋の中を見ながら調整する。
根菜は薄くしたおかげで、思ったより早く柔らかくなってきた。
一枚取って味を見る。
「……お」
甘い。
煮汁を吸っているのに、根菜自体の甘味も残っている。
「これ当たりだな」
「そうなのか?」
「食ってみる?」
「もらおう」
バルドにも渡す。
「普段と違う?」
「かなりな。こんな薄さで煮ることはほとんどない」
「食感残ってる方が俺は好きだな」
「……悪くない」
「でしょ」
「むしろ、この料理にはこの方が合うかもしれん」
プロにそう言われると少し嬉しい。
凪は最後に青菜を加えた。
煮汁を味見、少しだけ砂糖。
ラグは足さない。
肉から出た脂と野菜の水分で、最初とは味が変わっている。
「……よし」
「完成か?」
「完成」
鍋の中には。
地球の豚肉。
豆腐。
長ねぎ。
キャベツ。
異世界のグラウ。
根菜。
青菜。
そして、二つの世界の代用品を組み合わせた甘辛い煮汁。
「すき焼き風」
「スキヤキではないのか?」
「材料違うからな」
「では、これはこの世界の料理なのか?」
「どうだろ」
凪は鍋を見る。
「地球の料理を、こっちの材料で作った料理?」
「随分曖昧だな」
「美味けりゃいいよ」
「……なるほど」
バルドはもう一度鍋を見る。
その目は、最初より明らかに楽しそうだった。
「異世界の料理というから、もっと理解できないものが出てくると思っていた」
「どんなの想像してたんだよ」
「分からん。だから見たかった」
「実際は?」
「使う食材も、切る、焼く、煮るという技術も変わらん」
「まあね」
「だが、組み合わせ方が違う」
バルドはグラウ肉を見る。
「知っている食材なのに、俺ならこうは作らない」
「そういうもんか」
「ああ」
そして少し笑う。
「面白いな。異世界の料理というのは」
「まだ一個目だけど」
「なら、他にも作れ」
「気が向いたらね」
「楽しみにしておこう」
どうやら料理長には気に入られたらしい。
◇
夕食の場所として借りたのは、豪華な晩餐室ではなかった。
厨房に近い、小さな食事室。
凪が頼んだ。
鍋料理なら、出来上がったものを一人ずつ皿に盛るより、同じ鍋を囲んで食べたかったからだ。
テーブルの中央には、先ほど完成した鍋。
その周りに五人。
凪。
エリシア。
マリア。
外務卿のアデル。
そして料理長のバルド。
「私までご一緒して、本当によろしいのでしょうか」
マリアは席についてからも落ち着かない様子だった。
「いいって。俺が誘ったんだから」
「ですが……」
「今日は俺が作った飯なんだから、一緒に食べたい人と食う」
「……では、お言葉に甘えます」
「バルドもね」
「俺は味見で既に食っているぞ」
「一緒に完成させたんだからいいじゃん」
「俺はほとんど見ていただけだ」
「グラウの切り方教えてくれたし」
「あれだけだろう」
「あと味濃くするなって言った」
「お前も分かっていたではないか」
「じゃあ九割五分俺」
「好きにしろ」
アデルが口元を押さえて笑った。
「随分と仲良くなられたのですね」
「今日会ったばっかですよ」
「料理人として興味深かっただけだ」
バルドが答える。
「異世界の料理が?」
「ああ」
エリシアが鍋を覗き込む。
「これがスキヤキ?」
「すき焼き風」
「先ほどからその『風』にこだわりますね」
「日本のすき焼きと同じじゃないから」
「ですが、ナギが作ったのでしょう?」
「バルドも少し手伝った」
「ほとんど見ていただけだ」
「本人がこう言ってるから九割八分俺」
「増えているぞ」
「細かいなあ」
「お前が細かくしているんだ」
またアデルが笑った。
「とりあえず食おう」
凪は箸を手に取る。
「いただきます」
「イタダキマス?」
アデルが聞いた。
「ああ。地球で飯食う前に言うやつ」
「どのような意味なのですか?」
「んー……」
改めて聞かれると難しい。
「食材とか、作ってくれた人とか。そういうのに感謝して、いただきます、って感じかな」
「なるほど」
アデルが凪の真似をして手を合わせる。
「では、いただきます」
「やるんだ」
「異世界の料理ですから、作法も合わせてみようかと」
「じゃあ私も」
エリシアまで続く。
「いただきます」
マリアも少し恥ずかしそうに。
「いただきます」
そして全員の視線がバルドへ向いた。
「……なぜ俺を見る」
「流れ的に」
「俺は作った側でもあるんだが」
「俺もだよ」
「……いただきます」
「やるんじゃん」
「早く食わせろ」
「はいはい」
まずはグラウ肉。
エリシアが口へ運ぶ。
少し噛んで。
「……甘い」
「肉が?」
「味付けがです」
「結構甘辛くしてるから」
「ですが、不思議と肉に合います」
アデルも一口。
「確かに。普段いただくグラウ料理とはかなり印象が違いますね」
「俺もそう思った」
バルドが頷く。
「使っているもの自体は、この厨房にあるものがほとんどだ。それでこれだけ味が変わるのは面白い」
「地球の料理でも同じだよ。材料同じでも作り方で全然変わるし」
次は豚肉。
「こちらが地球の肉ですね」
マリアが慎重に口へ運ぶ。
「……柔らかい」
「薄く切ってあるのもあるけど、グラウとは結構違うだろ?」
「はい。脂の感じも違います」
豆腐。
長ねぎ。
キャベツ。
そして薄く切った根菜。
「これ美味しいですね」
エリシアが根菜を食べる。
「だろ。今日買っといて正解だった」
「普段より食感が残っている」
バルドも言う。
「薄くしたからすぐ火が通るし、この料理にはこっちの方がいいかもな」
「今度うちでも試してみるか」
「お」
「料理長が地球式を採用した」
「良いものなら使う。当然だろう」
「プロだなあ」
「料理人だからな」
「その言葉便利すぎない?」
食事はしばらく穏やかに進んだ。
そして。
「あ」
凪は思い出した。
「卵」
テーブルの端に置いていた卵を一つ取る。
「使うのですか?」
エリシアが聞く。
「本当はこれにつけて食うと美味いんだよ」
器の縁で殻を割る。
中身を落とし。
箸で混ぜる。
その瞬間。
妙に周囲が静かになった。
「……ナギ」
「ん?」
エリシアが器を見ている。
「それを、どうするのですか?」
「肉につける」
「そのまま?」
「うん」
「加熱せずに?」
「うん」
「……卵を?」
「卵を」
エリシアだけではない。
マリアも。
アデルも。
バルドまで凪の手元を見ていた。
「何?」
「お前」
バルドが口を開く。
「卵を生で食うのか?」
「食うよ」
「腹を壊さないのか?」
「あー」
そこで凪も気づいた。
「こっちでは生で食わない?」
「俺なら客には出さん」
「鮮度良くても?」
「火を通す」
「なるほど」
凪は器の中の卵を見る。
これは地球から持ってきたものだ。
日本のスーパーで普通に売られていた卵。
「日本だと、生で食うことを前提に売られてる卵があるんだよ」
「ニホン」
「俺がいた国」
「生食を前提に?」
アデルが興味を示した。
「そう。衛生管理とか保存とか、運ぶときの温度とか。そういうのをちゃんと管理して、生でも食えるようにしてる」
「そこまでして、生で?」
「うん」
「なぜです?」
「美味いから」
即答した。
アデルが一瞬黙る。
「……火を通せば安全なのでしょう?」
「そうだね」
「では、火を通せばよいのでは?」
「生には生の美味さがある」
「そのために、生で食べられるよう管理方法まで?」
「そう」
「……」
アデルがエリシアを見る。
エリシアも少し考えている。
「ナギの国の人々は、食事にかなり熱心なのですね」
「日本人、食に関しては結構貪欲だと思うよ」
「貪欲」
「安全に食える方法があるなら試すし、他の国の料理も持ってきて自分たちなりに変えたりするし。食えるものなら、どうやったら美味くなるか考える」
「……随分と」
アデルが苦笑する。
「平和な情熱ですね」
「いいだろ、飯くらい」
「褒めていますよ」
凪は溶いた卵へグラウ肉をつける。
口へ運んだ。
「……うっま」
濃い味のグラウ肉が、卵でまろやかになる。
これだ。
数日前までなら、何の特別感もなかった味。
それが今は妙に懐かしい。
「そんなに違うのですか?」
エリシアが気になって仕方なさそうにしている。
「食ってみる?」
「はい」
「待て」
バルドが即座に止めた。
「院長に何を食わせようとしている」
「俺が今食ったじゃん」
「お前はその卵がある世界の人間だろう」
「……あ」
同じ人間に見える。
だが、細かいところまで完全に同じ保証はない。
それ以前に、地球から来て数日経っている。
保存庫に入れていたとはいえ、こちらの人間にまで安全だと断言するのは雑だった。
「確かに。やめとこう」
「残念です」
エリシアが露骨に残念そうな顔をする。
「そんな食いたかった?」
「未知の食文化ですから」
「研究者だなあ」
「ですが」
エリシアが卵を見る。
「こちらの卵でも、安全に生食できる状態を作ればよいのでは?」
「……ん?」
凪が止まる。
「いや」
今度は凪も卵を見る。
「それ、できるんじゃない?」
エリシアと目が合った。
「まず、なぜ生の卵で体調を崩すのかを確認する必要があります」
「地球だと菌が原因になることがある」
「菌?」
「ものすごく小さい生き物みたいなやつ」
「病原性微生物のことでしょうか」
「知ってる?」
「もちろんです。肉眼では確認できない微小な生物の一部が、病気や腐敗を引き起こすことは知られています」
「じゃあ話早いな」
――ミーネ、生卵で有名なやつ。
『検索します』
『サルモネラ属菌――』
――それ。
「地球の卵だと、サルモネラっていう菌が問題になることがある」
「その菌が卵の表面に?」
「中にもいる場合あったはず」
『肯定します。卵殻表面および卵内部が汚染される可能性があります』
「中にも入ってる場合がある」
「では殻を洗浄するだけでは不十分ですね」
「そうなる」
「加熱なら?」
「殺せる」
「しかし、それでは生ではなくなる」
「そこなんだよ」
二人で卵を見る。
数秒。
「……浄化魔法?」
「浄化術式」
ほとんど同時だった。
「できる?」
「可能性はあります」
エリシアの目が変わる。
凪にはもう分かった。
昨日、自分が魔法を試していたときと同じ目だ。
「一般的な浄化術式でも、腐敗に関わる微小生物を除去する用途はあります。ただし、卵殻の内部まで対象にするとなると――」
「殻を抜けて、中の菌だけ狙う必要がある?」
「はい。卵そのものを損傷させては意味がありません」
「対象指定を細かくすれば?」
「可能ですが、対象となる微小生物を正確に識別する必要があります」
「じゃあ、まずどれが危ないか調べて――」
言いかける。
「解析できれば……」
「解析?」
エリシアが凪を見る。
「あー」
一瞬だけ言葉に詰まった。
「いや。調べて特定できればってこと」
「なるほど」
エリシアは特に気にした様子もなく、すぐ卵へ視線を戻した。
凪は内心で息を吐く。
――危な。
『《万象解析》に関する発言の秘匿を推奨します』
――分かってる。
『直前の発言からは、十分に理解しているとは――』
――分かってるって。
「あるいは」
エリシアが続ける。
「浄化だけでなく、保存方法から変えるべきかもしれません」
「温度?」
「昼間に話した内容です。低温を維持すれば、微小生物の増殖を抑えられる可能性があります」
「ああ!」
凪も身を乗り出す。
「じゃあ冷却と浄化を組み合わせる?」
「それが最も単純でしょう。ただし、保存中にどの程度まで増殖が抑えられるのかを確認する必要があります」
「あと、熱でも卵固まらないくらいなら殺菌できたりしない?」
「低い温度で?」
「地球にもあった気がする」
『低温殺菌――』
――それだ。
「低い温度で長めに加熱して殺菌する方法」
「温度と時間は?」
「知らん」
「……」
「俺、料理好きな大学生だからね?」
「ですが、その方法が存在することは知っている」
「まあ」
「なら条件を探せます」
「実験する?」
「しましょう」
即答だった。
「普通の卵と浄化した卵を比べて」
「術式強度も複数」
「保存温度も変える?」
「最初から条件を増やしすぎると、何が影響したのか分からなくなります」
「あ、そっか」
「一つずつ変えましょう」
「安全になったか確認する方法もいるな」
「培養設備があります」
「あるの?」
「宮廷魔導院ですよ?」
「便利だな魔導院」
「マジです」
「それ気に入った?」
「使いやすいので」
「……あの」
二人同時に振り向いた。
マリアが困ったような顔をしていた。
「お食事は……?」
「……」
「……」
鍋を見る。
アデルは笑顔で二人を眺めている。
バルドは完全に呆れていた。
「冷めるぞ」
「あ」
「せっかく温かい料理なのでしょう?」
アデルが言う。
「そうだった」
「忘れていました」
「エリシアもじゃん」
「ナギもでしょう」
「まあ、うん」
バルドが大きく息を吐いた。
「食い物を研究するのは構わん」
「お」
「まず食え」
「はい」
「はい」
二人揃って返事をする。
「お二人は、本当に気が合うのですね」
アデルが笑う。
「そう?」
凪がエリシアを見る。
エリシアも凪を見る。
「話はしやすいですね」
「俺、研究者じゃないけど」
「興味を持ったことを途中で止められないところは似ています」
「……それは否定できない」
「でしょう?」
少し得意げだった。
「エリシア様」
マリアが恐る恐る口を挟む。
「昨日はナギ様をお止めする側だったと伺いましたが」
「魔力を使いすぎるのは危険ですから」
「今はご一緒に止まらなくなっておられます」
「今回は魔力を使っていません」
「そういう問題なのでしょうか……」
マリアがさらに困った。
アデルは楽しそうに笑っている。
バルドはもう気にするのをやめたのか、黙々とグラウ肉を食べていた。
「まあ、卵はまた今度だな」
凪も箸を取り直す。
「はい」
「ちゃんと安全か確認してから」
「当然です」
「成功したら食わせるよ」
「約束ですよ」
「そこまで食いたいんだ」
「ナギがそこまで美味しいと言うので」
「じゃあ頑張るか」
「はい」
こうして。
夕食を食べていただけのはずなのに。
いつの間にか、共同研究の予定が一つ増えていた。
◇
食事が終わる頃には、鍋の中はほとんど空になっていた。
「思ったより食ったな」
「美味しかったです」
マリアが満足そうに言う。
「私も。グラウにこのような味付けをする発想はありませんでした」
アデルも頷く。
バルドは空になった鍋を眺めている。
「どうだった?」
凪が聞く。
「面白かった」
「またそれ?」
「料理人にとっては褒め言葉だ」
「そういうもん?」
「知っている材料でも、考え方が変われば別の料理になる」
バルドが鍋を軽く指す。
「グラウも、あの根菜も、ラグも、この厨房では珍しくもない」
「うん」
「だが、俺はこういう料理にはしなかった」
「じゃあ今度はそっちの料理教えてよ」
「俺の?」
「今日使った食材、本来どうやって食うのか気になる」
「構わん」
「地球料理教える代わりに」
「取引か?」
「知識交換」
凪はエリシアを見る。
「最近そういうの流行ってるから」
「私たちの間だけでは?」
「今日から三人」
「勝手に増やすな」
バルドはそう言いながらも、嫌そうではなかった。
「では次は俺が何か作ってやる」
「マジ?」
「マジだ」
「完全に定着してるじゃん」
笑い声が上がる。
凪はふと、残った食材へ目を向けた。
地球から持ってきたもの。
豚肉。
豆腐。
長ねぎ。
卵。
キャベツ。
当然だが。
使えばなくなる。
日本にいたなら、なくなればまたスーパーへ行けばよかった。
今は、それができない。
少しだけ。
もったいないと思う。
「ナギ?」
「ん?」
エリシアが凪を見ていた。
「どうしました?」
「いや」
凪は首を振る。
「次は、こっちの食材だけでなんか作ってみようかなって」
「地球の食材は使わないのですか?」
「使うよ。でも有限だし」
「……そうですね」
「それに」
空になった鍋を見る。
グラウ。
薄紫色の根菜。
青菜。
ラグ。
こちらの酒。
今日まで名前すら知らなかったものばかりだ。
「こっちの食材だけでも、普通に美味いもん作れそうだから」
「当然だ」
バルドが即答した。
「自信あるな」
「何年この国で料理をしていると思っている」
「じゃあ期待しとく」
「しておけ」
地球から持ってきたものは、いつかなくなる。
それは少し寂しい。
けれど。
今日使った分だけ、知らなかった味を知った。
グラウの肉を知った。
根菜の新しい食べ方を知った。
バルドはすき焼き風を知った。
そして今度は、凪がこの世界の料理を教えてもらう。
一つ減って。
一つ増える。
そうやっていけばいいのかもしれない。
少なくとも今は。
凪は空になった鍋を眺めながら、そんなことを考えていた。
詰め込みすぎ?




