第八話 異世界でいつもの味 後半
「で、どんなソースなのです?」
バルドにそう聞かれて、俺は少し困った。
「それを説明するのが難しいんだよな……」
お好み焼きのソース。
日本にいた頃は、冷蔵庫からボトルを出してかけるだけだった。自分で作ろうなんて考えたこともないし、原材料だって裏の表示を何となく眺めたことがある程度だ。
「甘くて、酸味があって、塩気もある。香辛料も入ってて、結構濃い味」
「肉料理に使うソースに近そうですが、それだけではなさそうですな」
「そうなんだよ。野菜とか果物も入ってたはずなんだけど……」
――ミーネ。俺、お好み焼きのソースに何が入ってたか覚えてる?
『記録を検索します』
少し待つと、いつもの声が返ってくる。
『複数の商品に関する断片的な記録を確認。野菜、果実、糖類、酢、食塩、香辛料、その他調味原料――』
――そこまででいい。
やっぱり大体そんな感じか。
問題は割合も作り方も知らないことだ。
俺は料理が好きなだけで、ソース工場で働いていたわけじゃない。
「材料は大体分かる。でも作り方は分からん」
「でしたら、同じものを作ろうと考えない方がよろしいでしょう」
「というと?」
「ナギ殿が欲しい味に近いものを、こちらの料理から探せばよいのです」
「ああ、それいいな」
さすが料理長。
こういうところは俺よりずっと頼りになる。
「甘酸っぱくて、少しとろみがあるものなら?」
「果実を煮詰めたソースがいくつかあります。肉料理に合わせるものなら、香辛料を加えたものも」
「それ見たい」
「少々お待ちを」
バルドが持ってきたのは、いくつかの小さな器だった。
赤いもの、茶色いもの、黄色っぽいもの。
一つずつ味を見る。
「これは?」
「トマトを煮詰め、酢と香辛料を加えたものです」
「これ結構近い」
もちろんケチャップそのものではない。
トマトの酸味が強く、甘さも控えめだが、土台としてはかなり使えそうだ。
「こっちは?」
「果物を煮詰めたものです。肉料理に使います」
舐めてみる。
「甘いな。でもちょっと香りが強い」
「では量を抑えましょう」
「それとラグも使いたい」
「塩味を加えるなら悪くないでしょう。ただし、先ほどのすき焼きと同じく入れすぎには注意が必要ですな」
「じゃあ少しずつやるか」
そこからは二人で味を探した。
トマトを使ったソースを土台にして、果物を煮詰めたものを少量。
砂糖。
酢。
ラグ。
そしてバルドが選んだ香辛料。
俺が味見して、欲しい方向を伝える。
「もうちょっと甘い」
「でしたら砂糖より、こちらの果実を増やした方がよいでしょう」
「なんで?」
「砂糖だけを増やすより味に厚みが出ます」
「じゃあそっち」
混ぜて、火にかけて、また味を見る。
「……お。こっちの方がいい」
「酸味はいかがです?」
「ちょっと強いかな」
「煮詰めれば多少丸くなります。先に様子を見ましょう」
「了解」
弱火で煮詰める。
しばらくすると水分が飛び、とろみが強くなってきた。
もう一度味を見る。
「……かなり近づいた」
「元の味を知らない私には判断できませんが、料理用のソースとしては悪くないと思います」
「俺もそう思う」
日本のお好みソースとは違う。
でも、甘味と酸味があって、ラグの塩気と発酵した風味があり、香辛料もほんのり効いている。
「これならいける」
「では、完成ですかな」
「いや」
俺は少し考える。
「もうほんのちょっとだけ甘くしたい」
「では、こちらを」
「やっぱプロって便利だな」
「料理長ですので」
「一家に一人欲しい」
「王城の料理長を持ち帰らないでください」
横で聞いていたマリアが口を挟んだ。
「持ち帰らないよ」
「今、欲しいとおっしゃったではありませんか」
「言い方」
バルドが笑っている。
最後に少しだけ調整して、もう一度味見。
「うん。これでいこう」
完全再現じゃない。
でも、それでいい。
俺が知っている味を土台にして、バルドがこの世界の料理から使えるものを選んだ。
これはもう、お好みソースの偽物というより、こっちで作った新しいソースだ。
「じゃ、今度こそお好み焼き」
残っていたキャベツを半分に切り、細かく刻んでいく。
「随分細かくされるのですね」
マリアが横から覗き込む。
「このくらいの方が生地と混ざりやすいから」
「私もお手伝いしましょうか?」
「じゃあ半分お願い。包丁使える?」
「ナギ様より長く厨房へ出入りしております」
「失礼しました」
即答された。
バルドが小さく笑っている。
「何?」
「いえ。何も」
「絶対なんかあるだろ」
マリアにキャベツを任せて、俺は生地の準備に取りかかる。
「バルド、粉ってどれ使えばいい?」
「焼くのでしたら、こちらがよいでしょう」
出されたのは、この国でパンや焼き菓子にも使われている穀物の粉だった。
見た目は小麦粉に近い。
こっちにも地球と似た穀物は普通にあるらしい。
「出汁も欲しい」
「魚で取ったものでよろしければ」
「それで」
味を見ると、俺が知っている和風出汁とは違うものの、魚の旨味はしっかり出ていた。
ボウルに粉。
卵。
出汁。
少しずつ混ぜて、生地の固さを調整する。
そこへ刻んだキャベツを入れる。
「……多くありませんか?」
マリアが聞いてくる。
「こんなもん」
「粉より野菜の方が多いように見えます」
「俺はキャベツが本体だと思ってるから」
「それは料理として正しいのですか?」
「知らん。俺はこれが好き」
「急に個人の好みになりましたね」
「お好み焼きなんだから好みでいいんだよ」
「なるほど?」
納得してない顔だ。
残しておいた豚肉も用意する。
バルドに平たい焼き台を借り、油を薄く引いて熱した。
「よし」
生地を落とす。
ジュウッ、と音が上がった。
丸く形を整えて、その上へ豚肉を広げる。
「これを焼くのですか?」
「そう。で、途中でひっくり返す」
マリアが焼き台を見る。
俺を見る。
もう一度、焼き台を見る。
「崩れませんか?」
「崩さなければいい」
「答えになっていません」
「まあ見てて」
底が固まるまで待つ。
焼けた生地とキャベツ、それに豚肉の匂いが立ち始める。
「そろそろかな」
へらを差し込んで持ち上げる。
一気に返す。
ぱたん。
「おお」
綺麗に返った。
「どうよ」
「お見事です」
「ふふん」
「少し得意げですね」
「成功したんだからいいだろ」
反対側も焼いていく。
豚肉から出た脂が焼き台の上で弾け、さっきとはまた違った香ばしい匂いが厨房に広がった。
火の通りを確認して皿へ移す。
「で、さっきのソース」
表面にたっぷり塗る。
熱で温められたソースから、甘酸っぱい香りが一気に立ち上がった。
「……ああ、いいなこれ」
思わず声が出た。
同じじゃない。
日本で食べていたものとは、間違いなく違う。
それでも焼けた生地と豚肉に濃いソースの香りが合わさると、一気に記憶の中のお好み焼きへ近づく。
「確かに、先ほどより香りが強くなりましたな」
「これこれ」
バルドも興味深そうに皿を覗いている。
マリアに至っては、さっきから視線が料理から動いていない。
「食べる?」
「よろしいのですか?」
「味見くらいなら」
「では、ぜひ」
切り分けようとした、そのときだった。
「バルド、何を作っているんですか?」
厨房の入口から声がした。
「廊下までいい匂いがしていましたよ」
振り返る。
見覚えのない女の子が立っていた。
俺より年下に見える。
青藍色の短い髪は首元で軽く外へ跳ねていて、明るい青系の瞳が厨房の中を興味深そうに見回している。
服は明らかに上等そうだが、華美なドレスではない。動きやすそうな膝下丈の服に短いブーツで、立ち姿は綺麗なのに、視線だけは完全に料理へ向いていた。
「……それですか?」
「たぶん」
「初めて見る料理ですね」
「俺のいたところの料理だからな」
そこでようやく、その子が俺を見る。
「あ……では、あなたがナギ様ですか?」
「そうだけど」
「やはり。私はフィリア――」
名乗りかけたところで。
視線がまた皿へ落ちた。
「……それ、もう食べてもよろしいですか?」
「自己紹介よりそっち?」
「すみません。とてもいい匂いなので」
素直だな。
「まあ、いいけど。俺は凪」
「存じています」
「俺だけ知られてるの、なんか変な感じするな」
「申し訳ありません」
「いや、謝らなくていいって。食べる?」
「はい」
即答。
小さく切って皿へ乗せようとしたところで、後ろからバルドの声が飛んできた。
「フィリア殿下」
「はい?」
「せめて先に、きちんとご挨拶をなさってください」
「…………」
俺の手が止まった。
今、なんて?
「……殿下?」
「はい」
フィリアが俺を見る。
「王女様?」
「はい。フィリア・レグナリアです」
今度こそ、綺麗に一礼した。
「先ほどは大変失礼いたしました」
「いや……」
もう一度フィリアを見る。
上等な服。
綺麗な所作。
言われてみれば納得できる。
でも。
「王女様ってもっと分かりやすい格好してるもんだと思ってた」
「王城の中でまで、常に正装しているわけではありませんから」
「なるほど」
それからバルドを見る。
「先に言って?」
「料理を勧めたのはナギ殿でしょう」
「それはそうだけど」
「フィリア殿下も名乗ろうとはされていましたぞ」
「途中でお好み焼きに負けてたじゃん」
「……それについては反省しております」
フィリアが少しだけ気まずそうに目を逸らす。
マリアを見る。
「マリア、知ってた?」
「もちろんです」
「教えてくれてもよくない?」
「私もお声をかけようとは思ったのですが……」
「ですが?」
「ナギ様があまりにも普通にお話しされるので、少々機会を逃してしまいました」
「絶対ちょっと面白がってたよね?」
「さて、何のことでしょう」
「目逸らした」
フィリアが小さく笑う。
「それで、ナギ様」
「ん?」
「味見は……」
「まだ食べる気だったんだ」
「いけませんか?」
「いや、作った側としてはむしろ嬉しいけど」
小さく切り分けて皿に乗せる。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
フィリアは一口分を取り、少し冷ましてから口へ運んだ。
その目がわずかに大きくなる。
「……美味しいです」
「お」
「外側は香ばしいのに、中は柔らかいんですね。それに、このソース……甘いのに酸味もあって、お肉にもよく合います」
「それ、さっきバルドと作った」
「このソースをですか?」
「俺の世界に似たものがあるんだけど、同じものはないからさ。俺が味を説明して、バルドにこっちの料理から使えそうなものを探してもらった」
フィリアがバルドを見る。
「では、お二人で作った新しいソースなのですね」
「そうなるかな」
「元のものとは違うそうですがな」
「うまければいいんだよ」
「ナギ様らしいですね」
「今日会ったばっかりなのに俺らしさ分かる?」
「あ」
フィリアが一瞬止まる。
「噂から、でしょうか」
「どんな噂流れてんだよ、この城」
今度はバルドまで笑った。
「もう一口いただいても?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「今度は確認?」
「……その言い方は使えるのですか?」
「誰から覚えたんだよ」
フィリアが楽しそうに二口目へ手を伸ばしたところで、入口から別の侍女が姿を見せた。
「フィリア殿下。こちらにいらしたのですね」
「あ」
「そろそろお時間です」
「もうですか?」
「はい」
分かりやすく残念そうな顔をする。
それでもすぐに表情を整えるあたりは、やっぱり王女なんだろう。
「分かりました」
フィリアは皿を置き、こちらへ向き直った。
「ナギ様。途中になってしまいましたので、次にお会いした際に改めてご挨拶させてください」
「別に気にしなくていいけど」
「私が気にするのです」
「あ、はい」
「それでは、また」
「ああ。また」
フィリアはバルドとマリアにも声をかけてから、迎えに来た侍女と一緒に厨房を出ていった。
姿が見えなくなってから、俺は入口を見る。
「……王女様なんだよな?」
「正真正銘、フィリア殿下ですぞ」
「普通に厨房来るんだ」
「珍しいことではありませんな。お時間があれば、こうして覗きに来られます」
「王女ってもっと厨房から遠い生き物だと思ってた」
「殿下が聞けば笑われますぞ」
「本人には言わない」
「またお会いになるでしょうに」
「そのときはそのとき」
俺は焼き台へ向き直った。
「さて、まだ焼くぞ」
「切り替えがお早い」
「飯冷める方が嫌だから」
二枚目。
三枚目。
今度はマリアにも生地を混ぜてもらいながら焼いていく。
その横で、バルドは何かを書き留めていた。
「何書いてるの?」
「先ほどのソースの材料と、おおよその分量です」
「俺ほとんど目分量だったけど」
「ですから、私が記録しているのです」
「プロだ」
「料理長ですので」
「それ前も聞いたな」
「何度でも申し上げますぞ」
全部焼き終える頃には、夕食の時間も近づいていた。
すき焼き風の鍋を温め直し、お好み焼きと一緒に食卓へ運ぶ。
そこへエリシアとアデルも合流し、マリアとバルドを含めて席についた。
「これがナギの世界の料理ですか?」
エリシアが早速鍋を覗き込む。
「正確には、こっちの材料も使ってるから『すき焼き風』かな」
「スキヤキ」
「また覚える気だな」
「当然でしょう」
「料理の名前まで研究対象なの?」
「異世界文化ですから」
「便利だな、その言葉」
アデルは鍋から立ち上る香りを楽しむように目を細めた。
「ずいぶん甘い香りがしますね」
「ラグと砂糖と酒を合わせてる」
「ラグを甘く使うのですか」
「俺の世界に似た発酵調味料があってさ。それの代わり。ただ、味は結構違うからバルドと調整した」
「そのまま置き換えたわけではありません」
バルドが補足する。
「ラグはこちらの料理に合わせた使い方がありますからな。ナギ殿の求める味を聞きながら、こちらの材料に合わせました」
「では、ナギさんの世界の料理でありながら、レグナリアの料理でもあるわけですね」
アデルの言葉に、俺は鍋を見る。
「……まあ、そうなるのかな」
日本で食べていたすき焼きとは違う。
地球の材料だけで作ったわけでもない。
俺が味を知っていて、バルドがこの世界の材料を知っている。
その二つを合わせてできたものだ。
「とりあえず食おう。冷める」
「ナギは本当にそこだけは一貫していますね」
「飯は温かいうちが一番だからな」
鍋から具材を取り分ける。
豚肉。
長ネギ。
豆腐。
グラウ。
紫色のリゼル。
エリシアが最初に豚肉を口へ運び、目を瞬いた。
「甘い」
「嫌?」
「いえ。肉に甘い味を合わせる料理はこちらにもありますが、ラグをこれほど使うのは珍しいので……面白いです」
「美味しい?」
「美味しいです」
「ならよし」
マリアはリゼルを食べている。
「街でいただいたときとは、随分印象が違いますね」
「煮ると結構甘くなるな」
「ええ。この味付けにもよく合います」
アデルは豆腐を気に入ったらしい。
「私はこれが好きですね。味が染みているのに、食感がとても柔らかい」
「それは地球から持ってきたやつ」
「では、もう食べられないのですか?」
「同じものは、これで最後」
「それは残念です」
「こっちにも豆はあるし、似たもの作れないかな」
作り方は大雑把にしか知らない。
固めるのに何を使うかも詳しくは分からない。
でも、それこそバルドやミーネと調べれば何か見つかるかもしれない。
「そういえば」
エリシアが卵へ目を向けた。
「先ほどマリアから聞いたのですが、ナギの国では卵を生のまま食べることがあるそうですね」
「話回るの早いな」
「本当なのですか?」
「本当。ただ、生で食べられるようにちゃんと管理されたやつな」
「管理?」
「洗ったり、温度を保ったり、期限を決めたり。俺も詳しい基準までは知らないけど」
「なるほど……」
「それで思ったんだけど、浄化魔法って使えない?」
エリシアの動きが止まる。
あ。
この顔、知ってる。
「例えば卵の表面とか。食中毒の原因になるものを除去できるなら、安全に食えるようにできる可能性ない?」
「……可能性はあります」
「やっぱり?」
「ただし、何を除去するのかを明確にする必要があります。浄化術式は対象の指定によって――」
急に速度が上がった。
「待って」
「ですが、食品保存にも応用できる可能性があります。もし腐敗の原因となる――」
「エリシア」
「はい」
「飯食ってから」
「……はい」
アデルが小さく笑う。
「エリシア様の扱いに慣れてこられましたね」
「数日一緒にいるからな」
「扱いとは失礼ですね」
「今の見て言える?」
「……食事を続けましょう」
「よろしい」
すき焼き風がある程度減ったところで、もう一つの皿を出す。
「で、こっちがお好み焼き」
「オコノミヤキ」
エリシアが即座に復唱する。
「やっぱり覚えるんだ」
「当然です」
切り分けて配る。
最初の一口で、今度はアデルが少し驚いた顔をした。
「こちらのソースも、ナギさんの世界のものですか?」
「元になった味はそう。でもこれはバルドと作った、この世界版」
「城にある材料だけで?」
「そう」
「それは興味深いですね」
「元の味を知らぬ以上、再現できているかは分かりませんがな」
バルドが腕を組む。
「再現できてなくても、これはこれでうまいからいい」
「ナギさんらしいですね」
「今日二人目なんだけど、それ言うの」
「二人目?」
「さっき王女にも言われた」
「フィリア殿下にお会いになったのですか?」
「お好み焼きの匂いにつられて厨房に来た」
アデルが一瞬黙った。
「……いかにもフィリア殿下らしいですね」
「やっぱそういう人なんだ」
「さて、どうでしょう」
「またそれだ」
俺も一切れ食べる。
キャベツの甘味。
卵と出汁を混ぜた生地。
豚肉。
そこへ、バルドと作った甘酸っぱいソース。
「……うん」
やっぱり違う。
日本で食べていたものとまったく同じではない。
それでも俺には、ちゃんとお好み焼きに思えた。
食事が進むにつれて、鍋も皿も空になっていく。
最後に残ったお好み焼き一切れへ、マリアとエリシアがほぼ同時に手を伸ばした。
二人とも止まる。
「……どうぞ」
「いえ、マリアが」
「私は先ほどいただきましたので」
「私もいただきました」
「半分にすれば?」
二人が揃って俺を見る。
「最初からそうしてください」
「なんで俺が怒られた?」
半分に切って渡すと、バルドが笑い、アデルも口元を隠していた。
食事を終え、使ったものを片付ける。
最後に冷蔵庫を開けた。
そこに、見慣れたスーパーの袋はもうない。
豚肉も。
キャベツも。
卵も。
豆腐も。
長ネギも。
地球から持ってきた食べ物は、これで全部なくなった。
「……終わりか」
別に高級品だったわけじゃない。
大学の帰りに寄ったスーパーで買った、どこにでもある食材だ。
帰れば、また買える。
少なくとも、数日前まではそう思っていた。
次に生姜焼きが食べたくなっても、冷蔵庫を開けば日本の豚肉が入っていることはない。
味噌汁を作ろうと思っても、あの豆腐はもうない。
地球の食べ物を最後に食べた。
そう考えると、思っていたより少しだけ来るものがあった。
――帰れれば、また食えるんだけどな。
帰る方法はまだ分からない。
勝手に呼び出されたことを許したわけでもない。
この国を信用したわけでもない。
それはそれ。
でも、今日のことまで嫌だったわけじゃない。
バルドと味を探して。
マリアに手伝ってもらって。
エリシアとアデルが食べて。
途中で、知らない女の子に味見してもらったら王女様だった。
一人で最後の食材を惜しみながら食べるよりは、こっちの方がよかったと思う。
「ナギ様?」
振り返ると、マリアがいた。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
もう一度、空になった中を見る。
「次に何か作るときは、もう全部こっちの材料なんだなって」
マリアも冷蔵庫を見る。
「……そうですね」
「まあ」
扉を閉める。
「それはそれで面白そうだけど」
「面白そう、ですか?」
「今日だけでも知らない食材いくつかあったし。まだ食ってないのも山ほどあるだろ?」
「それはもう」
「じゃあ次は、俺がこっちの料理を教えてもらう番かな」
「バルド様に?」
「うん。作ってみたい」
地球へ帰りたい気持ちは変わっていない。
ここに連れてこられた経緯だって、納得していない。
それでも、この世界にいる間ずっと嫌なことだけを考えて過ごす必要もない。
知らないものを知るのは、普通に面白い。
料理なら、なおさらだ。
「さて」
「お部屋へ戻られますか?」
「その前にバルドに、明日何作るか聞いてくる」
「もう次のお料理ですか?」
「気になったから」
マリアが少し呆れたように、それでも笑っていた。
俺はもう一度厨房の方へ戻る。
地球から持ってきた食材はなくなった。
でも、この世界で食べてみたいものは、むしろ増えていた。




