第87話「悪夢の始まり」
午後六時十二分。
東京ディズニーシー。
夕日は完全に沈み、パークは幻想的な夜へと姿を変えていた。
建物を彩る無数のライト。
水面に映るイルミネーション。
どこからか流れる陽気な音楽。
子供たちの笑い声。
恋人たちの笑顔。
誰もが、この時間が永遠に続くものだと信じていた。
――ただ二人を除いて。
ロストリバーデルタ。
人気のない石造りの遺跡。
その奥で、一人の男が夜空を見上げていた。
黒いコート。
白髪交じりの短髪。
穏やかな笑み。
どこにでもいそうな中年男性。
蔵内イサム。
その隣には、一人の女が立っている。
長い黒髪。
白いワンピース。
人形のように整った顔立ち。
服部ヒジリ。
女は遠くから聞こえる笑い声に耳を澄ませる。
「……幸せそう。」
その声は、小さく震えていた。
イサムは苦笑する。
「そうだね。」
「だから壊したくなる。」
沈黙。
二人は同時に笑った。
まるで世間話でもするような自然さだった。
ヒジリが静かに尋ねる。
「今日は何人くらい死ぬかな?」
「さぁ。」
イサムは肩をすくめる。
「運が悪ければ千人。」
「良ければ数百人かな。」
まるで天気予報でも話すような口調だった。
ヒジリは嬉しそうに微笑む。
「久しぶり。」
「五年ぶりだものね。」
「あの日以来。」
イサムは自分の右手を見つめる。
「ああ。」
「ようやく続きを始められる。」
懐から一本のナイフを取り出す。
躊躇はない。
ザクッ――。
刃が左手首を深く裂いた。
鮮血が石畳へ滴り落ちる。
ぽたっ。
ぽたっ。
ぽたっ。
その血が地面へ染み込んだ瞬間だった。
ズズズズズズ……
石畳が震え始める。
まるで何かが地下から這い上がってくるような音。
ヒジリは目を細めた。
「始まる。」
イサムは血だまりへ手をかざす。
「出ておいで。」
低く囁く。
「――《ブラッド・ネクロマンサー》」
ドクン。
血だまりが脈打った。
次の瞬間。
ボコリ。
赤黒い液体の中から一本の白い腕が突き出した。
続いて頭蓋骨。
肩。
胸骨。
腕。
脚。
人ではない。
骨だけでできた異形。
カタ……
カタカタ……
骸骨はゆっくり立ち上がる。
しかし、それだけでは終わらない。
ボコッ。
ボコボコボコッ。
一体。
二体。
五体。
十体。
二十体。
血だまりが次々と膨れ上がり、無数の骸骨が夜の地上へ這い出してくる。
その光景は、まるで地獄の門が開いたようだった。
イサムは満足そうに笑う。
「行っておいで。」
「今夜のディナーだ。」
骸骨たちは一斉に駆け出した。
カタカタカタカタッ!!
人間ではあり得ない速度。
一直線にパークへ向かう。
その数。
百。
二百。
三百――。
止まらない。
ヒジリは嬉しそうに両手を合わせた。
「いっぱい死ぬね。」
イサムも笑う。
「ああ。」
「本当の夢の国の始まりだ。」
その頃――。
メディテレーニアンハーバー。
「ママー!早くショー始まるよー!」
小さな男の子が笑顔で母親の手を引いて走る。
その後ろでは恋人たちが写真を撮り合い、キャストたちは笑顔でゲストを迎えていた。
誰も知らない。
数十秒後、この景色が地獄へ変わることを。
カタ……。
遠くから、乾いた足音が響いた。
キャストの一人が首を傾げる。
「……あれ?」
暗闇から現れたのは、一体の骸骨。
誰もが最初は演出だと思った。
「すごーい!」
「何かのイベント?」
そんな声が飛ぶ。
骸骨はゆっくりと、一人の男性へ歩み寄る。
男性も笑っていた。
「写真撮っても――」
言葉は最後まで続かなかった。
ブシュッ――。
骸骨の腕が、男性の胸を貫いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「……え?」
男性の口から血が溢れる。
崩れ落ちる。
白い石畳を真っ赤な血が染めた。
悲鳴が上がる。
「きゃああああああああああっ!!」
「ひ、人が……!」
「誰か刺された!!」
そして、その悲鳴を合図にするように。
四方八方から。
無数の骸骨が、人々へ襲いかかった。
夢の国は――
たった数秒で、地獄へと変わった。




