【29】「怖い」も含めていつも通り
ティアの歌詠魔術がもたらした効果は、微々たるものだった。
それでも、その微々たる効果のおかげで、恐怖にあてられていた者達は「体が勝手に死のうとする」という最悪の事態を避けられたのだ。
ユリウスは己の心臓を服の上から押さえる。良かった、まだ脈打っている。恐怖を覚えた瞬間、自分の心臓が動きを止めたような錯覚を覚えたのだ。あと少しで、その錯覚に呑まれて死を受け入れるところだった。
(……ティアの歌に救われたな)
同時に理解する。〈楔の塔〉の秘密に関わっていたのはセビルではない。フィーネと繋がりがあるのは、ティアだったのだ。
(ティアと神の子は、面識があるのか? ……ティアの方は親しげに見えないが)
ティアが姿を見せた時からずっと、フィーネはティアだけを見つめている。その一時だけは、人間らしさの欠如した神様に少女らしさが宿るのだ。
ユリウスが身を起こしたところで、寄り添っていたアグニオールが動いた。
小さな獅子は大きく飛び上がり、その口から火を吹く。アグニオール本来の力と比べると非常に弱い、それでも上級魔術師の火炎魔術相当の威力だ。
魔物の王はフィーネを庇うように片手を前に差し出す。途端に、アグニオールの火は霧散した。
「……上位精霊か」
魔物の王の呟きに、小さな赤獅子はチロチロと火を吐きながら応じた。
「恐怖は、炎霊とは一番無縁のものですから!」
精霊には人間のような感情がない。全くないとは言えないが、元々は魔力の塊。人間とは体の作りも、恐怖の受け取り方も違うのだ。
アグニオールは魔物の王の横にいるフィーネを見る。
「横にいる小さい子は保護するって、ユリウス坊ちゃんが言うから我慢してましたが……そろそろ限界です。燃やしますよ、坊ちゃん?」
「……だめだ。彼女は、ザームエルが生かそうとした存在……」
「それは、ユリウス坊ちゃんです。ザームエル君が一番生かしたかったのは、あの子じゃない」
ザームエルは古代魔導具〈楔の塔カリクレイア〉の契約者であるフィーネの存在を知り、大人達に搾取され続けるフィーネを救おうとした。
だが、結局それは叶わず、ザームエルはフィーネの救出を諦め、ユリウスが平和に生きる未来を選んだ。
ザームエルが救えなかった少女──フィーネは微笑んでいた。
平和のために、他に方法はないから、仕方がないから、と大人達に諦められてきた少女は、どうしてこんなにも、憎悪とは無縁のところで微笑んでいられるのだろう。
ユリウスは拳を握り、声を絞り出す。
「だからこそだ。殺すな、アグニオール」
ユリウスの命令に、アグニオールは火を撒き散らすのをやめる。それでも、敵が何か攻撃を仕掛けてくれば、今のアグニオールにできる最大威力の火球をぶちまけるだろう。
魔物の王が首をゆっくりと動かし、辺りを見た。
「……ここは、興味深いものばかりだ」
その銀色の目が誰かを見るたび、見られた者は恐怖に体を痙攣させる。
銀色の目が、うずくまって昼寝を決め込んでいる〈原初の獣〉を見た。かの巨大な銀狼だけは、魔物の王に見据えられても、恐怖に震えることもない。
魔物の王はどこか納得した様子で呟く。
「人狼の子どもや、〈原初の獣〉が惹かれる理由が分かる」
巨大な銀の狼は、フンと一度鼻を鳴らしただけだった。
また大きく地面が揺れる。揺れの原因は第三の塔〈水泡〉だ。
あちらからは、魔物の誕生を祝福するハルピュイアの歌が響いている。あそこから新たな魔物が生まれているのだ。
「場所を変えましょう」
フィーネの言葉に魔物の王は頷き、フィーネを片腕に乗せて軽く地面を蹴った。二人の体がふわりと宙に浮かび上がる。
魔物の王と距離が広がると、少し呼吸が楽になった。恐怖の対象が離れていく安堵に、ガチガチに強張った体から力が抜ける──と気を抜いた瞬間、魔物の王の声が響く。
「深淵に耐えうるのなら、ついて来るが良い」
真っ直ぐに北の空へ飛んでいく魔物の王を、迷うことなく追いかけたのはティアだけだった。
向かう先は第三の塔〈水泡〉──そこが、決戦の舞台となるのだ。
* * *
恐怖とは心をじわじわ蝕む毒のようなものだ。魔物の王が立ち去ったことで、綺麗さっぱり消えるようなものではない。
誰もが膝をつき、呼吸を整えるのが精一杯の中、ゲラルトは震える足でゾフィーに歩み寄った。
(魔物側は、明らかにゾフィーを殺すつもりだったはず……どうして見逃したんだ?)
魔物の王と神の子フィーネがこちらにやって来たのは、ゾフィーを殺すためだ。
だが、結局二人はゾフィーを殺さず場所を変えた──おそらくゾフィーの優先順位が下がったのだ。それは何故か?
(そうか、本……!)
魔物の封印に必要な本は、一冊しかなかった。そのことをゾフィーは自らの口で叫んでいる。
そして、予備の本は蔵書室に行かないとない、とも。
(蔵書室は第三の塔〈水泡〉──あそこはもう深淵の泉の支配下にあるから、本の回収はほぼ不可能。だから、ゾフィーの優先順位が下がったんだ)
とは言え、現状優先的に保護すべきなのがゾフィーであることには変わりない。なにせ、魔物の王の恐怖に一番強く当てられていたのが幼いゾフィーなのだ。
「ゾフィー、呼吸はできますか?」
「う、うぅーあー……」
「まずはゆっくり吐いてください。吐いて、吐いて、そして吸う」
ゾフィーはついさっきまでは錯乱し、呼吸も危うい様子だったが、今はなんとか呼吸の仕方を思い出したらしい。
ユリウス、エラ、ロスヴィータは全身を震わせ、膝をついている。まだ歩くのは難しいだろう。
〈原初の獣〉だけは、我関せずという態度で丸くなっている。信じられない図太さだ──とそちらに意識を向けていたら、誰かに肩を叩かれた。
ゲラルトは思わず振り向き、ヒッと喉を震わせる。
「あ、兄上ぇ……」
背後に佇んでいるのは、くすんだ金髪のヒョロリと痩せた長身の青年。ゲラルトの兄ヘンリックだ。
兄は平時は頼りなげな人なのだが、剣を持たせると滅法強い。そしておっかない。まして、ゲラルトは奉公先から逃げ出してきた身なのだ。これはもう、いつ首を刎ねられてもおかしくない。
さりげなく首を片手で覆うゲラルトに、ヘンリックが鋭く訊ねた。
「ゲルハルト、端的に答えろ。魔力濃度が上昇している中、どうしてお前達は動けている?」
予想外の質問に、ゲラルトは長い前髪の下で目を丸くした。
てっきり、奉公先から逃げられたことに対する叱咤とか、何故お前がここにいるという言及が始まるのだと思っていたのだ。
(そうだった、兄上は戦場だとそういうことは後回しにする人だった)
兄の眼光は鋭く、戦意は衰えていない──恐ろしいことに、あの魔物の王の恐怖にあてられても戦意を保っていられるのだ。ただ顔色が悪い。呼吸も浅くて苦しげだ。
「兄上? ……あっ、もしかして、また魔力濃度が上がって……!」
ゲラルトは咄嗟に周囲を見回した。
援軍の兵士達も皆、膝をついて苦しんでいる。てっきり、魔物の王の恐怖に当てられたのかと思ったが、それだけではないのだ。
(あの深淵の泉、というものの効果か……魔力濃度が再上昇してるんだ)
ゲラルトはポケットから紙に包んだキャンディを取り出す。
レンが「通りすがりの魔女から貰った」と言い張るキャンディは、魔力濃度の濃い土地でも活動できる代物だ。朝、昼、晩に一粒ずつと言われており、既に朝一粒舐めてきたので、手元にはあと二つ。
そろそろ昼が近いから、一つ摂取する必要があるだろう。
その上で、ゲラルトは兄に夜の分のキャンディを差し出す。
「これを舐めてください。およそ六時間は活動できるはずです」
「分かった」
ヘンリックはゲラルトから受け取ったキャンディを口に含むと、テキパキと部下に指示を始めた。
身動きの取れる者は、動けない者に肩を貸し、魔力吸収効果のある茨の所まで一時撤退。包囲は緩めず、〈楔の塔〉の魔術師達を援護せよ──といったことを部下に命じ、兄は第三の塔〈水泡〉の方へ歩きだす。
「ゲルハルト、お前はここに残り、その子ども達を守れ。仲間なのだろう」
「兄上は……魔物の王を追うのですか?」
「当然だろう」
何を当たり前のことを、と兄の顔が言っていた。それがゲラルトには恐ろしい。理解できない。
兄は魔物の王の恐怖による精神面での負荷と、魔力濃度による肉体の負荷。その両方を受けている状態だ。どう考えても不利ではないか。
「兄上は、怖くないんですか……?」
臆病者め! と叱咤されると思った。もしかしたら、叱咤されたかったのかもしれない。
ところが、兄はポリポリと頭をかくと、戦場にいる時とは違う──実家で雑談をしている時のような口調で言った。
「いや、怖いけど」
「……はい?」
「僕は戦場に出る時は、いつだって怖いよ」
「え」
「怖いけど戦わないといけないのが、うちの家なんだからさ。いつも通りにやるだけだよ」
唖然としているゲラルトを置いて、兄は第三の塔〈水泡〉に向かい走る。
やっぱり兄は理解できない。ただ、自分は兄を──あるいは、自分を取り巻く何もかもを怖がりすぎていたのではないか、とふと思った。
「ゲラルト……悪い知らせだ」
フラフラと頼りない足どりでこちらに近づいてくるのは、ユリウスだ。
彼はいつもの悪人じみた余裕の笑みを引っ込め、険しい顔で言う。
「……〈離別のイグナティオス〉が見当たらない」




