【27】空飛ぶ暴走猪
冬の魔物を仕留めたフレデリクは、ふわりと地面に降り立つ。
ヒョロリと痩せた長身は、いたるところに包帯が巻かれていた。目の下に隈の浮いた顔は青白く、薬と血のにおいがする。まだ動き回れるほど傷が癒えていないのだ。
それでもリカルドは「大丈夫ですか?」とは言わなかった。大丈夫じゃないことも、フレデリクが引き返さないことも分かっていたからだ。
なので、リカルドは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「フレデリクさん、よく間に合いましたね。ランゲの里から飛行魔術で?」
「管理室のバレットさんに頼んで、拠点の村まで連れてきてもらったんだ。あの人、長距離飛行の記録保持者だから」
そう言ってフレデリクは風を纏わせた槍で、リカルドとヘレナの足に張りついた氷を砕く。
ヘレナが口癖の「悲しいです」を封印して、フレデリクに訊ねた。
「……貴方は今回の作戦を、どこまで把握していますか?」
「何も」
リカルドとヘレナは「えっ」と同時に声をあげ、フレデリクを見た。
フレデリクはガツガツと氷を砕きながら、なんでもないことのように言う。
「拠点の村に到着したのが、ついさっきなんだ。そしたら、もう戦いが始まってたから飛行魔術で飛んできた」
ヘレナが額に手を当て、天を仰ぐ。ハラリとほつれた銀髪が美しかった。
「あぁ……なんという行き当たりばったり……空飛ぶ暴走猪……せめて人間に進化して出直しなさい……」
「助けられておいて、そういうこと言う?」
フレデリクはムッとした顔だが、リカルドもヘレナに同意見だ。
「いや、実際かなり無謀っすよ。ついさっきまで水晶汚染で魔力濃度がやばかったんで」
「……なにそれ?」
「水晶汚染すら知らないで来たんすか!?」
おそらくフレデリクは、〈楔の塔〉が魔物達に乗っ取られたことしか知らないのだ。あまりにも不用意すぎる。
呆れるリカルドに、フレデリクは不機嫌そうに言った。
「少しぐらいは聞いてるよ。メビウス首座塔主が重傷なこと、リンケ室長とミリアム首座塔主補佐が亡くなったこと、それと……レーム先輩が裏切ったことも」
レームの名前に、少しだけ胸が痛んだ。リカルドにとっても、ヘレナにとっても、〈百眼の魔女〉アンネリーゼ・レームは偉大な先輩だったからだ。
フレデリクは氷の欠片を払い落としながら、ボソボソと言い訳をする。
「本当に急いでたんだよ。途中でオリヴァーを蹴落としてきたから」
「はい?」
「飛行魔術で追いかけてきたから、蹴落としたんだ。さっさと片をつけないと、オリヴァーが追いつきかねない。それで、魔物の王はどこ?」
フレデリク・ランゲという男は一見温和そうに見えるが、魔物が絡むと誰よりも短気で直情的だ。魔物は絶対に殺す、という意思が人の形をとったかのように、全身から殺意がダダ漏れている。
そんなフレデリクに、ヘレナが告げた。
「その前に伝令の仕事です……第三の塔〈水泡〉に異変あり。魔力濃度対策を再要求します。このままだと、奥まで踏み込んだ味方が全滅してしまう」
* * *
片手にヒュッターをぶら下げて、空中散歩と言わんばかりの軽やかなステップで宙を行く吸血鬼のジルは、〈楔の塔〉の西側、宿舎付近の空で足を止めた。
「おや、我らが王が姿を見せている。直視してはいけないよ、しもべちゃん。魔物の王を見た者は、恐怖に心を蝕まれ、最後は自ら破滅するんだ」
なにそれ怖い。と内心震えつつ、ヒュッターは考える。
(ダーウォックの国王達を殺したのもそいつか……確か、自分で窓から飛び降りたとか言ってたか? 精神干渉魔術に似た能力か……)
そもそも今、戦況はどうなっているのだろう? ヒュッターはかなり早い段階で離脱していたので状況が分からないのだ。
幸い上空からなら、多少は俯瞰して見ることができる。ヒュッターは魔物の王は極力見ないようにしつつ、全体の様子を眺めた。
(ローズの茨の力で敷地内の魔力濃度を下げて、包囲して、攻撃……までしたんだろうな。城壁があちこち壊れてるし。水晶がところどころ剥がれてるから、誰かが揺籠の水晶の鋲を抜いたんだ。つまり今、敷地内は魔力濃度が下がって安全……?)
否、何やら様子がおかしい。主に第三の塔〈水泡〉付近で、魔術師や援軍の人間が膝をついて苦しんでいる。
何が起こっているか分からなかったので、ヒュッターは素直に訊くことにした。
「あのー、ジル様。水晶汚染って、どうなったんですかね? なんか北の塔周辺の様子がおかしくないですか?」
水晶汚染が終わって、ローズの茨が魔力を吸い続けているのなら、既に〈楔の塔〉内の魔力は下がりつつあるはず。それなのに、ジルは涼しい顔をしているのだ。
結局のところ、魔力濃度が濃いままなのか、薄くなったのか、どうにも分からない。
(そういやこいつ、さっき水晶の鋲抜いてたよな? 既に水晶汚染は終わってる風だったのに……)
プラプラ揺れるヒュッターの頭上で、ふふっと楽しげな笑い声が聞こえる。
「水晶汚染が終わり、茨が魔力を吸って、一時的に魔力濃度が下がっているねぇ。だから、人間ちゃん達はゾロゾロと敷地内に踏み込んできたけど……お前達の言う魔力炉だっけ? あそこから〈深淵の泉〉が生まれるんだよ」
「えー……〈深淵の泉〉? が生まれると、魔力濃度が上がっちゃう?」
「だから、お前には俺の血を飲ませておいたんだよ」
これはやべぇぞ、とヒュッターは内心青ざめた。
当初〈楔の塔〉は水晶汚染で魔力濃度が上がり、敷地内に入ることができなかった。だから、人間側は魔力濃度を下げて、敷地内に乗り込んだのだ。
空から見ている限り、既に城壁は破壊され、茨が敷地内に食い込んでいる。一見すると、人間側の優位に見えるだろう。
(……だが、そうやって中に誘い込むのが目的だとしたら?)
魔物達は基本的に建物を活かした戦い方ができない。だが、魔物側に頭が回る奴がいるのは事実なのだ。
もし、人間達が敷地の奥まで入り込んできたところで、また急激に魔力濃度が上がったら? それを可能にする方法があるとしたら?
意気揚々と奥まで進んだ人間達は、全滅だ。
「さぁ、深淵の宴の始まりだ。新たな命の誕生を祝おうじゃない」
ジルはうっとりとした顔で歌い出す。
「──我らは深淵の申し子。人の業より生まれし者。故に人を求めずにはいられない。望めば朽ちよ、望めば果てよ。最後の一人になろうとも。最後の一人になろうとも……」
うわ音痴、とヒュッターは密かに思った。
* * *
ティアにはやるべきことがたくさんあった。たくさんたくさんあったのだ。
お姉ちゃんの説得、フィーネの確保、魔物の王をはじめ魔物達の無力化、ヒュッターの救出──それら全てを並べてティアは考えた。いっぱいいっぱい考えた。
お姉ちゃんの説得──もう少し後にできる。
フィーネの確保と魔物達の無力化──これは、他の人間達でもできる。もとよりティア一人で全てができるわけではない。
ヒュッターの救出──ヒュッターは無詠唱幻術を使って何かを考えている。吸血鬼に捕まっていることにも、何か意味があるのだ。ならば、自分はそれを邪魔しない方が良い。
(……最優先は、ユリウス達の救出!)
魔物の王のそばには、ユリウス達がいた。ティアは西の宿舎前まで一気に飛ぶ。近づくのが怖い。全身の毛がゾワゾワする。あそこに魔物の王がいるのだ。
仲間達を救うべく高度を下げたティアは、無意識に上に飛び上がった。怯える体が勝手に逃げたのだ。
(怖い、怖い、怖い……!)
それでも必死で空で体勢を立て直して、地上の様子を観察する。
ゾフィー、ユリウス、エラ、ロスヴィータが地面に倒れて痙攣している。他の人間達も概ねそうだ。
辛うじて動けているのは、援軍の将ヘンリック、ゲルハルト、〈原初の獣〉、あとはユリウスの体を前足で叩いているアグニオールぐらいか。
(こんなの、身動きが取れなくなる、なんてものじゃない……っ、怖すぎて、体が勝手に死にたがる……!)
この恐怖から逃れるためには、どうすれば良いか? 死だ。死こそ恐怖から解放される救済の一手。そう考えた体が、勝手に死のうとする。だから、ダーウォック国王達も窓から飛び降りたのだろう。
恐怖は魔物の王に近づくほど強くなる。ティアは恐怖を感じるけれど、死にたくはならないギリギリの距離を保つ。距離はティアの足で三十歩、高さは建物の二階ぐらい、これがギリギリだ。
その時、ティアの耳が懐かしくも忌々しい声を聞いた。
「会いたかったわ、ティア」
魔物の王の横に佇み、こちらを見上げているのはフィーネだ。




