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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
十一章 深淵の使徒
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【26】平和に貢献し続けてきた者


 その女は階段を登っていた。歳を取り衰えた足腰で、それでも一歩一歩噛み締めるように。

 女の名は、第一の塔〈白煙〉塔主アウグスタ・エーベル。

 彼女にとって、この〈楔の塔〉は人生そのものだ。まだ娘だった時代から、ずっと、ずっと、この塔に全てを捧げてきた。


『エーベル、外の話を聞かせて!』


 初めに仕えたのは、当時十二歳だったエーベルより二つ年上の娘。古代魔導具〈楔の塔カリクレイア〉の契約者ジビレ。彼女の世話をすることが、エーベルの務めだった。

 一度も日の光を浴びたことのないジビレは肌が白く、手足が細く、体が衰えているのは誰の目にも明らかだ。古代魔導具の契約者になることは、寿命を縮めるらしい。なにせ、彼女のいる部屋はいつも異常な魔力濃度なのだ。

 エーベルはこの部屋に入れるよう、魔力耐性をつける訓練を受け、ようやく三十分ほどなら滞在できるようになった。

 その三十分は、ジビレにとって何よりも楽しみなものであるらしい。


『ジビレ様、お食事が冷めてしまいますよ。どうぞ、お召しになってください』


『食事よりも、エーベルとおしゃべりしたい! 今日はぬいぐるみ遊びをしましょう?』


 この部屋に軟禁状態のジビレはエーベルより二つ歳上だが、思考が幼いのだ。

 ジビレはいそいそと部屋の隅にあるぬいぐるみを持ってきて、エーベルに差し出す。


『私がクマで、エーベルはウサギ。ウサギのぬいぐるみは特別のお気に入りなのだけど、エーベルは特別よ』


 その無邪気な好意を、エーベルはどう受け取って良いか分からなかった。

 哀れみもある、同情もしている、だけどもしかしたら、ほんの少しの羨ましさもあるかもしれない。

 エーベルは才能がなく、魔術師として必要とされなかった人間だ。だから、人類を救う救世主として古代魔導具に選ばれたジビレを、羨ましく思う気持ちもあった。

 ただ、ジビレの境遇は理解している。ジビレは何も知らないのだ。自分の命が古代魔導具によって削られていることも。

 何も知らない彼女を大人達は騙している。そして、エーベルもまた、騙している側の人間なのだ。

 罪悪感、劣等感、羨望、哀れみ──それら全てがエーベルの中にある本物の感情で、それでもエーベルはジビレのことを友人だと思っていた。

 本当に、友人だと思っていたのなら、彼女の手を引いて外に逃すべきだったのかもしれない。だが、彼女がいなくなれば、西の壁は消えてしまう。何が正解か分からないまま、まだ少女だったエーベルは大人達の言葉を信じた。

 これは必要なことだ、これは帝国のためだ、これこそが我らが使命なのだ。


 一年後、ジビレは死んだ。まだ十五歳という若さで。

〈古代魔導具カリクレイア〉は啜り泣いて悲しんだが、大人達はすぐにまた、次の赤ん坊を差し出した。その赤ん坊の世話係もまた、エーベルの役目だ。

 赤ん坊の世話など初めてで、とにかく苦労が多かったが、それでも古代魔導具の契約者を育てているという自負がエーベルの足を動かした。

 同年代の魔術師達はどんどん実力をつけていく。歌詠魔術を身につけた才女アルトに、エーベルは静かに嫉妬した。それでも、自分には重大な役目があるのだからと自分を慰めた。

 たとえ皆が真実を知らずとも、自分は帝国の平和に貢献している。〈楔の塔〉の守護者なのだ。



 * * *



『エーベル様、貴方をお慕いしております』


 ある日、エーベルにそう告白したのは、シャハトという年下の若者だ。

 どうか貴女を支えさせてください、とシャハトは言う。

 シャハトは将来有望な若者だ。見目も良く、魔術師としての才能もあった。決して若いとは言えないエーベルに、彼は好意を伝えてくれたのだ。

 その手を取っていたら、何かが変わっていただろうか。


 ──いいえ、何も変わらないわ。


 あの時のエーベルはそう思った。今もそう思っている。

 既に、その時のエーベルは塔主のお手つきになっていて、胎に塔主の子を宿していたからだ。


『気持ちだけ受け取っておきます。ありがとう』


 半年後、〈楔の塔カリクレイア〉の契約者が死去したタイミングでエーベルは出産し、その赤ん坊は〈楔の塔カリクレイア〉の契約者となった。

 エーベルは自分の娘に母と名乗ることを許されないまま、その赤ん坊を育て続けた。エーベルを母と呼ばせると、〈楔の塔カリクレイア〉が荒れるからだ。

 エーベルは自分が置かれた境遇も、〈楔の塔〉の在り方も、いびつだとは思わなかった。全ては必要なことだ。魔物の侵略から人類を守るために。

 自分はこの世界の平和に貢献しているのだ。



 エーベルの娘は十八歳まで生きた。古代魔導具の契約者としては、かなり長く生きた方だったという。

 一人目、歳上の女の子。友達だったと思ってる。

 二人目、赤ん坊から育てた。娘のようだと思ってる。

 三人目、実の娘だった。母と名乗らず、それでも愛を注いだ。

 そして四人目……戦争に執着した魔物の襲撃に、契約者の死が重なった。最悪のタイミングで選ばれた赤ん坊はフィーネと名付けられた。

 エーベルはフィーネにも他の三人同様に愛を注いでいる。古代魔導具契約者への敬意も抱いている。


(それでも、殺さなくては)


 フィーネはもう、平和を踏み躙る側になってしまったのだから。


(殺して、次の赤ん坊を用意しなくては……少し前に、アイゲン室長に娘が産まれたばかりのはず……)


 足がふらつき、エーベルは壁に手をつく。

 魔力濃度が濃いこの敷地内を歩き回ったせいだ。幼い頃から耐性をつけてきたが、それでもそろそろ三十分が経つ。体に影響が出てくる頃だろう。


(ここで死んでも構わない……わたくしは最期の時まで、〈楔の塔〉に貢献しなくては……帝国の平和を護らなくては……)



 * * *



〈楔の塔〉の庭園の木々は半分ぐらいが氷に覆われていた。少年の姿をした冬の魔物の力だ。

 ふわりふわりと宙を舞う少年が、氷柱の雨を降らせる。それをリカルドは斧で叩き落とし、反撃の隙を狙っていた。


「……正直、ちょっとまずいっすね」


「悲しいです……わたくしの〈嗤う泡沫エウリュディケ〉と相性が悪い……」


 ヘレナはしくしくと泣きながら、水の魔術を操り、水のロープで魔物を拘束しようとした。だが、それを魔物はヒラリヒラリと飛んでかわす。

 リカルドは空中戦向きではないし、ヘレナの〈嗤う泡沫エウリュディケ〉の泡は速度があまり速くない。おまけに、周囲に他の魔物もいるものだから、泡はそちらに流れていってしまうのだ──おかげで下位種の魔物は随分処理できたが。

 ああいう空をフワフワ浮いている魔物は、飛行魔術が得意なフレデリク向きなのだ。

 ハイドン室長をはじめ、飛行魔術が得意な者達は、上空の鳥型の魔物の排除に忙しい。その位置が、微妙にリカルド達の位置から遠いのだ。

 ここは冬の魔物の攻撃を凌ぎつつ、飛行魔術が得意な味方と合流して協力してもらった方が良い。

 飛行魔術使い達は、まだ低空飛行はしていない。魔力濃度の影響がどこまであるか慎重に測っているのだ。


(ただ、水晶汚染は止まったし、茨が魔力を吸っている……これ以上、魔力濃度が上がることはないはずだ)


 だったら、多少は奥に踏み込んでも大丈夫だろう。そう考えたリカルドは、石を投げて冬の魔物を牽制しつつ、ヘレナに言った。


「ヘレナさん、だいぶ魔力濃度が薄くなってきたし、移動して味方と合流しましょう」


「…………お待ちなさい」


 ヘレナがどこか虚ろな目で北の方角を見る。

 まるで神託を得た巫女のような表情。その視線の先にあるのは、第三の塔〈水泡〉だ。


「魔力濃度が……再上昇している?」


 ヘレナの呟きに、冬の魔物がクスクス笑う。


「〈深淵の泉〉が生まれるよ。君達が深淵に呑まれる前に……熱を頂戴?」


 冬の魔物の周囲で、キラキラと氷の粒が輝いた。

 急激に周囲が冷え込む。白いモヤがふわり、ふわりと漂う度に、周囲の木々が凍りつく。

 遠距離からこちらを凍らせにくる気だ、と察したリカルドは素早く退路を探す。


「ヘレナさん、撤退しましょう」


「うふふ、もう遅いよ」


 あ、と思った時にはもうリカルドのブーツが凍りつき、地面に張りついていた。ヘレナも同様に。

 リカルドは斧で足元の氷を叩き割ろうとした。ところが、どれだけ魔力を込めているのやら、氷はちっとも砕ける気配がない。氷の粒一つ一つが意思を持って結びつき、リカルド達をその場に縫い留めているかのように。

 人間が操る氷の魔術とは違う、この氷もまた魔物の一部なのだ。


(まずい。この上位種、全く弱体化してない……!)


 周囲の温度はどんどん下がっていき、いよいよ指先の感覚がなくなる。身じろぎしたら、服がパリパリと音を立てた。凍りついているのだ。

 冬の魔物は、こちらの攻撃が届かぬ空の上で無邪気に微笑む。


「うふふ、暖かい子達だぁいすき。おやすみなさい」


「そうだね、おやすみ」


 冬の魔物の上から、声。

 次の瞬間、魔物の頭部が霧散した。渦巻く風を纏った槍が、頭部を貫いたのだ。

 頭部を完全に破壊してもなお、その槍は魔物の胴体を滅多刺しにした。血肉の代わりに氷の粒がキラキラ煌めきながら飛び散る。


「二度と目覚めるな」


 憎悪を露わに吐き捨てたのは、槍の使い手──フレデリク・ランゲだった。


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