【21】人類の敵
魔物の王は人間の若者の姿をしている。男性にも女性にも見える中性的な顔、血の気を感じない白い肌、白い髪。身につけた黒いローブの中には、どこまでも続くような闇が広がっている。
その白い魔物の姿を目にした途端、ゲラルトは全身の血が凍るような錯覚を覚えた。
戦場で敵に囲まれて全方位から剣を突きつけられているような、あるいは自分の首に兄が剣を突きつけているかのような──とにかく思いつく限りの最悪の事態に直面した恐怖で、頭のてっぺんから指の先まで恐怖で染まり、体が勝手に震えだす。
「お邪魔をしてしまったかしら?」
フィーネが細い眉を下げ、〈原初の獣〉を見た。
巨大な銀の狼は、うずくまったまま鼻を鳴らす。
「この戦いは王のもの。故に、水をさしたことに牙を剥く気はない。だが、俺は俺の道理で動いている」
つまり〈原初の獣〉の言い分はこうだ。
〈楔の塔〉の侵略は魔物の王が計画したことであり、自分はそれに便乗したものである。
故に、水晶を操り〈原初の獣〉を支援したことについて、魔物の王と神の子を咎めるつもりはない。但し、これ以上従う気もない。
物凄く強いが、独自の美学で動く傭兵に近いのかもしれない。
「ごきげんよう、皆さん」
魔物の王の横でフィーネが口を開く。
サラサラと揺れる黒髪、白いドレス、清楚と可憐を体現したような少女だ。それでいて、どこか触れ難い神聖さを感じる。
これは、セビルを見て「美しいけど覇気が勝つ」と感じる感覚に似ていた。「可憐だけれど神聖さが勝つ」そういう少女だ。
どう見てもゲラルトより年下なのに、年下に思えない。これは、年齢を超越した何かだ。
(この子が、オットーさんの娘……古代魔導具〈楔の塔カリクレイア〉の契約者)
ゲラルトは素早くゾフィーの周囲に警戒する。
先ほどからゾフィーを狙っていた水晶、あれはこの少女が操っていたものなのだ。
つまり、この少女は明確にゾフィーを排除しようとしている。
(それなのに、どうしてこんなに殺意も悪意も感じないんだ……)
殺意や悪意を感じたら、ゲラルトはあの少女に人間を感じることができただろう。
この少女は障害を排除するため、ただ目の前の石を退けるかのように、ゾフィーに水晶の刃を向けたのだ。そこに殺意はない。ただ、石ころを退けるだけ。
(……話し合いで説得できる気がしない)
他の者もゲラルトに近いものを感じているのだろう。それでも見習いを代表して、エラが言った。
「フィーネさんですね。〈揺籠〉に刺さった水晶の鋲は、私達の仲間が引き抜きました。じきにこの辺りの魔力濃度は薄くなり、魔物達は活動できなくなるでしょう。私達には貴女を保護する用意があります」
上手い交渉だ、とゲラルトは素直に感心した。
この場にいる全ての者に状況を分かりやすく伝えた上で、フィーネを保護する意思を伝えている。
なによりエラが賢いのは、〈楔の塔〉の魔術師はフィーネの扱いで意見が割れている、という点を伏せたことだ。
フィーネは少しだけ首を傾け、エラを見つめた。風が吹いて、彼女の黒い髪がさぁっと広がる。
「意見は割れているのでしょう? エーベルはわたしを殺して、次の契約者を据えたがっている」
エラに向けられた笑みは可憐で、神々しくて、それなのに口にした言葉はどこまでも冷たい。
彼女は、自分が殺意を向けられていることを理解している。それなのに、どこまでも慈悲深く言うのだ。
「可哀想なエーベル。己の人生を奪われ、娘を奪われ、それでも塔に縛られ続けている……救済してあげなくちゃ」
「既に古代魔導具〈楔の塔カリクレイア〉の機能は、ほぼ停止しています。私達と一緒に……外に……出ま……しょ、う」
全てを言い終える前に、エラが苦しげに悶えだした。
横にいたロスヴィータが慌ててエラの体を支える。
「エラ! みんなも見ちゃ駄目! 魔物の王を……っ、ぁ、がひゅっ、ひゅー」
ロスヴィータが己の喉を掻きむしり、ヒゥヒゥとか細い呼吸を繰り返す。
異変が起こったのは二人にだけではない。ユリウスやゾフィー、周りの兵士達も──そして、あろうことか、周囲の魔物達すらも、地面にうずくまって苦しんでいる。恐怖という感情を持っているか怪しい、植物の魔物までもが動きを止めて、地にひれ伏す。
ゲラルトは咄嗟にヘソの辺りに力を込め、魔物の王を微妙に視界からずらした。
視線のずらし方にはコツがある。完全に視界の外になると急襲に耐えられないから、敵の腕と足だけを視界の端で捉えるのだ。
(なんだ、これは……精神干渉魔術に似た力か?)
人も魔物も含めて、まともに動けそうなのは、兄のヘンリックと〈原初の獣〉ぐらいのものだろう。立っているのが精一杯のゲラルトと違い、この最強格の一人と一匹だけは、動き回れそうな雰囲気がある。
ただ、それでもあと少し距離を詰めたら──果たして、その剣を魔物の王に振り下ろすことができるだろうか?
魔物の王の撒き散らす恐怖とは、そういう類のものである。その存在だけで弱い生き物は恐怖に呑まれ、体の自由を失い、呼吸の仕方を忘れて死ぬ。或いはその恐怖に耐えきれず、自ら命を断つかもしれない。
(それなのに、なんであの子は平気なんだ……!?)
魔物の王の最も近くにいる少女フィーネは、悠然と微笑んでいる。恐怖も苦しみも知らぬ顔で。
この手の精神干渉魔術の類は、精神が未熟な子どもには強く効きすぎると授業で習った。だから、この場で一番苦しんでいるのは、最年少のゾフィーなのだ。ゾフィーはボロボロ泣きながら喉をかきむしり、痙攣している。
それなのに、ゾフィーとほぼ変わらぬ歳の少女が、どうしてこうも平然としているのか。
「この戦いのおかげで、負の感情は充分集まったわ。そして魔力も。負の感情と魔力、その二つが結びつくことで何が生じるかはご存知?」
フィーネの問いは、この場にいる全ての者に向けられているのだ。
恐怖にあてられることなく剣を構えている兄は、「さっぱり分からない。ところで、どいつを斬れば良いのだろう」という顔をしていた。
まぁ、確かに兄は、フィーネの問いの答えを知らないだろう。だが、ゲラルトは知っているのだ。ゾフィーが教えてくれた。
「……深淵の泉。魔物が生じてくるところ」
ゲラルトの呟きに、フィーネは正解と言わんばかりに微笑み、そして両手を差し伸べた。
地面が一度、大きく揺れる。最初は何かの攻撃かと思ったが、おそらく違う。揺れの中心はここより北だ。その方角を見て、フィーネが呟く。
「水晶汚染が無くなっても構わないの。だって、この土地には大きな深淵が生まれるのだから」
ゲラルトは今更、自分の思い違いを理解する。
〈楔の塔〉関係者は皆、フィーネのことを「古代魔導具の生贄にされていた、可哀想な少女」だと思っていた。事実、彼女の身の上は悲惨だ。
生まれた時からずっと地下に閉じ込められ、古代魔導具〈楔の塔カリクレイア〉の力で壁を維持することを強要されてきた。その寿命と引き換えに。
だから、彼女が〈楔の塔〉の人間を恨むのは承知の上で、「助けてあげなくては」と思っていた。
(違う。彼女はそうじゃない)
フィーネに対する強烈な違和感の正体が、ようやく分かった。
彼女は自分を犠牲にした〈楔の塔〉の人間を、本当にこれっぽっちも恨んでいないのだ。
自分の犠牲の上に成り立つ平和など壊れてしまえ、とか、自分を閉じ込めた奴らを殺してやりたい、とか──そういう当たり前の怒りや憎悪が見当たらない。
(この少女は「魔物に囚われた可哀想な女の子」ではないんだ……)
水晶汚染が止まり、ローズの茨で急速に魔力濃度の下がっていた敷地内で再び変化が生じた。濃く、そして悍ましい魔力が、北の方角から溢れ出す。
水晶汚染の魔力も大概だったが、今感じた魔力はもっと別の禍々しさがあった。胸焼けしそうだ。気持ち悪い。レンのキャンディがなかったら、卒倒していたかもしれない。
「この深淵こそ魔物が生まれ、そして還る場所。救済はここから始まるの」
禍々しい魔力が満ちていく中で、フィーネはどこまでも清らかだった。
あぁ、大人達はなんというものを育ててしまったのだ。
「寂しくなんてないわ。みんなこの深淵で溶けて混ざって、また生まれてくるのだから」
少女はどこまでも純粋に、神の子として救済をしようとしている。その純粋さは、魔物にとって神聖たりえるのかもしれない。
ゲラルトは人間だから、素直にこう感じた。
──彼女はどこまでも純粋に壊れている、人類の敵だ。




