【20】獣の道理
弟のゲルハルトが奉公先を逃げ出した、という話をヘンリックが聞いたのは数ヶ月前のこと。
ヴァルムベルクの戦狼の末裔が責任を放棄して逃げるなど、前代未聞の事態である。見つけ次第、責任を取らせなくてはと決めていたら、その矢先に南方遠征が決まり、遠征先で待機していたら何故か黒獅子皇から〈楔の塔〉の支援を命じられ、今に至る。
ヘンリックにしてみれば、魔物討伐の戦場で不肖の弟が魔物を庇っている状況だ。当然に看過できない。
「ゲルハルト、そこを退け!」
「嫌ですっ! フィンは友達なんですっ! 僕達を庇って怪我をしたんです! 殺さないでっ!」
〈楔の塔〉の事情に詳しくないヘンリックは、自分の弟が見習い魔術師をしていたことも、潜入していた人狼のフィンと親しくなっていたことも知らない。
故に、いつもならば「話を聞くのは、とりあえず敵にトドメを刺してから」と考える生粋の武闘派も、流石に攻撃を躊躇した。
弟ゲルハルトの後ろでは、魔術師らしき少年と少女が、黒い毛並みの魔物にすがりついている。
少年の方が震える声で言った。
「ゾフィー…………頼む」
「ユリウスぅ、頼むなんて言わないでよぉ…………頼まれなくたって、やっちゃうもん、あたし」
少女が一冊の本を手に立ち上がった。
* * *
ゾフィーは手にした本を広げ、辺りを見回す。
〈楔の塔〉を覆っていた水晶は、既にパラパラと剥がれ始めていた。きっとこの場にいないレン達が〈揺籠〉にたどり着いて、水晶の鋲を抜いたのだ。
いずれ、辺りの魔力濃度も下がるだろう。ローズの茨も魔力を吸っているから、ここからは人間側が有利になる──つまり、戦いは激化する。
ゾフィーは〈原初の獣〉対策の水球を維持している、エラとロスヴィータを見る。
「エラ、ロスヴィータ……ごめん」
今ここで、ゾフィーが〈愚者の鎖デスピナ〉を使えば、魔物側の最大戦力である〈原初の獣〉を封印できる。
ただ、ゾフィーの手元にある本は一冊。封印できる魔物は一体だけ。
ゾフィーの気持ちを察したように、エラとロスヴィータが言った。
「大丈夫ですよ、ゾフィーさん。私も、ユリウス君と同じ気持ちです」
「謝らないでよ、アタシ達なら、あと十分でも二十分でも保つんだから」
ロスヴィータの言葉が強がりなのは明らかだった。二人とも苦しげな顔だ。あんな強力な魔術を長時間維持しているのだから当然だ。
ゾフィーは膝をつき、地面にうずくまる黒い毛皮の魔物を抱きしめる。
流れる血がゾフィーの肌を汚した。それを汚いとは思わなかった。
「フィン、あたし達さ、誰か一人でも欠けたら、それはハッピーエンドじゃないんだよ……」
返事の代わりに小さな唸り声が聞こえた。
おそらく意識が朦朧としているのだろう。溢れる血は温かいのに、抱きしめた体は少しずつ熱を失いつつある。もう時間がない。
「呪術師ゾフィー・シュヴァルツェンベルクが命じる。〈愚者の鎖デスピナ〉よ、人狼フィンを書に封じよ」
〈愚者の鎖デスピナ〉から光輝く鎖が伸びて、フィンの体を拘束する。鎖と繋がる右手で左手の本に触れると、鎖に包まれるフィンの体が薄くなっていった。同時に、白紙のページに文字が増えていく。
魔物を本に封印する秘術、それは魔物の体を構成する魔力を分解して本の文字にし、記録するというものだ。
つまりこの術は、魔物の肉体を丸ごと保護する類のものではない。弱った魔物の肉体を分解し、魂を定着するためのインクに作り替え、本に定着させるのだ。
──だから、封印された魔物の肉体は、もう元には戻らない。
フィンの姿が完全に消え、後にはフィンが流した血だけが残った。
ゾフィーは血の海で本を抱えて、咽び泣く。封印は成功した。フィンは死んでいない。ここにいる。それでも……。
「う、うぅ……うわぁぁぁぁあああああん! やだよぉ、こんなの、ゾフィーちゃんの望んだハッピーエンドじゃない! こんなの……こんなの……っ」
他者を呪い殺す、シュヴァルツェンベルク家の生き方が嫌だった。
〈楔の塔〉に来て、魔物を封じる力の存在を知った時、「これだ!」と思った。
これなら、誰も呪い殺すことなく活躍できる。この仕事なら、あたしは胸を張って生きていける! ──そう思っていたのに。
どうして自分は友達を封印しているのだろう。
* * *
空の上でティアはゾフィーの慟哭を聞いた。
姉の歌に対抗し、自らも歌うティアの耳に届く悲痛な叫び。
フィンはユリウス達を庇って重傷を負い、そして、ゾフィーは〈愚者の鎖デスピナ〉の封印効果をフィンに使った。用意できた封印の本は一冊だけ。
それを敵陣の最大戦力である〈原初の獣〉ではなく、無力なフィンに使ったのだ。
(ちょっと前のわたしだったら、理解できなかった。あの人間達は気が触れたのかと考えた)
今はゾフィーの気持ちが分かる。人間の気持ちが、分かってしまう。
同時に、魔物であるフィンの気持ちも分かるのだ。
(フィンは最後まで魔物だった。魔物のまま、自分の執着を貫いて……ユリウス達を助けたんだ)
それなら自分は? とティアは己の胸に問う。
繁殖能力を失ったティアの望みは、空を飛んで歌を歌うことだけだった。
だが、今はもうそれが全てではなくなってしまった。
(わたしの執着は……)
* * *
恐ろしい兄の前に立ち塞がり、ゲラルトは歯を食いしばって泣いた。
(僕は、なんて無力なんだ)
ゾフィーとフィンは見習い魔術師の最年少で、程度の差はあれど、誰もが保護しなくてはいけない対象だと認識していた。
それなのに、最年少のゾフィーにフィンの封印をさせてしまった──その事実が、その場にいる者達の肩にのしかかる。
(兄上は、相当困惑しているはずだ)
ゲラルトもそうだが兄のヘンリックもまた、〈楔の塔〉に来るまで、魔物が現代も生きていることを知らなかった側の人間なのだ。
古代魔導具〈愚者の鎖デスピナ〉による魔物の封印も、兄には何が起こったか理解できなかったのだろう。
悲しきかな、ゲラルトの家は貧乏で、魔導具自体そうそう見かけないのだ。古代魔導具など言わずもがなである。
(多分、兄上はこう考えている筈だ。「トドメを刺そうとした魔物が突然消えた。何故?」「奉公先から逃げた弟がここにいる。とりあえず捕らえておきたいが、優先すべきは戦闘」……戦場にいる限り、兄上の最優先事項は僕ではなく、戦闘だ)
その時、パシャンと水の跳ねる音がした。音の方に目を向けたゲラルトは息を呑む。〈原初の獣〉を封じる水球が壊れたのだ。
エラもロスヴィータも、地面に膝をついて荒い呼吸を繰り返している。二人とも相当無理をしていたのだ。
(それなのに……二人があんなに必死に紡いだ魔術なのに……!)
〈原初の獣〉は怪我一つなく、呼吸を乱してすらいない。
絶望的な状況の中、全く絶望していないのは兄だけだった。こういう時の兄の考えはシンプルだ。
『敵が水球の中にいたからトドメを刺せなかった。水球を出たならトドメを刺す』
強敵が水球から出てきてしまった、ではなく、敵に剣が届くようになった、と考える人なのだ。
その考えを裏付けるように、兄ヘンリックが〈原初の獣〉に剣を向ける。
また、激しい戦いが始まるかと思われたその時、〈原初の獣〉が口を開いた。
「おい、その封印の本はまだあるのか」
〈原初の獣〉が見ているのはゾフィーだ。
これは上手くすれば、駆け引きができるのではないか? 本がまだあると思わせれば、牽制ができる。だが、駆け引きのできないゾフィーはボロボロ泣きながら言った。
「蔵書室に行かないとないよぅ……うぅぅ」
「なら、待っていてやる。取ってこい」
〈原初の獣〉の言葉に、誰もが絶句した。
あの魔物は何を言っているのだ。ゲラルトは慎重に魔物を観察した。
〈原初の獣〉は明らかに不機嫌そうに、前足で水晶の残骸をひっかいている。
「この水晶が邪魔しなけりゃ、俺は封印されていた。お前達の勝利だった。この勝敗をひっくり返すのは、俺の執着に沿わない」
銀の狼は昼寝でもするかのように、その場に丸くなる。攻撃の意思を感じない体勢だ。そうして目を閉じ、不機嫌そうに唸る。
「最高の剣術、最高の魔術、最高の道具──人間の技術の最高峰との戦いだったのに、邪魔しやがって」
なんて生き物だ、とゲラルトは戦慄した。
人類最高峰のヘンリックの剣術。
エラとロスヴィータの水球の魔術。
そしてゾフィーが操る古代魔道具〈愚者の鎖デスピナ〉。
人間の技術の粋の三段仕込みだ。それは人間の技術をねじ伏せることに執着する〈原初の獣〉にとって、最高の喜びだったのだ。
〈原初の獣〉は閉じた目の片方を開き、ゲラルトを見る。
「……道理に合わんぞ、人間」
あ、違う。とゲラルトはすぐに気づいた。これはゲラルトに向けられた言葉じゃない。
振り向くと、ゲラルトの背後から歩み寄ってくる者がいた。
肌も髪も白い黒いローブを着た若者と、真っ黒な髪に白いドレスの少女。
その容姿を、魔術師達は共有している。
魔物の王と、神の子フィーネだ。




