【12】戦士
真っ黒な獣の頭。面影なんてまるでない。それでも、ユリウスには分かった。
「フィン……」
ユリウスは無言で拳を握りしめた。
グチャグチャの感情と焦燥。それらに対する葛藤は、もう済ませた。もうここは戦場だ。
──笑え、ユリウス。強者は笑うものだ。
「ク、ク、ク……人狼よ。俺と取引をする気はあるか?」
返事の代わりに、フィンはグルグルと唸った。
ユリウスは片手を前に差し伸べる。いつもなら、手のひらに金貨をのせるところだが、今は何ものせない。魔物にとって、金貨はそれほど魅力的ではないからだ。
フィンに対し、ユリウスは情で訴えようとは考えなかった。
自分達は共に切磋琢磨した仲間だろう──なんて言葉は、どうせゾフィーやロスヴィータあたりが言うだろう。
だが、ユリウスは知っているのだ。種族の壁は、情や思いの強さだけでどうにかできるものではないと。
「俺の右腕となるのなら、お前に相応の待遇を用意しよう」
利害の確認、明確な契約、確かな報酬、それらが安心材料になるのなら、幾らだって用意してやる。
(金と権力と契約で、お前の立ち位置を守ってやる…………だから戻ってきてくれ、フィン)
狼の唸り声が止まる。
その人狼は、まるで人間みたいに苦笑していた。
「……こんなになっても、オイラにそんなこと言ってくれるんだね」
それは、ユリウス達のよく知るフィンの声だった。
フィン、と名前を呼びたくなる。だが、フィンは小さく頭を横に振った。
かつて金貨を差し出された時のように。
「それでも、オイラは魔物なんだ。きっと、みんなが思っているよりずっと」
フィンは頭を持ち上げ空を仰ぐと、大きく吠えた。ビリビリと空気が震える咆哮に、ユリウスとゾフィーは立ち尽くす。
ゲラルトだけは冷静で、それでも彼は剣を抜かなかった。
フィンはその前足で地面を蹴り、ユリウスに飛びかかる。巨体にのしかかられ、ユリウスは呆気なく後ろに転がった。
「ぐるぅぉぉおおおおおおおぅ!」
フィンは大きな口で、ユリウスの肩にかぶりついた。
ゾフィーが悲鳴をあげる。そこでようやくゲラルトが動いた。ゲラルトは剣の刃ではなく、柄の部分をフィンに叩きつける。
黒い人狼は地面を転がり、すぐに体勢を立て直して茂みの奥に逃げていく。
へたり込んでいたゾフィーが震える声で言った。
「フィン、どうして……あれっ、でも、ユリウス怪我して……ない?」
「殺意を感じなかったので、攻撃を躊躇いました……すみません。ユリウス、大丈夫ですか?」
「……あぁ」
ユリウスはフィンに噛み付かれた肩の辺りに触れた。血は出ていない。まるで甘噛みのような噛み方だったのだ。
ローブを調べたユリウスは気がついた。涎で湿ったローブの弛みに何かが張りついている。ドングリよりも小さいそれは、どうやら紙を丸めたものらしい。ご丁寧に油紙で包んである。
(そうか、歯の間に仕込んで……)
唾液で湿らないように、油紙を使ったのだ。そんな人間らしい真似ができる魔物なんて、そうそういないだろう。
ユリウスは慎重に油紙を剥がし、丸めた紙を広げる。
そこには、フィンの拙い文字でこう書かれていた。
『だいじなモノは、わたしのへやに』
ユリウスは無言でその紙を、ゾフィーとゲラルトにも見せた。
ゾフィーが口元に手を当てて呟く。
「なんで、わざわざ、こんなこと……」
「クク……魔物は耳の良い者が多い。漏洩を警戒したのだろう」
仮にこの紙が魔物に見つかっても、意図を正しく理解できる者はいないだろう。
わたしの部屋──フィンとユリウスが使っていた宿舎の部屋だ。
三人は顔を合わせて頷き、敷地内西の宿舎に向かい歩き出す。
今、三人がいるのは南側。比較的正門に近い場所だ。三人はなるべく木陰に隠れて移動をする。だが、三人は決して気配を殺すことに長けた狩人ではなかった。特にユリウスとゾフィーの身体能力は一般人程度。足音を殺すことにも慣れていない。
今まで、見つからなかったことの方が奇跡なのだ。
「止まってください」
ゲラルトが硬い声で促し、剣を抜いた。続く言葉が置かれた窮地を突きつける。
「これは、本物の殺気だ」
それが、あまりにも静かに現れたものだから、ユリウスは大岩が動いたのかと思った。
くすんだ肌色に、苔のような緑と茶色でまだらに染まった肌、人間の倍以上の体躯、毛髪のない頭部は人間とは耳の形状が異なる。
そして、鼻。人間なら真っ先にこの鼻を見て豚を連想し、そしてこの魔物の名前を思い出すだろう。
──オーク。
その魔物は獣の皮を体に巻きつけ、手に巨大な木の棍棒を握っていた。その巨躯から振り出される一撃は、人間の頭など容易く埋没させるだろう。
人と豚の中間のような顔、だけどその目にユリウスは明確な知性を感じた。これは、ただの獣ではない。
「アグニオール!」
「はい、ぼっちゃん!」
アグニオールが一抱えほどの火球を放ち、少し遅れてユリウスも短縮詠唱で雷の矢を放つ。
ブゥン、と強い風を感じた。オークが棍棒を振るったのだ。重量のある物を高速で振るうことで生じる風と圧が、ユリウスに死を連想させる。
火球と雷の矢は、確かにオークの腕に触れたのだ。だが、一振りで打ち消された。無論、多少は効いているのだろう。肌の表面が軽く痺れた程度には。
「下がって!」
ゲラルトが叫んで剣を振るう。その一撃は、人間なら腕を切断していたほどの威力なのだろう。だが現実は、オークの肌に浅い傷を残しただけだ。
「人間よ」
オークの口が動いた。フゴッと息を吐く音の合間に聞こえたのは、人の言葉だ。
「女を置いていけ。さすれば、殺さぬ」
ゾフィーがヒィッと息を呑む。
オークは雄しか生まれない。故に、人間の女を攫って繁殖するのだ。人間の雄を攫うハルピュイアと似ている。
「ゾフィーを渡すつもりはありません」
「そうか」
返事は簡潔。同時に、殺意が膨れ上がった。
戦闘行為に疎いユリウスでも分かる。
知性のある強者に相対した時の恐怖と、野生の獣と出くわした時の恐怖は別物だ。このオークからは、その二つの異なる恐怖を掛け合わせたような、未知の感覚があった。
オークは下位種の魔物に分類される。だが、下位種とは決して人間が侮って良い相手ではないのだ。
これを倒すには長い詠唱がいる。それだけの時間をこの魔物は許してはくれないだろう。
「ユリウス……行ってください」
ゲラルトが剣を構えて言う。
ゾフィーはもう涙目で震えていた。この魔物に捕まった自分の末路を想像してしまったのだろう。本当はユリウスも怖い。
棍棒で殴られ、頭が潰れた自分を想像すると震えが止まらない。かつて浮浪児だったユリウスは、強者に逆らうことの恐ろしさが骨身に染みている。
(あの頃を思い出せ。足を止めたら、あいつらは骨の髄まで弱者をしゃぶるだろう)
ユリウスはオークの顔面を指差す。これは、「あそこを狙え」というアグニオールへのサインだ。指示通りにアグニオールが火球を放つ。流石に顔面狙いは、眼球等にダメージを喰らいかねない。オークが腕を持ち上げ、顔を庇った。
その隙に、ユリウスはゾフィーの手を掴んで走る。目指すは宿舎──フィンのメッセージが示す場所だ。
「行くぞ、ゾフィー!」
「う、うううううぇぇぇうぅぅぅぅ」
魔物の恐怖に当てられたゾフィーは、ボロボロと泣きながら、それでも懸命に足を動かしてユリウスと共に走る。
「ゾフィーちゃん! がんばですよ! 怖いのが来たら、わたしがメラッとしてあげますからね!」
「うううううん、がんばりゅぅぅぅ、あ、あたしは、じゅじゅちゅしだぞー! こわいんだぞー!」
アグニオールの能天気な発言が、今はゾフィーに良いように作用してくれて、それが有り難かった。
* * *
オークがゲラルト目掛けて棍棒を振り下ろす。それをゲラルトは慎重にかわし、オークの脇腹を剣で切りつけた。だが、浅い。
切り付けると同時にゲラルトは後方に飛ぶ。オークが一度振り下ろした棍棒を、逆方向に──つまりは回避したゲラルト目掛けて振り上げたからだ。
(なんという力だ。図体が大きいから鈍重と思い込んでいたが、実際は速くて重い)
これが、水晶鋲から解放され、充分な魔力を得た魔物の本気なのだ。
現代では、下位種の魔物は水晶領域のおこぼれの魔力で、なんとか生きながらえているという。
だが今の〈楔の塔〉は、水晶汚染によって水晶領域と同等の濃厚な魔力で満ちている。おそらく、これこそが旧時代の魔物達の本来の力なのだ。
ゲラルトはオークの身につける毛皮と棍棒を見た。魔物は基本的に道具に頼らない、が必ずしもそうでないことは、上位種の魔物達を見ていれば分かる。
そしてこのオークもまた、有り合わせの物で防具を、武器を作ったのだ。
「貴方が、その膂力に見合う武器を得ていれば……どんなに優れた戦士であったでしょう」
思わず零れた呟きは、辺境で戦い続けた一族の人間ならではのものだった。
ゲラルトは戦いが苦手だ。それでも、剣聖の孫として鍛えられてきたが故に、戦いにおいて有効なものがあると意識をしてしまう。
オークの攻撃は、ただガムシャラに棍棒を振るうものではなかった。人間の動きを観察して対処する、己の体の使い方を意識する──武術の礎となるものが、そこにあるのだ。
皮を重ねた服も、木を削った棍棒も、限られた資源の中で生き延びてきた知恵だ。そう、このオークには知性がある。
もし、充分な技術と環境があって、長剣や戦斧を得ていたら、鉄鎧を着込んでいたら、どれほどの脅威だっただろう。
「戦士か」
フゴッと漏れた呼吸の合間に、呟きが聞こえた。
オークは「戦士、戦士」と反芻するようにその単語を繰り返し、ポツリと言う。
「それは良い言葉だなぁ……行き場を失い、同胞を失い、我らは最早、獣同然の生き方しかできなかった。かつてのオークであったなら、戦士を名乗る者もいたであろう」
その言葉には、音もなく水底に沈んでいくような寂しさがあった。
水底に沈んでしまえば、誰も見向きもしない。そのことを理解している寂しさだ。
ゲラルトは剣を握り直すと同時に、このオークに対する向きあい方を変えた。獣を狩るのではなく、戦士を討つものとして。
「先の言葉を訂正します。貴方は立派な戦士だ」




