第二話 トアールの熱い夜-1
第二話
『トアールの熱い夜』
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慧眼の館。狭間の館。亡者の館。識者の館。
――それは、数多の呼び名を持つ。
西方の砂漠の中心に夢幻を見せ、北の凍てついた湖上に降り立ち、気づけば南方の活火山群の狭間に姿を現す。
――それは、数多の扉を持つ。
幾千幾万の書物と、歴史の遺物を抱え込み、知を積み上げ、人の生を綴り、物語を編み続ける楼閣。知を司る神の秘密の館。
その名を、『ルーメニクス大魔法図書館』。
誰が管理しているのかも、誰が訪れ、誰が去っていくのかも、定かではない。
ただ、知識を求める者の前にのみ現れると囁かれる、伝説の魔法図書館だ。
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ただのセレナにとって、それが最悪の始まりになったのは、イグニスという名の青年が酒場で相席をしてきた夜のことだった。
トアールの夜は長い。
燦然と輝く装飾、喧騒と艶やかな色に満たされた空気。酒と宝石、金と賭けがすべてを決める、眠りを知らない街。染色と鉱石の街として知られ、職人と鉱山夫、商人たちが絶えず行き交う交易と歓楽の都でもある。
とりわけ北方で採れる「燐灰石」は、加工しやすく柔らかな輝きを持つことから特産品として重宝されていたが、近頃はそこに「光を放つ燐灰石」が混じるという噂まで広がり、外から人も金も欲も、以前よりずっと露骨に流れ込んできていた。
そのせいで、街一番の賑わいを誇るメラード通りは、今夜もひどい有様だった。
道端で誰かが酒に潰れていても知らぬふり。金を失って身ぐるみを剥がされても見て見ぬふり。稼いだ金を一晩で賭場に沈めても、誰も眉ひとつ動かさない。幸福は選ばれた人間にしか訪れないくせに、悪夢だけは平等に配られる。そして、この街の住人にとってそれは悲劇ではなく、どこか笑い話に近いものだった。
喧騒から逃れるように、セレナは行きつけの酒場〈三本杉〉へ入った。
メラード通りの路地をひとつ抜けた先にあるその店は、ほどよく混み合っていた。トアールの住人は賭け事が好きで、〈三本杉〉も例外ではない。賭け好きの店主の趣味で、庶民のチェス賭博が盛んに行われている。
セレナは迷わず、人の少ない一角へ向かった。途中で「いつもの」と声をかければ、席につく頃には若い女の店員が安い麦酒を運んできてくれる。若干ぬるいそれをひと口呷って、ようやく肺の奥の張りつめたものが少しだけ緩んだ。
けれど、落ち着いたのも束の間だった。外から刺さるような視線を感じて、セレナはわずかに眉を寄せる。フード姿の女がひとり、この酒場で目立たないはずもない。賭場にいる女の大半は飾りで、酒場に集う女たちはたいてい、チェス盤を見るのではなく、チェスをする男たちの隣に侍っているからだ。
見られること自体には慣れている。だが、不躾で下劣な視線は、口をつけたばかりのコルボート産の麦酒をさらに生温く感じさせた。
ああ。今夜は誰のおごりで、この気分を晴らそうか。
セレナは唇についた酒を、ちろりと舌で舐めた。
「ため息ばかりだね。相席、いい?」
凪いだ水みたいに穏やかな低い声がした。
騒がしい店内から、自分のテーブルの真向かいへ、セレナは視線を向ける。誰も座っていなかったはずの席に、見知らぬ青年がいた。青年だと思ったのは、その見た目のせいだ。とても若く見える。
彼はセレナと同じ麦酒の木杯を傾け、口元を僅かに和らげた、人好きのする笑みを浮かべていた。
(……いつから?)
そこでようやく、先ほどまで自分に向けられていた好奇の視線の一部が、この青年にも注がれていたのだと気づく。とくに女たちの目は、唐突に現れたその美貌にあからさまに吸い寄せられていた。
銀糸のような髪は肩にかからない長さで整えられ、灯りを受けるとわずかに青みを帯びていた。切れ長の蒼い瞳は冷たさを秘めながらも、どこか柔らかな光を宿している。
多くを語らずとも人の視線をさらってしまう顔立ちだ。ひと目で、その場の空気を変えてしまえる顔。セレナは無意識のうちに、すっと視線を逸らした。
身につけているものは黒一色。仕立ては上質で、酒場よりも高級料理店のほうが似合いそうな雰囲気をまとっている。
そんな場違いな青年は、セレナの手元の木杯を見て口を開いた。
「成人してる? 未成年が来るような場所じゃないよ」
「いきなり失礼ね」
セレナはむっと眉を寄せる。
「そういうあなたはどうなの?」
「あはは。失礼。もちろん飲める歳さ」
やや幼さの残る顔立ちでよく言う。セレナはむっとしたまま、相手を値踏みするように見た。こういう絡まれ方には覚えがある。
「きっと、あなたより年上よ」
「……そう。疑って悪かった」
気取った話し方だ。セレナはフードの下で、ちらりと相手を観察した。
「チェスは? カモを探してるのかと思ったけど」
まるで知り合いに声をかけるような気軽さだった。セレナは口元だけで、にっこりと拒絶の笑顔を作った。本当に、目の前の青年に見覚えがなかったからだ。
「もしかして、あなたがなってくれるの?」
「うーん。それはどうしようかな」
「誰かと飲みたいだけなら、別のテーブルをおすすめするわ。あちらに混ざってきたらどうかしら」
面倒になったセレナは、もっとも賑わっている一角を視線で示した。フードを深く被っているぶん、顔の上半分は青年にも見えていないだろう。それでも口元くらいは見えるはずだ。
にこにこにこ。
貼りつけた笑顔は、言葉にしない挑発そのもの。笑顔を武器にした戦いなら、セレナだって引く気はない。
それでも青年は、人好きのする笑みを崩さないまま、席を立とうともしなかった。
穏やかな水面の下で、静かな睨み合いが続く。そして先に動いたのはセレナだった。杯を置き、灰銀色の眼差しに鋭い光を宿したまま、青年を見据えて告げた。
「歩兵をEの1」




