第一話 凍雨
第一章 第一部 『必然の出会い』
第一話
『凍雨』
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骨の奥まで冷える雨が、セレナの細い体を打ちつけていた。糸のように細く、途切れない霧雨が町を覆い、景色の輪郭をぼかしていく。
セレナは外套のフードを深くかぶり、濡れた石畳に小さな靴音を刻んだ。息は浅く、胸の奥は空洞のように冷えている。意識は途切れかけていたが、足だけはその道順をしっかり覚えていた。
ここ右、角は曲がらず、次を左。――幼い日、乳母に手を引かれて歩いた曲がり角を右へ。
ただひたすら歩き続け、やがて雨に霞む視界の先に、黒鉄の門がそびえ立つ。黒く、重く、昔と同じ装飾の施された美しい門。父が好きだった蔦の意匠。その中央には、由緒あるヴァレンティア伯爵家の紋章が描かれている。
セレナの喉がごくりと音を立てた。
門に近づき、錆びのない真鍮のノッカーに手をかけた。冷たい金属が掌から熱を奪う。指の関節には、まだ躊躇いが溜まっていた。
――この門を叩けば。
叩けば、過去が音を立てて目を覚ます。叩かなければ、夢は夢のまま。セレナは、自分の存在を確かめることもできない。セレナは迷ったのち、一呼吸おいて、叩いた。ノッカーを浅く振り下ろして。
小さな動きでも、幾分、大きな音が鳴り響いた。低い音は雨に混じり、波紋を広げ、邸内に吸い込まれていく。
そしてセレナは祈るように胸の前で指を組んだ。はぁ、と息を吹きかけて、かじかんだ指先を温めて待つ。痩せた指。爪の間にこびりついた泥。図書館を抜け出すときに拭った涙の痕が、まだ頬に残っている。乾いた後のせいで、はりついたように顔が引き攣っていた。
しばらくすると、門の脇にある詰所から兵士が姿を現した。
「用件は」
鋭い声に、セレナは肩を揺らしてたじろいでしまう。
「わ……、わたし、セレナ、ば、ヴァレンティアです。父と母と、妹に――か、家族に会わせてください」
その名を口にした瞬間、セレナは、舌の奥が痙攣したかのように思った。何年ぶりに、音にした呼び名だろうか。気丈に告げたつもりだったが、声は震え、雨に掻き消えてしまいそうだ。
しかし、その勇気をよそに、兵士の眉間には深い皺が寄った。
「下がれ。卑しい乞食め」
「え……?」
「無礼にもほどがある。セレナ様は、十歳の時にお亡くなりになった。不敬罪で鞭打ちにされたいか。さっさと失せろ!」
打ち捨てられた言葉に気圧され、セレナの足元の水たまりが弾ける。兵士は鼻で笑い、背後に合図を送った。雨の向こうから、別の兵士が出てきていた。
「ちが……っ! 戻れたから! だから、母と父に、い、妹に会わせてください! お願いします!」
「何度も言わせるな。セレナ様はすでにお亡くなりになっている」
「ち、ちがう――っ」
自分の足元の煉瓦が、ガラガラと崩れていく。セレナはふらふらと後ずさった。
「どうせ伯爵家に取り入ろうとしたのだろう。名を詐る悪趣味な芝居は他所でやれ」
「わ、わたしは……!」
一歩、踏み出す。雨を吸った外套の裾が重く脚に絡みついた。
「ちがう、私は、私は死んでなんかっ――! は、母は冬になると蜂蜜入りのミルクを温めてくれるの。父の書斎は蝋の匂いがして、机の端にインクの染みが――」
甘い匂い。あたたかな指先。口から溢れた断片は、雨の表面で解けて消えていくように、虚しさしか感じられなかった。自分でもこの記憶が合っているのか確信は持てなかった。記憶の輪郭は薄れて、色だけとなってしまったから。
その記憶の回想を突き破るかのごとく、兵士が声を荒げた。
「怪しいやつめ!」
「いっ……!」
兵士のひとりがセレナの腕を掴み、身体を拘束する。
「伯爵家のことを調べたのか! ありもしない噂を流すつもりか!」
「……何を騒いでいるのですか」
その時、屋敷の方から傘を差した老人が現れた。
執事のハインセだ。セレナが幼少期から伯爵家に仕えていた執事の背筋は、昔と同じく真っすぐ伸びている。
この人ならば、とセレナは藁にも縋る気持ちで顔を上げた。執事は兵士から状況を聞くと、濡れネズミの少女を一瞥して、そして冷淡に告げた。
「セレナ様の名を騙る子供がいると聞きました。その名を騙るのはおやめください」
セレナの膝は、がくがくと揺れた。
「……わ、わたし、ほん……ほんとうに……」
言い終える前に、兵士の槍の石突きが、セレナの肩を押し退ける。雨で足を取られた身体は、たやすく石畳に倒れてしまった。ぶつけた背中の痛みに肺の空気が一気に押し出され、口の中に鉄の味が広がり、視界の端で雨粒が跳ね飛んだ。
「二度とここへ近づくな。ここへきても金は貰えないぞ!」
槍の柄が地面を打つ。
「そ、そんな……っ」
セレナはハインセに手を伸ばしたが、彼は視線をそらし、兵士に視線で合図を送った。
「この不審者を屋敷から離れた場所へ。それから……、その名前はもう聞きたくないのです」
雨より冷たい声音だった。部外者へと向けられた瞳に、セレナの喉がヒッと震えてしまう。ハインセは、本当にセレナを認識していない。
「どうかお引き取りを。ご家族の心を、これ以上乱さないでください」
執事も、兵士たちも、嘘を言っているわけではない。
『セレナ・ヴァレンティア』は十歳で死んだ子どもなのだ。
ハインセは視線をそらし、背を向けて邸宅へと消えていく。セレナはその背を追いかけようとしたが、兵士に止められまた地面へ投げ飛ばされた。
「まったく、良かったな。子供だから今回は見逃されたんだぞ。そもそも、そんな身なりじゃあな、門前払いなんて当たり前だろうがよ」
一人の兵士が吐き捨てる。
「あたかも生きていたと思わせて、取り入ろうとしたんだろうが。知らないのか? これだから貧民街のやつは……」
また別の兵士が呆れたように言った。
「あのセレナ・ヴァレンティアの名を騙るなど、愚かにもほどがある。ヴァレンティア家の長女は悪逆非道の子供。その名を語っても何の得にもならないぞ。死んだことを喜ぶやつもいたくらいだ」
「え……?」
セレナは雨に張り付く髪もそのままに、兵士たちを見上げた。
――どういうこと。
脳がその言葉を理解する前に目の前で鉄の門が動き出した。蝶番が軋み、重さが空気を押しやった。
セレナは鉄の格子に向かって手を伸ばした。指先が空を掴み、雨の糸だけがまとわりつく。その勢いのまま地面に倒れ、水たまりの中へ手をついていた。
「父さま……母さま……っ!」
門の向こう、邸宅の二階の窓。
暖かな明かりが雨の中でぼんやりと光を放っている。けれども、あの向こうに、どれだけ伸ばしてもセレナの手は届かない。
兵士は飛びつこうとしたセレナを無理やり押さえ、乱暴に腕を取って引き起こした。そのまま伯爵邸から遠ざかった森の中まで引きずり、突き飛ばす。
「う、あっ……!」
「二度と来るな。乞食風情が」
もうひとりの兵士が槍の柄で地面を一打ちする。乾いた音が、水の底から聞こえてくるみたいに遠かった。
それからセレナは、しばらく暗い森の中に呆然と座り込んでいた。
雨粒が肩に、首筋に、土の匂いと混じって落ち続ける。体温が、ゆっくりと奪われていく。肋骨のあたりがずきりと痛み、濡れた髪が頬に張りついた。外套は重く身体にまとわりつき、見上げた空は低く、黒い雲で塗りつぶされた絵のようだった。雨は終わる気配を見せない。
胸の奥で、糸が一本、音もなく切れた。
(――悪い子だったから)
暗い言葉が沈んでいく。抵抗しようという気力は起きなかった。抵抗の仕方そのものを、思い出せなかった。
「そう、だ……因果応報、か」
セレナはゆっくり立ち上がり、ふらつく足で邸宅に背を向けた。振り返れば、さらに何かが崩れる気がしたからだ。
街灯が雨の柱を照らす通りを抜け、坂を下り、裏路地へ入る。馬車の轍に溜まった雨が薄い鏡になり、街の灯を歪めて映している。心の中の扉がひとつ、またひとつ閉じていく。柔らかなものが入り込む余地が、少しずつ塞がっていく。
(――わたし、まちがえたのか)
セレナは立ち止まる。そして、泥まみれの足元に視線を落とした。
その時、街角に車輪の音が響いた。セレナは、その音の方へと顔を上げた。
小さな馬の嘶きが聞こえる。黒塗りの豪華な馬車が雨を裂いて現れ、セレナの横で静かに止まった。
扉が開く。そこから降りてきたのは、黒い外套をまとった男だった。
闇に溶けるような黒髪。目深にかぶった帽子の下、冷えた金の眼差し。若者の軽さはなく、長い年月を内側に沈めたような落ち着きが、その顔に深い影を落としていた。
黙って抜け出してきたことを、咎められるのだ。冷徹なその眼差しに見据えられ、セレナは顔を伏せる。けれども胸の奥から溢れ出す悲しみまでは、どうしても押さえきれなかった。
「……どこに……いけば、いいのでしょう。エルクシム、閣下」
沈黙が落ちる。二人の周囲には、馬が鼻を震わせる音しかなかった。
やがて、俯いたセレナの視界の隅に、黒い手袋に覆われた指先が入り込んだ。
「え……」
男は何も言わず、ただ手を差し伸べていた。そして、手を取らないセレナのことをじっと待ち続けている。手を取らなければ、すぐにでも立ち去りそうな顔をしているくせに、ずっとそのまま、そこにいる。
一拍、二拍、三拍。雨音だけが時を刻む。
迷いながら、セレナはその手を取った。
この時、セレナの運命は音を立てて廻り始めた。
馬車の向かう先は、ただ一つ。
静かな書架の影と、冷たく精巧な光。永遠に積み重なる頁の匂いに満ちた、伝説の図書館――『ルーメニクス大魔法図書館』。
そこで彼女は、時を重ねる。――五年の歳月が流れるまで。




