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第一話 凍雨

 第一章 第一部 『必然の出会い』


 第一話

 

 『凍雨』


◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐


 骨の奥まで冷える雨が、セレナの細い体を打ちつけていた。糸のように細く、途切れない霧雨が町を覆い、景色の輪郭をぼかしていく。


 セレナは外套のフードを深くかぶり、濡れた石畳に小さな靴音を刻んだ。息は浅く、胸の奥は空洞のように冷えている。意識は途切れかけていたが、足だけはその道順をしっかり覚えていた。


 ここ右、角は曲がらず、次を左。――幼い日、乳母に手を引かれて歩いた曲がり角を右へ。


 ただひたすら歩き続け、やがて雨に霞む視界の先に、黒鉄の門がそびえ立つ。黒く、重く、昔と同じ装飾の施された美しい門。父が好きだった蔦の意匠。その中央には、由緒あるヴァレンティア伯爵家の紋章が描かれている。


 セレナの喉がごくりと音を立てた。

 

 門に近づき、錆びのない真鍮のノッカーに手をかけた。冷たい金属が掌から熱を奪う。指の関節には、まだ躊躇いが溜まっていた。

 

 ――この門を叩けば。

 

 叩けば、過去が音を立てて目を覚ます。叩かなければ、夢は夢のまま。セレナは、自分の存在を確かめることもできない。セレナは迷ったのち、一呼吸おいて、叩いた。ノッカーを浅く振り下ろして。


 小さな動きでも、幾分、大きな音が鳴り響いた。低い音は雨に混じり、波紋を広げ、邸内に吸い込まれていく。


 そしてセレナは祈るように胸の前で指を組んだ。はぁ、と息を吹きかけて、かじかんだ指先を温めて待つ。痩せた指。爪の間にこびりついた泥。図書館を抜け出すときに拭った涙の痕が、まだ頬に残っている。乾いた後のせいで、はりついたように顔が引き攣っていた。


 しばらくすると、門の脇にある詰所から兵士が姿を現した。


「用件は」


 鋭い声に、セレナは肩を揺らしてたじろいでしまう。


「わ……、わたし、セレナ、ば、ヴァレンティアです。父と母と、妹に――か、家族に会わせてください」


 その名を口にした瞬間、セレナは、舌の奥が痙攣したかのように思った。何年ぶりに、音にした呼び名だろうか。気丈に告げたつもりだったが、声は震え、雨に掻き消えてしまいそうだ。


 しかし、その勇気をよそに、兵士の眉間には深い皺が寄った。


「下がれ。卑しい乞食め」

「え……?」

「無礼にもほどがある。セレナ様は、十歳の時にお亡くなりになった。不敬罪で鞭打ちにされたいか。さっさと失せろ!」


 打ち捨てられた言葉に気圧され、セレナの足元の水たまりが弾ける。兵士は鼻で笑い、背後に合図を送った。雨の向こうから、別の兵士が出てきていた。


「ちが……っ! 戻れたから! だから、母と父に、い、妹に会わせてください! お願いします!」

「何度も言わせるな。セレナ様はすでにお亡くなりになっている」

「ち、ちがう――っ」


 自分の足元の煉瓦が、ガラガラと崩れていく。セレナはふらふらと後ずさった。


「どうせ伯爵家に取り入ろうとしたのだろう。名を詐る悪趣味な芝居は他所でやれ」

「わ、わたしは……!」


 一歩、踏み出す。雨を吸った外套の裾が重く脚に絡みついた。


「ちがう、私は、私は死んでなんかっ――! は、母は冬になると蜂蜜入りのミルクを温めてくれるの。父の書斎は蝋の匂いがして、机の端にインクの染みが――」


 甘い匂い。あたたかな指先。口から溢れた断片は、雨の表面で解けて消えていくように、虚しさしか感じられなかった。自分でもこの記憶が合っているのか確信は持てなかった。記憶の輪郭は薄れて、色だけとなってしまったから。


 その記憶の回想を突き破るかのごとく、兵士が声を荒げた。


「怪しいやつめ!」

「いっ……!」


 兵士のひとりがセレナの腕を掴み、身体を拘束する。


「伯爵家のことを調べたのか! ありもしない噂を流すつもりか!」

「……何を騒いでいるのですか」


 その時、屋敷の方から傘を差した老人が現れた。


 執事のハインセだ。セレナが幼少期から伯爵家に仕えていた執事の背筋は、昔と同じく真っすぐ伸びている。


 この人ならば、とセレナは藁にも縋る気持ちで顔を上げた。執事は兵士から状況を聞くと、濡れネズミの少女を一瞥して、そして冷淡に告げた。


「セレナ様の名を騙る子供がいると聞きました。その名を騙るのはおやめください」


 セレナの膝は、がくがくと揺れた。


「……わ、わたし、ほん……ほんとうに……」


 言い終える前に、兵士の槍の石突きが、セレナの肩を押し退ける。雨で足を取られた身体は、たやすく石畳に倒れてしまった。ぶつけた背中の痛みに肺の空気が一気に押し出され、口の中に鉄の味が広がり、視界の端で雨粒が跳ね飛んだ。


「二度とここへ近づくな。ここへきても金は貰えないぞ!」


 槍の柄が地面を打つ。


「そ、そんな……っ」


 セレナはハインセに手を伸ばしたが、彼は視線をそらし、兵士に視線で合図を送った。


「この不審者を屋敷から離れた場所へ。それから……、その名前はもう聞きたくないのです」


 雨より冷たい声音だった。部外者へと向けられた瞳に、セレナの喉がヒッと震えてしまう。ハインセは、本当にセレナを認識していない。


「どうかお引き取りを。ご家族の心を、これ以上乱さないでください」


 執事も、兵士たちも、嘘を言っているわけではない。


『セレナ・ヴァレンティア』は十歳で死んだ子どもなのだ。


 ハインセは視線をそらし、背を向けて邸宅へと消えていく。セレナはその背を追いかけようとしたが、兵士に止められまた地面へ投げ飛ばされた。


「まったく、良かったな。子供だから今回は見逃されたんだぞ。そもそも、そんな身なりじゃあな、門前払いなんて当たり前だろうがよ」


 一人の兵士が吐き捨てる。


「あたかも生きていたと思わせて、取り入ろうとしたんだろうが。知らないのか? これだから貧民街のやつは……」


 また別の兵士が呆れたように言った。


「あのセレナ・ヴァレンティアの名を騙るなど、愚かにもほどがある。ヴァレンティア家の長女は悪逆非道の子供。その名を語っても何の得にもならないぞ。死んだことを喜ぶやつもいたくらいだ」

「え……?」


 セレナは雨に張り付く髪もそのままに、兵士たちを見上げた。

 

 ――どういうこと。


 脳がその言葉を理解する前に目の前で鉄の門が動き出した。蝶番が軋み、重さが空気を押しやった。


 セレナは鉄の格子に向かって手を伸ばした。指先が空を掴み、雨の糸だけがまとわりつく。その勢いのまま地面に倒れ、水たまりの中へ手をついていた。


「父さま……母さま……っ!」


 門の向こう、邸宅の二階の窓。


 暖かな明かりが雨の中でぼんやりと光を放っている。けれども、あの向こうに、どれだけ伸ばしてもセレナの手は届かない。


 兵士は飛びつこうとしたセレナを無理やり押さえ、乱暴に腕を取って引き起こした。そのまま伯爵邸から遠ざかった森の中まで引きずり、突き飛ばす。


「う、あっ……!」

「二度と来るな。乞食風情が」


 もうひとりの兵士が槍の柄で地面を一打ちする。乾いた音が、水の底から聞こえてくるみたいに遠かった。


 それからセレナは、しばらく暗い森の中に呆然と座り込んでいた。


 雨粒が肩に、首筋に、土の匂いと混じって落ち続ける。体温が、ゆっくりと奪われていく。肋骨のあたりがずきりと痛み、濡れた髪が頬に張りついた。外套は重く身体にまとわりつき、見上げた空は低く、黒い雲で塗りつぶされた絵のようだった。雨は終わる気配を見せない。


 胸の奥で、糸が一本、音もなく切れた。


(――悪い子だったから)


 暗い言葉が沈んでいく。抵抗しようという気力は起きなかった。抵抗の仕方そのものを、思い出せなかった。


「そう、だ……因果応報、か」


 セレナはゆっくり立ち上がり、ふらつく足で邸宅に背を向けた。振り返れば、さらに何かが崩れる気がしたからだ。


 街灯が雨の柱を照らす通りを抜け、坂を下り、裏路地へ入る。馬車の轍に溜まった雨が薄い鏡になり、街の灯を歪めて映している。心の中の扉がひとつ、またひとつ閉じていく。柔らかなものが入り込む余地が、少しずつ塞がっていく。


(――わたし、まちがえたのか)


 セレナは立ち止まる。そして、泥まみれの足元に視線を落とした。

 

 その時、街角に車輪の音が響いた。セレナは、その音の方へと顔を上げた。


 小さな馬の嘶きが聞こえる。黒塗りの豪華な馬車が雨を裂いて現れ、セレナの横で静かに止まった。


 扉が開く。そこから降りてきたのは、黒い外套をまとった男だった。


 闇に溶けるような黒髪。目深にかぶった帽子の下、冷えた金の眼差し。若者の軽さはなく、長い年月を内側に沈めたような落ち着きが、その顔に深い影を落としていた。


 黙って抜け出してきたことを、咎められるのだ。冷徹なその眼差しに見据えられ、セレナは顔を伏せる。けれども胸の奥から溢れ出す悲しみまでは、どうしても押さえきれなかった。


「……どこに……いけば、いいのでしょう。エルクシム、閣下」


 沈黙が落ちる。二人の周囲には、馬が鼻を震わせる音しかなかった。

 やがて、俯いたセレナの視界の隅に、黒い手袋に覆われた指先が入り込んだ。


「え……」


 男は何も言わず、ただ手を差し伸べていた。そして、手を取らないセレナのことをじっと待ち続けている。手を取らなければ、すぐにでも立ち去りそうな顔をしているくせに、ずっとそのまま、そこにいる。


 一拍、二拍、三拍。雨音だけが時を刻む。


 迷いながら、セレナはその手を取った。

 

 この時、セレナの運命は音を立てて廻り始めた。


 馬車の向かう先は、ただ一つ。

 静かな書架の影と、冷たく精巧な光。永遠に積み重なる頁の匂いに満ちた、伝説の図書館――『ルーメニクス大魔法図書館』。


 そこで彼女は、時を重ねる。――五年の歳月が流れるまで。

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