序章 灰色―3
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――灰色を見ていたはずだった。
石の隙間から落ちる、匙の先ほどの光。足音、覗き窓、金属の匂い。牢を区切っていたはずの合図は、ある日ふいに途絶えた。
沈むように眠ったのか、意識を奪われたのかも分からない。ただ、次に目を開けたとき、灰色はどこにもなく、代わりに眼前を埋めていたのは赤と黒だった。
セレナは石床に打ちつけられたまま、まず眼球だけを動かした。暗いのではない。灯りはある。だが、その灯りが異様だった。赤い蝋燭の炎がいくつも揺れ、煤と薬品の焦げた匂いが鼻の奥を焼く。その奥に生乾きの血と焼けた肉の甘ったるさが沈んでいて、息を吸うたび、鉄の味が喉の裏へ逆流した。
(ッ――いた、い……ここ、どこ……?)
喉は裂けたように痛み、背骨には杭でも打ち込まれたかのような激痛が走っていた。
手首と足首は冷たい枷に繋がれ、関節に食い込んだ金属の縁が脈打つたび、魔力を封じた魔法の模様が赤く明滅する。床に刻まれた魔法陣は低く唸り、まるでこの部屋そのものが、巨大な生き物みたいに呼吸をしていた。
(こ、これは――)
「目を覚ましたか。ヴァレンティア」
頭上から落ちてきた声に、セレナは顔を上げた。
視界の先には、数人の人影があった。その中央、漆黒の官服に銀糸の襟飾りをまとった男――オルネ・カスティエルが、そこに立っていた。
「……オル、ネ……」
「君は、世界を救うための実験に参加するんだ」
声音は静かだったが、静かすぎるぶんだけ異様だった。瞳は冷たい石みたいに硬いのに、言葉の奥だけが抑えきれない熱を帯びている。
「黒い潮の汚染経路は未解明だ。外部から取り込んだ場合、人の身体はどこから侵されるのか。血液か、神経か、それとも記憶そのものか。存在が壊れるのは、どの時点なのか。それを知らなければ、対処などできない」
「な、にを……」
「試料はほとんど残らないから、持ち込むのにも苦労した。だが、汚染を結晶化し、外部に漏れない形で封じる方法――それは君自身の論文が教えてくれた」
これ、と。そう言ってオルネは拘束されたセレナのそばにしゃがみ、掌を開く。そこに浮かんでいたのは、光を飲み込むような黒い結晶だった。黒曜石にも似ているのに、輪郭だけがぬめるように揺れていて、見ているだけで胃の奥が冷たくなる。
「高魔法感応者での実施例は、まだない」
結晶がゆっくりと口元へ近づいてくる。避けようにも身体が動かず、唇を閉じることすらできなかった。
「あ、ぁ……っ」
舌先に触れた瞬間、喉が勝手に動いた。ごくり、と、自分の意思とは無関係に、塊を飲み下していた。
「――っ、あ、ぁ、あああっ!」
次の瞬間、全身が大きく跳ねた。
内側から裂かれて、血管に熱した針を流し込まれたみたいな痛みが一斉に駆け抜け、絶叫が喉の奥を突き破った。
皮膚の下からは黒い斑が浮かび、脈打ち、やがて結晶の芽のようなものが肉を押し上げる。その変化が、恐ろしく鮮明に、セレナの痛覚と視覚を奪った。
焼けて、砕けて、侵され――何が起きているのか理解するより早く、身体のほうが先に悲鳴を上げていた。
「安心するといい。我々は君の研究を無駄にはしない。だが、そろそろ幕引きが必要だ」
オルネはその苦悶を観察するように見下ろし、淡々と言う。
「君は暴走して禁忌の実験を行った。そして、自分の犯した罪に耐えきれず、自ら黒い潮の汚染を発生させて死んだ――そういうことになる」
(あ、ああ、ああああっ――!)
悲鳴はもう声の形を保てなかった。吐き出したものは息ではなく、墨のように黒い液体だ。それが床に落ち、じゅ、と煙を上げていた。
(こ、こ、こは……どこ……いま、なにを……あれ、わたし……わたしは……)
侵されているのは肉体だけではなかった。
(わたし……わたしは、いったい、だれ、なに?)
黒い潮は記憶の輪郭にまで染み込み、思考をほどき、名前と意味の結びつきを壊していく。自分が何者で何をされているのか、その筋道が、徐々に立たなくなっていた。
頭の奥へ、他人のものとしか思えない記憶の欠片が流れ込んでくる。
男の断末魔。女の祈り。幼子の泣き声。角笛。雨。獣の足音。最初はただ聞こえるだけだったのに、それらはやがて音であることをやめ、像を結びはじめた。燃え落ちる木の屋根。崩れる石橋。黒い靄の底から這い出してくる異形。骨の向きが合わない、四肢の数が揃わない、口の位置が定まらないものたち。
知らないはずの光景が、雪崩のように流れ込み、セレナという輪郭を容赦なく削っていった。
(……だれ)
ふいに、その濁流の中でひとつだけ引っかかるものがあった。
霞む視界の奥に、少年がいる。
銀の髪と青い瞳の子供。恐怖に歪んだ顔で、必死に手を伸ばしている姿。
それはきっと、黒い潮が見せているだけの像にすぎない。それなのに、その姿を見た瞬間、セレナの胸の奥がひどく軋んだ。思い出せるはずの記憶も、結びつくはずの名前もない。ただ、痛みだけが先に来る。
セレナは抵抗しようとして、欠けた爪で床を掻いた。
だが指先が滑り、爪が砕けるだけで、何ひとつ掴めなかった。
激痛とともに、黒い潮とオルネたちの魔法に、魔力が吸い上げられていく。魔力だけではなく、骨の髄から、感情も思考も、血液も輪郭も一本ずつ抜き取られるように失われていく。
存在を脅かされる恐怖に、セレナは身体を抱きしめた。自分が消えていく。それだけがわかった。
(た、たすけ、て、たすけ、た――だれか……だれかっ)
その時。
――その刹那、何かが、あっという間にセレナを貫いた。
まるで地下の底から覗き込まれているような。空の果てから突き刺されているような。近くて遠い場所から届く気配がある。重く、抗えず、それでいて、ほんのわずかに温かい。暗闇そのものみたいに恐ろしいのに、目を逸らされていないという事実だけが、ひどく鮮明だ。
その時、確かに、セレナは何かに『視られていた』。
(……み、てる)
救いではない。慈愛でもない。ただ、見られている。それだけだった。
だが、それだけが、セレナがいま存在した証となる、一瞬の安堵をもたらした。
(みて……わたしを……)
汚染に呑まれ、輪郭が徐々に失われていく。セレナの身体は、もはや消えて無くなりかけている。完全に消えてしまえば、きっと――どうなるかは、誰にも分からない。
(お願い……おぼえ、て……)
それは、『セレナ・ヴァレンティア』が『セレナ』となった、とある終わりの始まりだった。




