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序章 灰色―2


 オルネ・カスティエル。漆黒の官服、銀糸の襟飾り。セレナの上席官だった男は、今では扉の外に立ち、余計な温度のない声音で言葉を積み上げる役に変わっていった。


「セレナ・ヴァレンティア」


 淡々と、罪の目録が読み上げられる。


「――部下の研究成果を盗み、自らの名で提出した。印章と魔力痕が残っている」


 一つ目。


「――孤児を実験に使い、三人が行方不明になった。調査記録はお前の研究室から出てきた」


 二つ目。


「――同僚の魔法師を殺し、その遺体で禁呪を試した。残留魔力の反応は、お前の式と一致している」


 三つ目。そのどれもが、身に覚えのない罪だった。


「やっていません!」


 セレナの訴えは受け入れられなかった。


「これはお前がやったんだろう。もう、誰もお前を信じないんだ」


 次の日も、その次の日も。身に覚えのない罪は積み重ねられていった。


「――倉庫から違法薬物を持ち出した。精製した薬瓶にはお前の魔力封印が刻まれていた」


 四つ目。


「――貴族の子息や令嬢に呪詛の入った装飾品を与えた。被害者たちはお前から受け取ったと証言している」


 五つ目。


「――黒い潮に汚染された町へ赴き、住民を『観察』のために使った。現場に残った魔力の残滓が、お前の魔力と一致した。魔法式にもお前の癖が出ていたぞ」


 六つ目。


 石牢の空気が凍りつき、セレナの喉は乾ききって声が出なかった。


「……ちがう……そんなこと、私は……」

「誰もお前を信じていない。ずっと前からな」


 オルネは微かに笑みを湛えながら言う。その一言が、足音とともに繰り返された。


 別の日も、別の夜も。彼は同じ順で同じ問いを並べ、同じふうに肯定を積み上げ、最後に同じ言葉で蓋をした。


 問いはいつも、まず事実から始まる。魔法式の紋章。印章。机。時間。相手の名。場所。それは覚えのあるような話で、覚えのない話だった。確かとも分からない見知らぬ石が、一つずつ丁寧に、セレナの身体に積み重ねられていく。やがて、その全てが自分のものだったように、疲れが身体中に溜まっていった。


 セレナはこの地下牢に繋がれてから、どのくらい時間が経ったのかも分からなかった。そして時間の区別がなくなる頃には、看守の冗談も変わっていた。


「目を見るだけで呪い殺されるらしいぞ」

「悪逆の魔女だな」

「魔女は火あぶりの刑になるのか?」

 

 セレナは扉に背中を預けて座り、空気窓の灰色を眺める。


 落ちてくる灰色は日によって違う濃さを持つのだと、その頃ようやく気づいた。明るい灰が来る日は、廊下の革靴も軽い。暗く重い灰が落ちる日は、皿の縁に小さな錆が混じる。そんなことばかりがよく分かる。


 家族の顔を、彼女は毎晩、順番に思い出そうとした。


 母の笑い皺。父の咳払い。妹が手を握るときの指の細さ。指の細さだけははっきりして、そこに乗っていた体温は思い出せない。


 ――どうして手紙の返事をくれなかったの?


 妹の声が、あの頃と同じように胸の内側で響いた。


 ――魔法が好きなのは知ってるわ。でも、少しぐらい、私たちのことも考えてよ。


 ――姉さん、魔法に没頭して、いつか身を滅ぼしそうだわ。


(そうだね、ユリア。あなたが正しかったのかも)


 答えるより先に眠りに落ち、目覚めれば灰色は別の濃さになっている。


 魔力は封じられた。記憶魔法は、自分の内側へ潜るための術ではない。だから、思い出に触れるように両膝を抱え、指先の冷たさを確かめることしかできない。


(私……本当に冷たい娘だった)


 その問いだけが、いつまでも溶けずに、思考の裏に残っていく。五度。六度。七度――扉の開く気配がしても身体が動かなくなってから、オルネたちが牢屋の前に立っているのかさえ、声でしか測れなくなった。


「セレナ・ヴァレンティア。今後は皇家からの調査も入る。片を付けねばならない」

「……わたし……では……」

「そうか。では、違う質問をしよう。お前は、誰かを救いたいと思ったことがあるか?」


 思いがけない問いに、セレナは考えるよりも、まず首を動かした。首筋にかかる鎖が滑り、鈍い音が鳴った。


「あり、ます」

「誰を」

「……みんなを。黒い潮の影響、から……」

「ならば、なおさらだ」


 紙がめくられる音。淡々とした声。


「認めろ。お前が非道な実験をした、と。そうすれば、お前の存在は礎になる。かの世界のために」

「……でも、私じゃ……な……」

「誰もお前を信じない。現に、誰からも助けてもらえていないだろう」


 その夜、セレナは自分の声の出し方を忘れた。


 口は動くのに、喉が閉じた。胸の内側で言葉の形が固くなり、やがて砕けて消えた。

 

 次の朝、皿にはパンが半分しかなく、水はいつもより冷たかった。指先で皿を押しやり、彼女は換気窓の下まで、這うように移動した。

 

 灰色はとても淡く、ほとんど白かった。


(今日なら、外に出られる?)


 突拍子もない思いがふと立ち上がり、指先で灰色を掬うまねをした。何も掬えない。指はただ冷たかった。そして八度目の足音が止まり、覗き窓の蓋が上がった。


「セレナ・ヴァレンティア」


 オルネの声は相変わらず、磨かれた金属のようだった。


「確認だ。お前の印章は、お前のものだな」

 

 セレナは小さく頷いた。


「机は、お前の部屋の机で、署名は、お前の署名だ。そしてお前の行動記録から、立ち寄った場所、事件の起きた場所も一致しているな。行った実験の資料も、お前の研究室から押収済みだ」


 また弱く首を縦に落とした。


「ならば、書かれていること全て、お前がしたことだな」


 胸の中で、何かが、からんと音を立てて外れる。心を支えていた棒が一本、抜けた感覚だった。


「……わたし、が……?」

「そうだ」


 灰色が、ただの灰色に戻る。


 足音も、鉄の音も、すべてが遠くなった。オルネの声だけが近い。近すぎて、耳の奥と胸骨の間に挟まっている。セレナは唇を湿らせようとして、舌に金属の味を覚えた。


「わ、たしが……」


 自分の声も、自分のものではないようだった。


「……非道な、実験を……」


 牢の空気が、ひとつ息を吐いたように静まる。オルネは少しの間、何も言わなかった。鍵の束が帯で鳴った。その静寂の後、乾いた笑いが窓の下に落ちた。


「――よく言った、セレナ」


 覗き窓の蓋が閉まる直前、オルネは言った。


「せめてもの手向けに、良いことを教えてやろう。お前には言っていなかったが、実際にそれを行っていたのは、我々、第十三部局だ」


 鉄の蓋が降り、灰色が消えていく。


「そしてお前も、第十三部局の魔法師だ」


 そうして、石がまた息を始める。

 セレナは膝を抱いたまま目を閉じた。胸の奥で何かが静かに沈み、底に着いた。その音はどこにも反響せず、ただただ心の奥底で重石となった。

 

 ――もう誰も、セレナを信じなかった。


 セレナ自身でさえ。



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