序章 灰色―1
呼吸が止まったとき。
心臓が動かなくなったとき。
脳が働かなくなったとき。
それとも、存在の価値がなくなったとき。
もしくは、誰かに声を忘れられたとき。
そして、名前を呼ばれなくなったとき。
人が死ぬ瞬間は、いつだってある。
けれども、それらはこの世界の本当の『死』ではなかった。
この世界の死は、この世界のすべての『記録』から、抹消されることだ。
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セレナは、かつて『セレナ・ヴァレンティア』という名の少女だった。
ヴァレンティア伯爵家は、ラディア・クレメンティア帝国の建国以来、優れた魔法師を輩出し続けてきた名門であり、魔法管理局の要職には常にその血が流れていた。帝国にとって不可欠な血統、その長女として生まれたセレナは、幼い頃から異質なほどの魔法適性を示していた。
その中でも特異な能力を示したものが、『記憶魔法』――人や物体に宿る記憶を読み解く魔法。それから『魔法感応』――魔力の流れや痕跡を感知し、構造を読み取る力である。
精度は熟練の魔法師を上回り、いつしか彼女は、「才女」「天与の器」と呼ばれるようになった。両親も、教師も、研究員も、疑うことなく彼女の未来を信じていた。
セレナの才能は、留まることを知らなかった。
十歳のとき、セレナは魔法管理局から研究者推薦を受けた。
まだ初等教育の最中にある年齢で、筆記試験は満点、実技では成人の魔法師を凌駕する魔法の構築を示した。その異様さに「人生を二度目に生きているのでは」と囁く声もあったが、実際にはただ止まることなく積み上げ続けただけの結果だった。セレナは天才であり、同時に、努力を止めなかった人間でもあった。
――その頃から、各地で『黒い潮』と呼ばれる現象が報告され始めていた。
『黒い潮』
それは黒い靄が突如として湧き、空間をねじ曲げ、怪物が産み落とされる汚染現象だ。
人間の精神を錯乱させ、記憶をかき乱し、信じ合っていた者同士を疑心に陥れ、家族すら仇敵に変えていく。魔力を啜り尽くし、その血肉や魂をも枯れ果てさせるものだった。
その影響は、文化や記録にまで及んでいた。
歴史が歪み、書き換えられ、存在していたはずの都市が一夜にして消える。世界そのものが、静かに崩れ始めていた。
原因は不明で、対処法も見つかっていない。魔法管理局の魔法師たちは、ただ、起こった事象を記録に残すことしかできなかった。
だからこそ、若き天才セレナの登場は格好の人材と見なされた。
セレナは入局してすぐ、『黒い潮』を専門とする、特別魔法研究部「第十三研究部局」へと配属された。だが、その時のセレナは、まだ知らなかった。
魔法管理局に暗部が存在していたことを。
――十六歳になる、あの日まで。
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(私は……疑問に思わなかった)
石が息をする音がしていた。
湿り気を帯びた冷たい風が、見えない孔を通って壁の内外を行き来する。昼なのか夜なのかも分からない。灯りのない石造りの牢、天井近くの小さな空気窓から、匙の先ほどの灰色の光が落ちてくる。
最初の夜、セレナは喉が裂けるほど声を張り上げ続けた。人の気配があっても、なくても、扉の覗き窓へすがり、必死に叫んだ。
「私はやっていない! 何もしていない!」
その叫び声に返ってくる言葉はなく、返事の代わりに鉄皿に乾いたパンのかけらが落ちる音がした。
――部下の成果を盗んだ女が、まだ弁解を。
――才女でも、盗人は盗人だな。
静かな地下牢にセレナの声はよく通った。
普段は小さく抑えていた声帯が無理に震え、たった一日で喉は焼けるように痛んだ。
翌日、別の声が重なった。
――貧民街の孤児を実験に使っていたらしい。
――部下や同僚を自分の研究のために殺していたそうだぞ。
――なんて非道な魔法師だ。
セレナは聞こえてきた声に首を横に振り、耳を塞いだ。
鎖が床を擦る鈍い音が、胸の内側で増幅して響いていく。どれだけ声を張り上げても、その音にかき消され、自分の声が届かない。
「ちがう、ちがう、ちがう! ――やってない――、わたし、やってないのに――!」
誰も聞いてくれない否定は牢の固い壁に容易く吸われ、引き伸ばした末尾の響きだけが、壁に跳ね返って残った。
やがて、それは誰に向けるでもなく、ただただ、自分へ言い聞かせるだけの否定になっていった。
パンは日ごとに固く小さくなっていく。水は黒く濁り、金属の味が舌に痺れ、舌が麻痺していった。手首の枷は魔力の流れを止めるだけでなく、いつの間にか皮膚の下に疼く痛みを植え付けていた。
眠ると、石の冷たさが背骨に貼りつく。目を閉じたまま数を数えるうち、指を折るのを忘れ、数そのものが分からなくなっていく。
次第に、セレナは、時間の代わりに、足音で日を測ることを覚えた。
廊下を三人分の革靴が通り過ぎる時、真鍮の札が触れ合う音がする。一人分の重たい踵の音が止まる。それが、食事の時間。二度の食事のあいだに、書記官の柔らかな咳払いが一度。
そして書記官の後に、一呼吸の間を置いて――あの男が来た。




