第十一話 魔法の再現―2
「誰からですか。まあ――分かりきったことではありますが」
「あ……」
グラウスは弾かれたように顔を上げた。イグニスの眼差しは冷たく細められていて、その視線に射抜かれたまま、ごくりと喉を鳴らす。
「そ……、はい……領主様、です」
「そうですか」
イグニスは小さく頷いた。
「発作で処理しろと? 報告書の改ざんを?」
グラウスは目を伏せたまま、指先に力を込める。
「なぜそのような命令が来たのか、心当たりは?」
「い、いえ……」
「隊長――」
低い声が部屋の温度をさらに下げた。
「あなたも伯爵に関わっているのですか。商人の死に、心当たりが?」
「いっ、いいえ!」
グラウスは真っ青になって否定した。
「それはありません!」
叫んだ勢いのまま浮きかけた腰を、また椅子へ落とす。グラウスは呼吸を乱した。言葉は続かず、口を開けてまた閉じる。
「……申し訳ございません。信じてもらえないかもしれませんが、商人の死については何も分かりません。本当に、突然……」
「ええ」
「正しいことではないと、分かっていました。ですが我々は、領主様に逆らえば潰されてしまいます。私たちには家族もいます。憲兵隊の者たちにも」
「――理解しています」
イグニスは静かに紙束を畳み、机の上へ置いた。その指先が、『一時保留』と書かれた付箋を軽く叩く。
「憲兵隊に圧力がかかっていたことは分かりました。ですが、嘘に書き換えた瞬間、それは正義ではなく罪になります。記録を偽れば、伯爵ではなく、あなたが責を問われる。あなたは共犯者だ」
「……はい」
「写しを作ったのも、付箋を『一時保留』にしたのも――あなたの中に、まだ違和感が残っていたからでしょう。ですが、それで許されるわけではない」
その怯え方を見れば分かる。伯爵側の人間ではない。少なくとも、伯爵のために動いている人間ではないと、イグニスは確信していた。
「あなたは、あなたの正義を保ってください。この街のために憲兵隊になったのなら」
グラウスはしばらく紙束を見つめ、深く息をつく。
「……商人の死を『発作』として処理し、遺体の処理を命じたのは、伯爵の側近でした。最後に面会したのも、伯爵家の人間です。ですが、どう手を回したのか……面会の記録は消され、検視官の記録も、その者が直接回収していきました。私は命令に従うしかなくて……」
「名前は?」
「ハルデンという男です。伯爵の補佐官の」
「黒い潮――呪い、あるいは燐灰石に関することは?」
「り、燐灰石……そういえば、ああ……」
そこで何かがつながったのか、グラウスは参ったように肩を落とす。
「以前、伯爵家の鉱山から鉱員たちが帰ってこない、と家族から申し立てがあったことがあります」
「帰ってこない?」
「伯爵家からは『住み込みで働いている』と言われ、それ以上の調査は止められました。今にして思えば……あれも……」
「そうですか」
グラウスの肩が目に見えて震えた。イグニスは立ち上がり、外套の裾を整える。
「ありがとうございます、グラウス隊長。あなたの協力は帝国の記録に残ります。その記録は、あなたの正義の証明になる。……これからの、正義の証明です」
つまり、これからは正義を示せ、ということだ。その言葉の外の意味に気づいたグラウスは、硬い表情のまま立ち上がり、深く頭を下げた。
「すべてお話しします。伯爵の不正も、商会の件も……」
「ええ」
イグニスはグラウスの肩に手を置く。
「記録を残してください。それは、あなた自身を守ることにもなる」
「……必ず」
「写しを残した判断は正しかった。過去、あなたが進言していたことは記録に残っていますか」
「は、はい」
グラウスの声がわずかに上ずる。思いがけない問いだったのだろう。
「それを、どうして……」
「調べていて出てきたことです」
「そう、ですか……。我々は、どうなりますか」
「今はまだ断言できません。相応の処分は免れないでしょう。ですが、あなたも、憲兵たちも、もちろんご家族も、不当に扱うつもりはありません」
グラウスはそっと息をついた。その顔には、恐れを飲み込んだあとにだけ残る種類の覚悟がある。
「あの伯爵の命令に、どれだけの者が逆らえず沈んだか……私たちも、何度も、もう終わりだと思いました」
グラウスは移ろわせていた視線を固め、真正面からイグニスを見遣る。
「いつか、あの伯爵のことで、誰かが来ると思っていました」
「その誰かの側に立つのなら――十分です」
イグニスは短く言い、外套の裾を翻す。ルフェンを伴い、そのまま詰所を後にした。
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「……あの憲兵隊長を信じるのですか?」
詰所を出たところで先に切り出したのはルフェンだった。前を歩いていたイグニスは足を止め、並ぶように立つルフェンへ顔を向ける。
「お前はどう見た?」
「……正義感のある人物なのでしょう。上の命令には逆らえない小心さはありますが、憲兵としての矜持はある。家族を守りたいという気持ちも、本物に見えました」
「そうか。俺も同じだ」
イグニスは満足げに頷き、外套の襟を直す。セレナがかけた暖かな魔法がまだ残っているのか、通り抜ける風はそれほど冷たく感じなかった。
実のところ、イグニスは詰所へ赴く前から、グラウスという男のことを調べていた。過去の報告書、部下たちの証言、伯爵家とのやり取り。その中には、無理な命令に従いながらも、部下を守るために何度も伯爵家へ進言していた痕跡が残っていた。そして、その多くが握り潰されていたことも。
もちろん、伯爵家側の人間である可能性を捨てていたわけではない。だからこそ、最初から二通りの策を用意していた。敵なら証拠として押さえ、味方なら希望として差し出すことを。
だが、実際に向き合ったグラウスの眼差しと、あの写しの存在が、それだけで十分な答えになっていた。
伯爵家に記録を回収されたということは、本来ならその場で破棄して終わりだったはずだ。それでも写しを残し、『一時保留』と記した。あれは、まだ心のどこかで屈していなかったためだろう。
「あとは、あの人がどこまで踏み出せるかだな」
「……人を信じすぎているように思います」
ルフェンの口調は厳しかった。
「あの方のこともです」
「あの方? ――ああ」
セレナのことだと、イグニスはすぐに察する。ルフェンはあまりセレナと関わっていない。意識して、彼女との距離を取っているのだろう。
「そうかい? 俺は、信じられると思うけどな」
セレナと出会ってから、まだ数日しか経っていない。だが、酒場での一件から今日までに得た情報は多かった。
セレナは、何かを探している。それが何なのかは明かされないままだが、図書館にまつわること、そして黒い潮に関わること――れれは確実だ。
セレナの魔力は不自然で、威圧感が強い。黒い炎を使い、黒い潮を断ち切る力も明らかに異質だ。けれどその一方で、セレナ自身がその力と黒い潮の両方に雁字搦めに縛られているようにも見える。
力は信用できる。だが、どこまで信頼できるのか。そこだけは、まだ測りかねていた。
「俺だって、考えているさ」
「そうですか? そうは見えませんけど」
ルフェンは歩きながら続ける。
「彼女の魔法師としての力は信用できます。ですが、まだ信頼はできません。黒い潮に干渉する力など、彼女自身が【[ruby=オブザヴァトリ]外典信仰者[/ruby]】とみなされてもおかしくはない」
「ああ」
イグニスは思案するように空を見上げた。日が傾き、午後の光が通りを照らしている。
「良いのですか、このまま傍に置いて。俺は反対です。何を考えているのか分からない相手ですし、あの表情では読みようもない」
「そうか? 意外と分かりやすいよ」
ルフェンは小さく息を吐いた。
「ひとつ言えるとしたら――あれは、自分を欺いて生きている。それから、ずっと見つからない何かを探し続けているんだ」
「ひとつじゃありませんね。それに、それはあなたにそっくりです」
「はあ……ルフェン。今日は口数が多いな」
イグニスがわずかに笑っても、ルフェンは動じず、まっすぐ前を見たままだ。
「――イグニス様、何でもそうやって信じすぎない方がいいです」
信じなければ、何も始まらないじゃないか。イグニスは心の中だけでそう返す。
二人は外套をはためかせながら、賑やかな通りを宿へ向かって歩いていった。




