第十話 証拠―3
風が吹き、紙包みの端がひらりと揺れた。抑えようとしても抑えきれないものがあったのだろう。そう問い返したセレナの声は、思った以上に鋭く響いた。
アリアはたじろがなかった。一度だけ目を伏せ、数拍置いてから、まっすぐセレナを見る。
「わかりませんよ。あなたがどんな過去を持っているのか、何を見てきたのか、私には分かりません。全部を知っているわけじゃないです。でも、これは私の感情なんです。私の目に映っている、あなたなんです。あなた自身が自分をどう思うかは、私には決められません。だけど私は、あなたにそう感じているんです」
その声にはためらいがなかった。
まっすぐな言葉ほど痛い。けれど、それが自分を傷つけるためのものではないことも、セレナの心に響いた。
そんなふうに言われたのは初めてだ。怖がられないこと自体が、セレナには奇跡のように思える。どうしようもなく落ち着かないまま、先に視線を外した。
「……あなた、変わってる」
アリアはくすっと笑った。
「よく言われます。ふふ。でも、私のほうが普通ですよ。イグニス様なんて、最初から『あなたは信頼していい』って言ってましたから」
「……本気で?」
「本気ですよ。あの方は、嘘をつくの下手ですから」
冗談めいた口調なのに、声に揺らぎはなかった。セレナは小さく息を吐く。胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
遠くで鐘が鳴り、午後の終わりを告げる音が通りを渡っていく。アリアは空を見上げながら、食べ終えた包み紙を丁寧に畳んだ。
「甘いものって、不思議です。食べると、少しだけ今日が優しくなるんですよね」
セレナはすぐには返せなかった。自分の世界に、「今日が優しくなる」という感覚はほとんどなかったからだ。けれど今は、その意味がほんの少しだけ分かる気もする。包み紙に残った焦げた砂糖の匂いと一緒に。
それに、アリアは同意を求めているわけではない。ただ、自分はそう感じるのだと、そう言っているだけだった。
「図書館って、どんなところなんですか?」
唐突に聞かれたことに、セレナは少し躊躇ってから、口を開いた。
「静かよ。音が、全部吸い込まれるみたいに」
「へえ……想像がつきません」
「普通の図書館と大差ないわ」
でも、とセレナは続ける。
「誰も来ない場所だから。本とか、昔の道具とか……そういうものしかない。古い記録を管理するの」
「すごく大事な場所なんですね」
「大事かどうかは分からない……」
過去の遺物。使われなくなったもの。誰かが訪れることもないのだから、役に立つわけでもない。そういったものが眠っているだけの場所だ。
「ただ、忘れられたものが眠っているだけ。誰も覚えていない記録とか、触れたら壊れそうなものとか、そういうものが山ほどあるの」
アリアは頷き、小さく笑った。
「それでも、あなたが守ってるんですよね。……なんだか、素敵です」
素直な言葉にセレナは視線を逸らした。胸の奥がわずかにざらつく。否定したいわけではないのに、どう受け取ればいいのか分からない。
「……あなたは?」
「え?」
「普段、どんな仕事をしてるの」
アリアは少し考えるように目を細めた。
「私はイグニス様の副官です。治癒魔法師でもありますけど、書類整理とか、現地の調整とか。あの人、外に出ると危なっかしいので」
「そうは見えないわ」
「放っておくと、全部自分で背負おうとするんです。だから、誰かが隣で口を挟まないといけないんですよ」
アリアは肩をすくめる。
「まあ、そもそもイグニス様はすごい魔法師なので、必要ないのかもしれませんけど」
「……そんなこと、ないと思う」
短い付き合いでも分かることはある。
イグニスが、アリアとルフェンの二人を信頼していること。そして、その呼吸がちゃんと合っていることを。息の合う人たちだと、セレナはそう思っていた。
「あら。セレナさんにはそう見えますか?」
「ええ……」
「それなら、よかったです!」
そう言って笑うアリアの横顔は温かい。セレナはその横顔を見ながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じる。
イグニス様、と呼ぶ声に混じる一瞬の柔らかさが、あの冷たい湖のような男の空気を、少しだけ変えているのだろう。
「……あなた、話を引き出すのが上手ね」
「え? そうですか?」
「ええ。気づくと、喋らされてる」
「それなら成功です!」
アリアは明るく笑った。
「私、昔から聞き出すの得意なんですよ」
セレナもつられて笑いそうになり、咄嗟に唇の端を押さえた。毒気を抜かれるとは、こういうことなのかもしれない。
商人の呼び声。荷馬車の車輪の軋み。子どもたちの笑い声。涼しい風が通りを抜けていく。その風に乗って、少し離れた荷下ろし場から男たちの声が聞こえてきた。木箱を積み直しながら、低く言葉を交わしている。
「……まだ戻ってこねぇらしいぞ」
「あの山、やっぱり呪われてるんだ」
「しっ。やめろ、憲兵に聞かれたら面倒だ」
木箱の軋む音が続き、男たちは荷車を押して別の通りへ消えていった。ふいにアリアが、その方向へ顔を向けた。
「……戻ってこないって、どういう意味でしょう?」
「分からない。でも……関係はあるかも」
ちょうどその時、角の向こうから荷車を押す初老の男が通りかかった。積み荷の上には、粗い布で包まれた石がいくつも載っている。セレナが目を向けると、男と視線が合った。
「お嬢さん方、いい日に歩いてるね。今日はほんとにいい天気だ」
「本当ですね」
アリアが笑顔を向ける。
「それ、鉱石ですか?」
「おお、これか? 東の山で採った鉄鉱石さ。硬いが火に強くてな、鍛冶屋がよく欲しがる。今日は運ぶ途中なんだ」
男は誇らしげに笑った。セレナは無言で布越しの石を見つめる。黒い靄は、まとわりついていない。
「鉄鉱石?」
アリアが聞き返す。
「光る燐灰石ではないんですか?」
「別物さ。あれは領主様のものだからな」
男は顎で山の方を示す。
「こっちは街の鍛冶屋が組んで掘ってる、しがない民間の坑道だ。まあ、その近くに領主様の鉱山もあるんだろうが、正確な場所は知らん。ただ、去年あたりから鉱員たちが入っていくのは見たよ」
「同じ山……?」
「お嬢さんたち、新しい燐灰石に興味があるのかい?」
「実は……父が、新しい鉱山で働こうかって言っているんです。でも、どんな鉱山なのか分からなくて。トアールに来たら、何か分かるかなと思って」
セレナはちらりとアリアを見た。話し方が上手いだけではない。口もよく回る。
「そうかい。父親思いだね。働き口を探してるのか。腕が立てば、金回りも悪くない」
男はそこで少し言葉を濁した。
「でも、新しい鉱山かぁ……」
「何か、あるんですか?」
アリアが声を落とす。
「さっき聞こえたんです。『戻ってこない』って……鉱山って、そんなに危ないんですか?」
表情を曇らせるアリアに気を許したのか、男は周囲をちらりと見回し、声を潜めた。
「危険ではあるさ。だが……最近、あまりいい噂を聞かない。鉱山へ行った男たちが、何か月も戻ってこないってな。住み込みが条件だとはいえ、音沙汰がまるでないらしい」
「それは……新しい鉱山で?」
男は頷いた。
「妙なんだ。最初は鉱員がひっきりなしに出入りして、作業の音も絶えなかった。だが今じゃ、あっちの山はめっきり静かだ」
手元の石に視線を落としながら、さらに続ける。
「それに最近は、石のほうも妙でな。光る燐灰石は高値で売れてるが、偽物だの粗悪品だのが混じってるって話もある」
「昨日も騒ぎがありましたよね。聞きました」
「ああ。だから、本当に掘れてるのかどうか……俺たちにも分からん」
「じゃあ、もしかして……もう鉱山の仕事もなくなりそうですか?」
「それは分からんが、山の中じゃ光る燐灰石も尽きてきたのかもしれんな」
男は唇を引き結び、さらに声を低くした。
「だから余計に、あの山には近づくなって言うやつもいる。鉱山に行った連中が戻らねぇって話もあるし……まるで山そのものが、人を呑み込んでるみたいだってな」
そこまで言ってから、男は慌てて口をつぐみ、笑ってごまかした。
「おっと、こんな話、お嬢さん方にするもんじゃないな。親父さんには悪いが、今からじゃ難しいかもよ。勧めはしない」
「ありがとうございます。父にも伝えておきます」
「ああ」
男は荷車を押して去っていった。二人はしばらくその背中を見送り、それから顔を見合わせる。
「……戻ってこない、か」
「何かありそうですね」
――東の山。
その言葉を、セレナは口の中で静かに転がした。




