第九話 トアールの静かな夜―1
第九話
『トアールの静かな夜』
◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐
夜は更け、トアールの喧噪も遠ざかっていた。
四人が宿へ戻る頃には窓の外で街灯が揺れ、石畳を渡る風が冷たく頬を撫でていく。
イグニスが扉を押し開けると、乾いた蝶番の音がかすかに響いた。先にセレナとアリアを通し、最後に入ったルフェンが後ろ手に扉を閉める。
アリアが窓を少しだけ開けると、夜気が入り込み、こもった空気がゆるやかに動いた。
暖炉には、昼の名残のような火がかすかに息をしていた。
イグニスが膝を折り手をかざすと、薪の奥で橙の火が静かに息を吹き返す。温もりが波のように広がり、壁と天井をやわらかく染めていった。
立ち上がったイグニスは、セレナの横顔へほんの一瞬だけ視線を向けた。炎が輪郭をなぞり、瞳の奥にかすかな光が揺れている。
「君も、今日はかなり無理をしただろう」
「……慣れてるわ」
「そうは見えなかった。あの母親を助けたあと、顔色が悪かった。もともとあまり魔力が多い方ではないんだろう」
返事の代わりに、セレナはマントを外し、壁際の椅子へ静かに掛けた。布が擦れる音だけが部屋に落ちる。その一連の動きを見て、イグニスはわずかに首を傾ける。
「君が倒れたら、困るのは俺たちだ」
マントを掛けかけていた手が一瞬だけ止まり、すぐに力が抜けた。
「心配? それとも、駒が減るのは困る?」
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。イグニスは一拍置いて視線を炎に落とし、短く息を吐いた。
「どちらだと思う?」
「心配ならやめて」
視線を逸らしたまま、セレナは言い切る。
「私は自分のために動いているから」
イグニスの口元が、わずかに緩んだ。
「なら、心配したと言っておこう」
軽い言葉のはずなのに妙に残る響きだった。からかわれていると分かっていても、セレナはその顔を睨み、わざとらしく息を吐いて首を振った。
短いやりとりのあと、静けさが二人の間に落ちた。火の揺らめきが壁に影を落とし、セレナの睫毛の影がかすかに震える。外では風が街灯を鳴らし、遠くで鐘が一度だけ響いた。
やがてイグニスが、炎を見つめたまま口を開く。
「黒い潮が流れていると言ってたけど、見えるのかい。俺たちは、影響が出てからようやく気づくしかできないんだ。黒い靄のようなもを見ることはできるけど……」
セレナは小さく頷いた。
「魔法感応があるから、魔力の流れ……《縒糸》が見えやすいの」
「ああ」
イグニスは、なるほど、と頷く。
「黒い潮が、魔力を汚染するからか」
「ええ。だけど、この街の現象には違和感がある。黒い潮が、まるでどこかへ流れているみたいだった」
「集められている、と?」
「……黒い潮が、どうやって、なぜ発生するのかは、まだ明らかじゃない。そうでしょう? でも、この街の汚染は――偶然の重なりじゃないわ」
「発生そのものか、あるいは、そのあとに何かが起きているということか」
「そう、あなたたちの言う通り、誰かが黒い潮を使って何かをしようとしている可能性が高い」
イグニスの指が、膝の上で静かに組み合わされた。
「それを辿るつもりか」
「ええ」
炎を見つめたまま、セレナは答える。
「危険じゃないのか?」
「……でも、放っておけない。これが私の役目だから」
役目、か。イグニスは小さく繰り返し、炎の奥へ視線を沈めた。
「――前と変わらないな」
セレナの眉がわずかに寄る。
「何?」
「いや、なんでもない」
薪が崩れ、橙の火の粉がふわりと舞う。
「……君が見ているものが、俺にも見えたらいいのに」
「見えないほうがいいわ」
セレナは即答した。
沈黙がまた落ちる。セレナはその空気に耐えきれず、このときばかりはアリアとルフェンの戻りを待った。炎が静かに揺れ、部屋をやわらかく染めていく。やがて、廊下の奥から足音が近づいた。
「お待たせしました。お二人も、温かい飲み物をどうぞ」
穏やかな声が空気をほどく。卓に置かれたカップから湯気が立ち上り、二人の間にやわらかな隔たりを作った。
「明日、商会と領主を調べるんでしょう。私は……あの装飾品にかけられていた魔法を調べたい」
「分かった。それならアリアをつけよう。装飾品の魔法を解いたことは気づかれているだろうから、一人で動かないでくれ」
イグニスは続ける。
「黒い潮を媒介に街を操っているなら、商会だけの話じゃ済まない。権力者が関わっていると見て動いてほしい」
「わかったわ」
セレナはうなずいた。イグニスはセレナが素直に頷いたことに少しだけ見開いた。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ……おやすみ。また明日」
「……ええ。おやすみなさい」
「おやすみなさい、セレナさん」
セレナはマントを手に取り、振り返らずに自室へ向かった。扉の閉まる音が、静かな夜に溶けていく。
イグニスはしばらくその背を見つめていたが、やがて息を吐き、暖炉の前に腰を下ろした。
伸ばした手に、炎の熱がかすめる。火の向こうに揺れるのは、もう戻らない時間の影だ。
夜は静かに流れ、薪の弾ける音だけが部屋の静けさを破った。




