第九話 トアールの静かな夜―2
◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐
その夜、セレナは浅い眠りの底で、また夢を見た。
名前を呼ばれた気がして目を開けると、視界は水の中に沈んでいて、はるか上で揺れる水面の光が薄い膜のように身体をなぞっていた。
音も匂いも遠く、ただ心臓の鼓動だけが内側から鈍く響き、セレナはそのまま沈んでいった。
手を伸ばそうとしても身体は重たい。外から押さえつけられているのではなく、内側から固まって動かなかった。
ゆっくりと、冷たい底へ沈みながら、皮膚の表面がざらりと変質していく感覚にさいなまれる。
指先が黒炭のように染まって硬直していく。それは徐々に肘の方へ這い上がってきた。意志を持った金属のように鈍く光り、皮膚の下へ、骨の奥へと沈み込んでいった。
息をするたび重い何かが胸の奥に溜まり、身体の中身がゆっくりと鉄に変わっていく。この冷たさを、知っている――そう思った瞬間、遠くから声がした。
――セレナ、セレナ。
――起きて。
届かないはずの声が、水の底まで沈んでくる。
誰の声なのかは思い出せない。それでも、その呼びかけだけが、閉ざされた記憶の蓋を揺らした。開かない箱の上で、鍵穴をなぞるように、何度も、何度も。
(……起きないと)
理由は分からない。ただ、その声を無視してはいけないと、どこかで理解していた。
そして、重く固まった瞼を押し上げた瞬間、ざあっと光が流れ込む。
草花の匂いと、削りたての木の香り。鳥の声。視界に映ったのは、小さな板張りの小屋の天井だ。干し草の匂いが漂い、窓から差し込む光が塵を金色に染め、床に落ちた四角い光の中で、花の影が揺れている。
セレナは背もたれのある椅子に座っていた。
身体は鉛のように動かない。動きたいとさえ思わなかった。沈み込んでいた重さが、そのままこの身体と心を縛りつけていた。
――もう、動けない。
――何も考えたくない。
――わたしは、だめだった。
どこかで誰かがそう囁く。自分の声ではないのに、否定できない響き。
ゆるく視線を動かして、部屋の奥に目をやると、粗い机の上に壺が置かれており、野の花が挿してあった。
その横に、小さな背中がある。
銀色の髪の少年だ。十にも満たない姿で、こちらに背を向けたまま、何かを書きつけていた。
声を出そうとしても喉は動かない。だが、少年は振り返らず、ただ微かに笑うような気配がした。
「セレナ。ここはいいところだよ」
顔は見えなかった。
それでも、その声を聞いた途端、胸の奥が鋭く痛んだ。失われた何かを無理やり引き上げようとしたかのように。
「はやく思い出して」
少年が振り返ろうとする。
だが、次の瞬間、小屋の壁の隙間から、黒い影が溢れ出した。それは光も、花も、空気も、みるみる呑みこんでいった。影は床を覆い、セレナの足首に絡みつき、身体を下へと重たく引っ張った。
痛い。
内側から引き裂かれるような痛みと、焼けるような熱が同時に走る。皮膚の下に黒い斑が浮かび、それが結晶の芽となって突き出した。
逃げようとしても身体は動かず、喉を締め上げ、セレナの呼吸は途切れて言った。
――セレナ。
――目を覚まして。
「……っ!」
水面を破るように、セレナは息を吸い込んだ。
そうして、トアールの夜の冷たい空気が肺の奥まで流れてくる。夢だったと理解しても、光と痛みの残滓が身体にこびりついて離れない。
震える手で顔を覆い、セレナはくしゃりと前髪を掴んだ。
確かに声を聞いた。誰なのかは思い出せない。それでも、忘れてはいけないものだったような気がしてならない。
部屋は静かで、秒針の音だけが響いていた。
まだ夜は深い。セレナはふらりと立ち上がり、洗面台へ向かう。蛇口をひねると、細い水の筋が流れ、冷たい水で顔を濡らすと、意識が少しずつ現実へ戻っていく。
だが、鏡を見た瞬間、違和感が走った。
「ひっ」
映っていたのは、自分ではなかった。
幼い少女の姿だ。白い肌のほとんどが黒い斑に侵され、目の下は落ち窪み、唇はひび割れている。
セレナは息を呑み、目をこすり、もう一度鏡を見た。そこにはやつれた自分の顔しかなかった。
見間違いだ。
セレナはそう決めつけて蛇口に手を伸ばす。
だが、自分の指先から肘にかけて、うっすらと黒ずんでいるように見え――セレナは短く悲鳴を上げ、反射的に腕を押さえた。恐る恐る、もう一度見る。白い肌だ。黒い沁みは、ない。夢で見たあの結晶は生えていない。
心臓が激しく打ち、呼吸が浅くなる。セレナはその場に崩れるようにしゃがみ込み、膝を抱えた。
「……さむい」
夢の中の小屋は、あれほど暖かかったのに。
身体の奥にはまだ、あの黒く冷たい鉛が沈んだまま、熱も温もりも奪っていくようだった。
◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐




