第七話 調査―3
静まり返った家の奥から、女の叫び声が鋭く響いた。イグニスとセレナは同時に足を止め、扉の前でわずかに身を引く。直後、内側から何かが駆けてくる足音が重なった。
「マヤ! 待って!」
叫びと同時に、木の扉が内側から弾けるように開く。飛び出してきた小さな影が、勢いのままイグニスの胸へぶつかった。
「おっと」
イグニスは一歩も引かず、伸ばした腕でその身体を受け止める。抱き留められた少年は、恐怖と混乱に身体をよじり、必死にもがいた。
「……っ、は、離して!」
イグニスは力を込めず、しかし逃がさない程度に支えたまま、落ち着いた声を落とす。
「落ち着いて」
少年の動きがぴたりと止まった。肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げる。そうして見知らぬ相手にぶつかったことをようやく理解したのか、短く息を呑んだ。
「怪我はしていないな」
イグニスが腕を緩めると、少年は慌てて一歩下がり、小さく頭を下げた。
「う、うん……ごめんなさい」
少年の声は震えていた。どこか聞き覚えのあるその幼い声に、セレナはイグニスの背後から、その姿を見ようと身を傾ける。
「あれ……君」
セレナは目を瞬いた。
「え……」
少年がはっと顔を上げ、セレナを見て驚いた顔をした。
「あっ、朝の!」
朝、宿屋の前でセレナにぶつかった少年――マヤだ。その時と違うことは、その目のふちが赤くなっていたこと。涙が出てくることを、必死にこらえていた。
「君、扉を勢いよく開けるのは危ないよ」
セレナは声の調子を落として言った。
マヤは頷かず、唇を引き結んだまま視線を逸らした。その横顔には、朝にはなかった怯えと疲労が濃く滲んでいる。
「知り合いかい?」
困ったように言うイグニスに、セレナは小さく頷く。その時、再び扉が開いた。
「マヤ……!」
セレナが宿の前で会った女性、少年の姉であると名乗ったカヤが現れた。その顔には朝よりも血の気がなかった。カヤは駆け寄ると、怯えた弟の体をそっと抱き寄せる。
「ごめんなさい、この子が……! 怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫です。こちらこそ驚かせてしまいました」
イグニスの穏やかな声に、カヤは安堵の息をつく。膝を折り、擦り傷を探すようにマヤの顔や腕を確かめた。
「マヤ、痛いところは? どこか打ってない?」
マヤは首を横に振った。カヤはほっとしたように笑みを浮かべた。
「お客様がいらしたのに……お、お見苦しいところを」
涙を拭って背筋を伸ばしたカヤは、マヤの肩に手を添える。その指先が微かに震えており、どこか不安が隠しきれずに滲んでいた。
その様子を見ていたセレナに、カヤの視線が移る。カヤは目を丸くした。
「あなたは、朝の……」
イグニスが視線を向ける。知っているのか、という問いだ。セレナは端的に答えた。
「朝に、少しだけ話をした」
「そうか」
「その節は申し訳ございませんでした。それで、お二人は……」
その視線が、イグニスの腰元の剣と首元の魔法師の証に止まる。
「もしかして、王都の魔法師様でいらっしゃいますか?」
「ああ」
頷きを見て、カヤの表情がわずかに明るむ。
「そうでしたか。お話は伺っております。どうぞ中へ。外は寒かったでしょう。ベルヤノ酒を用意しますよ。ほら、マヤもおいで」
カヤはそう言って慌しく家の中に入っていく。その背中を見送りながら、セレナは足を止めた。
マヤだけが、その場に残っている。唇が小さく震えていた。
「入ったらだめ……」
誰に向けたとも知れない小さな呟きが、微かな風のように耳をかすめていく。セレナが問い返すより早く、家の奥から流れてくる空気に違和感が走った。
扉の向こう、暖炉の匂いに混じって、焦げたような臭いがかすかに漂っていた。目を凝らすと、薄く黒い靄が空気の中に滲んでいる。
(……何、この感じ)
中は妙に静かで、音が奥へ吸い込まれていく。生活の気配は残っているのに、人の存在だけが薄い。
古い食卓には積み木や画材が散らばり、暖炉の火が弱く揺れていた。その前に、背もたれのある椅子が一脚置かれている。
そこに、女が座っていた。背を丸めたまま、動く気配がない。
「こんにちは。お邪魔します」
イグニスが声を掛けたが、返事はなかった。
「気づいていないのか?」
イグニスが怪訝そうに眉を上げた。
セレナは一歩近づき、顔を覗き込んだ。
――息が止まる。
女は目を開けたまま、完全に静止していた。焦点はどこにも合わず、瞳は濁っている。口はわずかに開き、全身から力が抜け落ちていた。
そこにいるのに、いない。
セレナは手を伸ばし、口元へかざした。
「息はしてる」
頬に触れようと手を伸ばすと、ぴり、と指先に痛みが走った。反射的に手を引くと、皮膚がわずかに赤くなっている。セレナは指と指をこすり合わせた。
「……っ」
「どうした?」
イグニスが声を固くした。
「……母は、一昨日からその状態なんです」
戸口に立つカヤの声は震えていた。盆を持つ手がかすかに揺れている。
「調べに来てくださったのですよね。私はカヤと申します。ハルビリオン様……で、よろしいですか?」
「ああ」
イグニスが頷く。セレナはその偽名に一瞬だけ眉を寄せた。
「そちらの方は……」
「部下の、パールシーです」
「ハルビリオン様と、パールシー様ですね。どうぞ、こちらにお座りください」
カヤに促され、イグニスは向かいの椅子に腰を下ろした。セレナは暖炉の火と、その奥の暗がりを見た。
「相談したいことは、その、母のことです。……母は、おかしくなってしまったのです」
カヤの声は掠れていた。
「見ての通りです。話しかけても反応はなく、動こうともしません。病院へ運ぼうとしても、母に触れられなくて……」
「触れられない?」
イグニスが問い返す。セレナは右手の赤みを見下ろした。弾かれるような痛みがまだ残ってる。触れられないとは、このことだろうと考える。
「ええ。ですが幸い、母には何も起きません。でも、これではまるで――」
「死んでしまったみたいな」
イグニスの言葉に、カヤは静かに頷く。
「でも、息はしているんです。だから、きっと、死んではいません。突然このようになってしまって……あの椅子から動けないんです」
「前兆のようなことは?」
「……」
カヤは考えをまとめるように沈黙し、それから首を横に振った。
「様子が段々おかしくなっていって。でも、なぜこうなってしまったのか、わからないんです……。何かの魔法のせいなのでしょうか?」
セレナは暖炉の火を見て、そして暖炉から離れた窓際に座るマヤへと視線を移した。
反応もせず、死んだように座った母親の姿に、マヤの恐怖は限界だったのだろう。
壁に映る炎の揺らめき。その中に、黒い靄が混じって動いている。それは暗い部屋の中に溶けるように静かに形を変えて、部屋の中に散らばっている。
暖炉が原因ではない。
セレナは立ち上がって暖炉に近づき、そして視線を巡らせた。部屋に満ちる不快な気配の原因を探すために。
「弟の、マヤも……」
カヤは窓際に座っていたマヤを見やった。
「一緒に母を見てくれているのですが、不安だと。どうしたらいいか、もう本当に私たち――」
「ねえ、これはいつからこの家にあるの?」
言葉を遮るように、セレナが口を開いた。
「え?」
セレナは、暖炉の上にある装飾棚に視線を定めていた。




