第七話 調査―4
「どうしたんだ?」
イグニスの問いに、セレナは答えず、暖炉の上を指し示した。
そこに置かれていたのは豪奢な首飾りだった。大粒の石が連なり、銀細工も凝っている。だが、セレナの視線は、その装飾の華やかさではなく、そこにまとわりつく嫌な気配へ真っ直ぐ向いていた。表情には、いつも以上にはっきりと嫌悪が出ている。
「首飾り? それは母の……」
カヤは頷きかけて、途中で止まった。
見覚えはある。たしかに母が気に入っていた――はずだ。けれど、その首飾りを実際に母が身につけていた場面を思い出そうとすると、記憶がそこだけ曖昧にずれる。
その首飾りが、ふわりと宙に浮いた。絡んでいた銀の鎖がゆっくりほどけ、見えない手で整えられるように形を伸ばしていく。暖炉の火を受けた宝石の表面が、一瞬だけ黒く沈んだ。
「こんな色、だったかしら……もっと青白い灰色だったはずなのに……」
「ちがうよ!」
鋭く割って入ったのはマヤだった。窓際から駆け寄ってきて、カヤの袖を強く掴んだ。
「だから変だって言ったじゃん! 前はきれいだったけど、今は真っ黒なんだ!」
弟にそう言われて、カヤの顔からさらに血の気が引いていく。
母が笑いながらこの首飾りを撫でていたことも、それを見て自分が「そんな派手なもの、どこにつけていくの」と軽く笑ったことも、遅れて思い出す。
どうして、そのやり取りごと抜け落ちていたのか分からなかった。
「く、黒?」
「真っ黒だよ! それに変な音もするし、触ると痛いし、だから捨てようって言ったじゃんか!」
「捨てる? そんなこと、いつ……?」
困惑したまま弟を見るカヤに、マヤは小さな拳を握りしめ、半ば泣きそうな顔で訴えた。
「ずっと前からだよ! さっきだって言ったじゃん……。おねえちゃん、どうしちゃったの? カヤおねえちゃんも変になっちゃったの?」
イグニスが顎に手を当てた。
「原因は……それか」
セレナは浮かんだ首飾りから目を離さないまま、イグニスに問う。
「あなたには、これが何色に見える?」
「灰色と、少し青みがかって見える。いや……よく見ると、わずかに黒い。妙な色だ」
「私には黒に見える」
「黒だって? 本当に?」
「彼も同じよ」
セレナが視線を向けると、マヤはまだ状況を飲み込めない顔のまま、それでも強く頷いた。
「最初は青白かった。でも今は、黒に見える」
「色が変わったのか?」
「色が変化する魔法式なら珍しくない。でも、これは違う」
セレナの指先が、宝石の上をなぞるように空を滑る。その瞬間、空気がわずかに軋み、暖炉の火が一拍遅れて揺れた。
「君は魔法感応が高いのね。だから、この首飾りの違和感に気づけた」
セレナは再び首飾りへ視線を戻した。
「魔法が複雑に絡み合ってる。それだけじゃなくて……、黒い靄がある。ただの残滓じゃないわ」
「黒い靄……まさか、黒い潮か?」
イグニスの言葉に、セレナは答えず、五指をわずかに開いた。
その指先に従うように、宝石の表面から黒い煙があふれ出す。煙は渦を巻きながら立ち上り、やがて輪郭の定まらない塊へ変わった。
風は通っているはずなのに、その煙だけが空中に留まり、暖炉の火だけが不自然に真っ直ぐ揺れている。椅子も皿も動かないのに、部屋の内側だけが冷えていった。
見つめるほど、何かの形があるように思えてしまう。人のようで、人ではない。獣にも見えるが、輪郭は決まらない。幾つもの顔のような影が重なってうごめき、ざわざわと声が重なり合った。
イグニスは思わず口元を押さえた。吐き気が込み上げて、耳の奥に、幾つもの声が直接流れ込んでくる。
痛い、苦しい、ここから出たい――そう訴える濁った声だった。
見てはいけない。聞いてはいけない。直感がそう告げている。背筋を冷たいものが這い上がり、皮膚の内側を細い針で刺されるような感覚が走った。
カヤもマヤも耳と目を塞ぎ、その場にうずくまった。
ただ一人、セレナだけがまっすぐ立ったまま、黒い塊と椅子の母親とを交互に見る。そして、ゆっくりと右手を上げた。
その動きは、もつれた紐を解くように静かだった。
セレナの特別な目が、宝石の内側を捉える。
黒い靄の奥に無数の黒い糸が見えた。この家に暮らす者たちの《縒糸》だ。生命のように揺らめくはずの透明な光の糸が、靄の中で絡まり合っている。その中に、一本だけ、腐ったように黒く濁った糸があった。
それは母親の胸元から伸び、首飾りの宝石へと深く絡みついている。
「……やっぱり」
セレナは膝をつき、そっと母親の腕に触れた。黒い糸がかすかに震え始めた。セレナの指先は、その糸をなぞった。
《あなたはいま、ここに在るもの――》
囁くように言った瞬間、指先から黒い炎が流れた。滑らせた先から白い光が滲み、切れかけた糸が縫い合わされるように手繰り寄せられていく。
まず濁りを削ぎ、次に糸を辿って宝石へ走る。ぱきん、と乾いた音がして、石の表面に亀裂が入った。直後、今度は女の断末魔のような声が鼓膜の奥で弾けた。
すると、濁っていた《縒糸》が一本ずつ解けていった。
セレナは無駄なく指を動かす。まるで鍵盤を弾くように。裂けた布を縫い合わせるように。乱れた糸をひとつずつ元へ戻していく。その動きに合わせて、糸の色は黒から白銀へと変化し始めた。
《帰りなさい》
最後に指先で靄を払うと、黒い塊は炎に巻かれて消えていった。
部屋は、嘘のように静まった。
あれほどの風と冷えが渦巻いていたのに、家具はひとつも動いていない。暖炉の火が小さく鳴り、砕けた宝石の欠片だけがかすかに光を返している。
「……もう大丈夫」
セレナは割れた首飾りを素手で持ち上げ、淡々と言った。
「黒い潮が入り込んでいた。人の魔力を吸い上げていたのね。このままなら、命を取られていたわ」
「黒い、潮? まさか、黒い呪い……!?」
カヤは母親のもとへ駆け寄る。マヤはその場で固まったまま、母の膝へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「おかあさん、大丈夫なの……?」
「分からない」
カヤの唇が震えた。
「そ、そんな」
「助からないのか?」
イグニスが問う。
「……黒い潮の影響は取り除いた。私にできることは、このくらいしかない。あとは、医者か、治癒魔法師――あなたの部下に診せるべきね」
マヤは母の足元で、じっと立ち尽くしていた。セレナが視線を向けると、その体が小さく揺れる。
「おねえちゃん、それ……もう……」
「これはもう、ただの首飾りよ」
「もう、悪いものじゃない?」
暖炉の火がぱちりと弾ける。セレナは一度だけ瞬きし、視線を外したあとで、もう一度マヤを見る。怯えた目がまっすぐ向けられていた。
「もう悪いものじゃない」
「――この近くに病院は?」
イグニスが尋ねる。
「と、通りの向こうに診療所があります」
「まずはそこへ運ぼう。セレナ」
呼びかけられて、セレナは首飾りから目を離した。
「手を貸してくれるか」
イグニスと視線が合う。もう一度首飾りを、そして母親を見て、セレナは頷いた。
イグニスは母親へ近づき、手首に触れて脈を確かめ、口元に手を当てた。そのまま魔法を使って母親の身体を持ち上げた。
「このまま連れていこう。急いで」
「は、はい!」
四人はすぐに家を出た。通りを駆け、ひとつ隣の角を曲がる。すぐ先に、目当ての診療所が見えた。




