第七話 調査―2
力を入れていた手の上に、アリアがそっと自分の手を重ねた。ひんやりとした掌が触れた瞬間、張り詰めていた内側の糸がゆるやかにほどけていく。拒もうとした指先がわずかに揺れたが、引くこともできず、セレナは呼吸だけを整えた。
(……この人も、苦手だ)
他人の温度に触れられると、どうしても身構えてしまう。いつからそうなったのかは思い出せなかった。
ただ、触れられた瞬間に、身体の奥が静かに逃げ場を探し始める。その感覚を押し殺しながら、セレナは視線を逸らした。
その横で、しどろもどろに言い訳を重ねるイグニスの様子が目に入る。
つい先ほどまで感じていた圧は影を潜め、そこにいるのは、思い通りに物事を進める男ではなく、どこか不器用な青年の姿だ。その落差が妙に可笑しくて、セレナは知らず、口元の力を緩めていた。
「あっ」
イグニスはわずかに目を見開いた。
「――いま、笑った?」
言われて初めて気付いたセレナは、はっと口元に手を当て、首を振って誤魔化した。
「……それで、これからどうするの? 協力すると決めた以上、あなたたちの考えを聞いておきたい」
「あ、ああ。そうだな」
気を取り直すように、イグニスは咳払いをひとつ落とした。
「ひとまず、俺たちはもう一度街へ出て、被害に遭った人の話を直接聞きに行こうと思っている」
「俺たち?」
「ああ。俺と君だ」
イグニスは当然だという表情で言った。
「魔法の影響で困っているという人に会う約束をしているんだ。ルフェンとアリアは憲兵隊へ行って、さっきの男から事情を聞いてくれ」
「承知しました」
ルフェンが揺るぎのない声で答えた。
「よし。じゃあ三刻後に広場で合流だ」
ルフェンとアリアは一礼し、先に部屋を出ていった。扉が閉じると、室内に静けさが戻る。その間を埋めるように、イグニスがふと思い出したように手を打った。
「ああ、そうだ」
そのまま廊下の奥へ消え、ほどなく戻ってくる。その手に握られていたのは、見覚えのある布袋だった。
「これは返すよ。ルジから預かってた」
「ルジ?」
「この宿の主人だ。朝、会っただろう」
「それは……でも」
「いいんだ」
言葉を遮るように、イグニスは布袋をセレナの手に押しつけた。
「後から寄越せとは言わないさ」
有無を言わせない調子だった。セレナはわずかに眉を寄せたが、結局は袋を受け取り、そのまま懐へしまい込む。顔を上げると、イグニスがじっとこちらを見ていた。
「なに。まだ何かあるの?」
刺すように言うと、イグニスは一瞬だけ視線を逸らした。躊躇うように息を吸って、短い沈黙のあとで口を開く。
「その傷……治さないのか。それとも、治せないのか」
唐突な問い。声には、軽薄な気配がなかった。
ただの好奇心で聞いたわけではないことは、その表情を見てすぐに分かった。まるで傷を自分自身が負ったかのような、胸の奥が疼く表情で、セレナを見ていた。
「ど……、っちでもいいでしょう」
そう言うと、イグニスは短く息を飲んだ。胸の奥で言葉にならない感情を押しとどめて、何かを言いかけてやめた。そして眉間に寄せた皺を、すぐに笑みで覆い隠した。
「ああ、そうだな。君の言う通りだ」
軽く笑っているのに、声は笑っていない。どこか遠く沈んで聞こえる。
(……どうして、そんな顔をするの)
セレナはその一瞬の陰りを見逃さなかった。
「同情するのはやめて」
その理由を聞き返してはいけない気がして、セレナは痛ましい面影から目をそらし、短く言い捨てて外へ出る。
外気は冷たく、吐く息が白く残る。空はどんよりと曇り、重く低い。セレナは外套の上から腕をさすり、空を見上げた。
「降ってくる」
「どうかした? 寒いのかい?」
イグニスも後から続いて外へ出てくる。外気に触れた途端、肩をすくめる。吐く息が白く上がった。寒そうな姿を見て、セレナは無言で手を空にかざすと、ゆっくりと指先を動かした。
一、二、三。
応えて、冷え切っていた空気が、そっと緩んだ。
二人を包み込むように、薄い膜のような気配が空気の層を押し広げた。冷気が遮られ、内側に柔らかな温もりが満ちる。光の加減で、その膜の表面に淡い虹色が揺れ、そして見えなくなった。
「へえ……」
イグニスが感嘆を漏らす。既存の魔法ではないと気づいたからだ。
「すごいな」
「寒さで震えないように、暖めてあげたい人がいたの。……だから作った」
吐息のように零れる。言った直後、セレナははっと口元を押さえた。
(……なんで今、それを)
「作った?」
「え、ええ……」
イグニスはしばらくセレナを見つめたまま、言葉を失っていた。
魔法を独自に組み上げることは、並の魔法師には到底できない。新しい魔法を編み出すことは、一生を費やしても成功しない者がほとんどだというのが、魔法師の中での常識だった。
魔法式は積み重ねであり、理論は継承されるもの。それを逸脱する行為は、才能という言葉では片づけられない。
イグニスが何かを考え込んでいる気配が、空気越しに伝わってきた。探るような視線と魔力の揺らぎに、セレナは無意識に肩を強ばらせた。
(――踏み込んでほしくない)
そう感じた瞬間、イグニスの気配が、ふっと引いた。
静寂が二人の間に落ち、代わりに街のざわめきが耳へ戻ってくる。
イグニスは通りすがりの人に声をかけられ、自然に応じていた。何気ないやり取りに、相手も気負いなく笑い返す。
その様子を、セレナは少し離れた位置から見ていた。
(……ああ)
胸の奥に何かを懐かしいと思う感情が滲み、セレナはそっと胸元を押さえ、視線を落とした。
「まだ気分が良くないのか?」
声に引き上げられ、顔を上げる。
「心配してくれるの? 別に、大丈夫よ」
「そうは見えないが」
イグニスは苦笑し、それ以上は何も言わなかった。
「――ああ、そろそろ目的の家だ」
指差した先、十字路の角に一軒家が見える。他の家とさほど変わらないが、屋根はひしゃげ、煙突からは薄い煙が立ち上がっていた。
イグニスは白い手で木製の扉を三度叩いた。返事はない。またさらに強く、三度叩く。
その時、パリン――と乾いた音を立て、扉の隣にあった窓が、内側から割れた。
「マヤ! 待ちなさい!」




