第五話 夢の静寂―3
「知らない人に、いきなり変って言うのはだめよ」
「だって、真っ黒だ。目も雪の色! へんなの……!」
少年は好奇心のままに、セレナの顔を覗き込んでいた。見たことのないものに惹かれたような、隠しようのない顔で。まだ世を知らない子どものそのままの反応だ。
それでも、セレナの顔を覗き込んだところで、少年の息が小さく止まった。瞳の奥に戸惑いが浮かび、表情がわずかに固まった。
「ああ、これ」
セレナは右の額に指先を当てる。
そういえば――イグニスたちは、この傷について何も言わなかった。多くの人は痕を見た瞬間に、ほんのわずかでも表情を変えるというのに、
「痛くないの?」
「痛くないよ。これは勲章なの」
「くんしょう?」
「人を守って、できたの」
右眉の上に、細く白い傷が走っている。引きつれたその線は見る者に強い印象を残した。
――だが、その記憶はセレナにとって曖昧だ。
誰を庇ったのか。どうしてこの傷が残ったのか。前後の出来事だけが、霧の中に沈んでいる。
『セレナ。その傷は、君がこの世界で意味のあることをした証だ。君の勇気と優しさは消えない』
それは、怪我の痕を見て、図書館の管理人がセレナに言った言葉だ。
世界にとって、自分は存在しない。それでも――確かに誰かを守った瞬間があった。その感覚だけは、今も消えずに残っている。だからセレナは、この傷を隠さなかった。
「守る? たすけたの?」
「ええ。そうよ」
少年は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「お姉ちゃん、かっこいいんだね!」
「――マヤ!」
その時、鋭い声が空気を切って飛んできた。目の前の少年の肩がびくりと跳ね、二人が振り向くと、通りの向こうから若い女性が足早に近づいてきていた。
「また勝手なことして! 他の人に迷惑をかけないようにって言ったでしょう!」
「カ、カヤおねーちゃん……」
姉と弟はよく似た大きな瞳をしていた。カヤと呼ばれた女性は弟の隣に立つと、そのまま勢いよく頭を下げた。
「す、すみません! 弟が何かご迷惑を――」
「いえ、大したことじゃないですから」
セレナが軽く手を振ると、カヤはほっと息をついた。
だがその直後、セレナの顔を見て目を見開いた。視線が、傷から瞳へ、そして髪へと移っていく。値踏みされるようなその動きに、居たたまれなくなっていく。
「ええと……」
「あっ――、すっ」
カヤは慌てて、もう一度頭を下げた。
「すみません! あの、その……とても、綺麗な色だと思って……!」
「……え?」
カヤはおずおずと顔を上げ、セレナと視線を合わせる。
「この辺りでは見ない色で……髪も、目も、とてもきれいです。なんだか、月みたい」
「そ……、そう、ですか」
セレナはわずかに言葉を詰まらせる。すぐにそれを誤魔化すように、視線を外した。そしてそのまま、マヤの前にしゃがみ込む。
「今度から、ちゃんと前を見て歩いてね」
「……うん。ごめんなさい」
マヤは小さく答え、恥ずかしそうに俯いた。
「すみません、私からも言っておきます。ほら、マヤ。帰るわよ。お母さんが待ってるから」
カヤは弟の手を引き、そのまま歩き出す。
――呼び止める理由はない。そう思ったはずなのに、セレナの視線は、離れていく背を追っていた。
「あ……」
声が、遅れて零れる。
「あの。市場は、どっちに」
「メラード通りです。この道を真っすぐ行って、最初の角を左に曲がれば出ますよ!」
足を止めたカヤが振り返り、丁寧に答える。
「ありがとう」
短く礼を返すと、カヤは小さく頭を下げ、再び歩き出した。そして角を曲がる直前、ふいに振り返る。
「――お気を付けて!」
その声に、セレナはわずかに目を細める。返事はせず、ただ手を軽く上げた。
教えられた通りに進むと、やがて賑やかな市場が見えてくる。店を広げる人々、行き交う足音、呼び込みの声。朝の空気に、活気が満ちていた。セレナはフードを深く被り、雑踏の中へ入った。視線も声も、彼女を引き止めることはない。
メラード通りは、夜の喧騒を手放し、朝の市場として別の熱を帯びていた。人の流れに押されながら進み、広場の中央に立つ巨木の前で、セレナは足を止める。
「さあ、さあ! お客さん、見ていってくださいな!」
甲高い声が響き、セレナはそちらへ顔を向けた。




