第四話 契約―3
「いいわ。今回は協力する」
セレナは寝台の端に腰を下ろし、すっと背筋を伸ばした。凛とした気品と、突き放すような冷たさ。その相反するものが同時に立ち上がり、イグニスは一瞬だけ目を奪われた。
「ただし、条件がある」
その言葉に、イグニスはすぐ頷く。
「そうか。それなら、魔法契約書でいいかな。君とは長い付き合いになりそうだし」
端正な顔に満足げな笑みを乗せたまま、イグニスは空中に指先を滑らせた。淡い銀の魔力が走り、契約の魔法式の骨組みが空中に描かれていく。
(冬の湖みたい。きれいな魔力……)
「それで、条件は?」
セレナは、その言葉にハッとした。魔力に見惚れていたとは言えない。小さく咳払いをしてから、改めて口を開く。
「一つ。互いの過去を詮索しない。二つ。所属については、それぞれの裁量で開示する。尋ねられても、答える義務はない」
イグニスは静かに頷いた。指先の動きに合わせて、契約文が順に記されていく。その所作はなめらかで、音もなく形を変える氷のようだった。セレナはまた、場違いにも目を奪われそうになる。
「……三つ。私は私の目的を優先する。あなたを置いて行動する自由を持つ」
「いいだろう。俺も自分の目的を優先する」
「ええ。じゃあ、四つ目。報酬は金貨か情報。五つ目。この契約は、どちらかが不利益だと判断した時点で破棄できる。その後は互いに一切干渉しない。それが条件」
「情報、か。どんな情報が欲しいんだ?」
「今すぐ言っても、つまらないでしょう」
そう返すと、イグニスは「慎重だね」と微かに笑う。
この条件なら、セレナは自分のことを話さずに済む。図書館に関する情報を出すかどうかも、自分の裁量で決められる。不利益だと判断すれば、いつでも契約は破棄できる。
セレナにとっては十分すぎるものだ。むしろ、こちらに利がありすぎると言える。これにあっさり応じるイグニスは、契約を軽く見ているのではないかと疑いたくなるほどだ。
「君の希望はすべて呑もう」
「……いいの?」
「もちろん。その代わり、僕からもいくつか」
イグニスの返しに、セレナは内心で小さく感嘆した。これが狙いだったのかもしれない。一手先を取られたことへの苦さが、遅れて胸の奥に残る。
「まず一つ。君の行動に口は出さないが、黒い潮に関わる情報は互いに共有すること。君の秘密も、その範囲に含まれる」
セレナは慎重に頷いた。
「二つ。命を軽んじないこと。君のものでも、他人のものでも。自己犠牲は許さない」
「それは……ずいぶん道徳的ね」
「そうかな。それから三つ目。俺たちはお互い、三つだけ質問できる。その質問を受けた方は、必ず真実を答えること」
質問。
セレナは思考を巡らせた。イグニスは、本当に図書館に関する情報を欲しているのだろう。渡すつもりはなかったが、ここで拒めば、さらに面倒な条件を出してくるかもしれない。
(私も同じだけ彼から引き出せばいい。うまく使えばいいだけ)
セレナはまぶたを伏せ、ゆっくりとその提案を受け入れた。
「受け入れるわ」
「じゃあ、最後にもう一つ。君が危険に巻き込まれた時、俺は助ける。それを拒否する自由は君にある。けれど、助ける権利は俺にある」
思わぬ条件が加わり、セレナの喉から短く声が漏れた。
「え?」
伏せていた目を上げる。動揺を悟られないようにしながら、それでも声はわずかに揺れた。
「どう……いう、つもり?」
「俺は君を利用する。でも、使い捨てるつもりはない」
「は……」
冗談にしては真剣すぎて、誓いにしては曖昧すぎる。セレナの胸に、小さく尖ったものが刺さった。
「……私、どこかであなたに会ったことあるの?」
戸惑いの中で、ふと零れた言葉だった。口にしたセレナ自身が、言った直後に驚いた。
イグニスは瞬き、それから意味深に頷くような、曖昧な仕草をした。肯定にも見えるし、否定にも見える。結局何も答えないまま、その曖昧さは二人のあいだの沈黙に溶けていく。
セレナの問いを受け流したまま、イグニスは空中で指を動かす。契約書にイグニスの名が刻まれた。
(……こちらに有利な契約には変わらない)
セレナもまた指を滑らせる。
封緘の印が二人の名を結び、光が弾けた。契約書は消え、代わりに二人の右腕に淡い腕輪が刻まれる。
縛られるような不安と、誰かと結びついたような安堵。相反する揺らぎが、同時にセレナの胸の奥から湧き上がった。腕輪に刻まれたのは契約の証にすぎない。それでも、見えない重みが静かに絡みつくような感覚が残る。
「これで決まりだ。よろしく、セレナ」
イグニスはまた手を差し出した。
少し迷ってから、セレナはその手をゆっくり握り返した。すると、契約の腕輪が淡く光り始めた。
この契約は、明らかにセレナに有利だ。だからこそ、目の前の青年が何を考え、何を目的に動いているのか、まったく分からない。
(……どうして、ここまで私に与えるの?)
まるで、信じる理由を探しているみたいだ。
信頼の先に何が待っているかを、セレナは知っている。与えられるほど、そのぶん裏切りは深く残る。胸の奥に鈍い不安が居座り続けるくらいなら最初から信じる理由など作らなければいい。
セレナは、アリアと短く言葉を交わすイグニスへ視線を向けた。弧を描く視線。澄んだ濃い青の瞳。凍てつくほど冷たいのに、その奥には静かな優しさがある。
その奥深くに、どうしようもなく懐かしい影を見た気がした。
耳に残る声。ふっと上がる口角。言葉の運び。盤上に駒を置くときの指先。思い出そうとしていないのに、勝手に浮かんでくるものがある。
幼く、柔らかく笑ったときの唇の形。
そして――冬の湖を思わせる魔力の気配。
どこか遠い昔、似たような眼差しを知っていたような感覚。名もない夜の片隅で、誰かの手を取り、寄り添ったような記憶。黒い靄の中に沈んだ残滓みたいな記憶。
(――そんなもの、あるはずがない)
砕けた破片を掬おうとしても、指の隙間からこぼれていく。そんな輪郭のない記憶に意味はない。
不思議な感覚を捨てるように、セレナは心の中で冷たく笑った。
セレナにとって大事なのは、契約だけだ。縛られるのはイグニスではない。誰かに期待しすぎないための、セレナ自身への柵なのだ。
これがあれば、セレナはもう誰にも裏切られない――そう思えた。




