第四話 契約―2
「捕まえる?」
セレナの瞳の奥は仄暗く冷えていた。口元には、仮面のように整った笑みが貼りついている。あまりにもきれいに整いすぎたその表情は、イグニスにはむしろ不自然に見えた。
立ち上がったセレナの黒髪が、月光と燭火を受けてかすかに光る。アリアは肩を強ばらせ、扉の向こうからも警戒する気配が伝わってきた。
「俺は君に協力してもらいたいだけさ。もちろん、その分の報酬は払おう」
イグニスは右手を差し出した。選択肢そのものを、手のひらの上に載せて見せるように。
「君の力も、図書館の知識も、黒い潮の解決には必要だ。どうするかを選ぶのは君だよ。協力するか、しないか」
見せかけの条件ではないか。セレナはまず、そう疑った。
「君が応じるなら、俺はこれ以上詮索しない。だが、黙って消えるなら、それなりの扱いになる」
「……身分を隠して近づく人に、簡単に協力するほど馬鹿じゃない」
イグニスは差し出していた手を静かに下ろした。言い放ったセレナは、そのまま視線をイグニスの胸元へ移す。
「魔力の流れが妙に不自然よ。その留め具」
セレナの白い指先が、軽く空を弾いた。
ぱっ、と小さな光がイグニスの胸元を走る。
黒一色に見えていた胸元の留め具が、ぱちりと小さく音を立てた。薄くかけられていた魔法が剥がれ、そこに刻まれていたのは、一本の剣を挟んで向かい合う二匹の狼の紋章だった。
一瞬のことに、イグニスもアリアも目を見開いている。
拘束魔法の内側で魔法を使ったことか。それとも、隠蔽を破ったことか。どちらにせよ、セレナにとっては呼吸と変わらないほど造作のないことだった。
「光で変わる加工かと思ったけど、その紋章、見たことがある」
二人のあいだの空気がぴたりと止まった。かつて貴族の娘だったセレナが、その紋章を見間違えるはずがない。
「カルフレイン公爵家ね」
セレナは目を細めた。
黒い外套の下、銀糸で織られた双狼の紋章。北方を治める名門の家紋だ。
カルフレイン公爵家。それはラディア・クレメンティア帝国の北方を治める名門であり、帝国四大公爵家の一角でもある。領地は雪に閉ざされた山岳地帯の奥にあり、古くから帝国の守護と魔法師の育成を担ってきた。
現当主を含め、一族の多くは表舞台にほとんど姿を見せず、宮廷にもめったに顔を出さない。その沈黙と閉ざされた領域ゆえに、人々はカルフレイン家を「帝国の影」「沈黙の家門」と呼んできた。
だが、他家が彼らを恐れる理由は、沈黙そのものではない。圧倒的な魔法の才能だ。
古代の魔法式を継ぎ、天候すら従えるその力は帝国随一とされた。もうひとつの呼び名――「北方の狼」――は、牙を見せぬまま敵を凍えさせる、その在り方から来たものだった。
「あら、カルフレイン家の方だったのね」
公爵家の人間が、関係のない領地に現れる。それは普通のことではない。
「もしかして公爵家の使い? それとも、カルフレインの魔法騎士?」
セレナは警戒を滲ませながら、相手の反応を窺った。
セレナにとって、カルフレイン公爵家は今のところ敵でも味方でもない。この遭遇をどう受け取るべきか、慎重に見極める必要があった。
(……図書館の背後関係には、まだ気づいていないみたいね)
セレナの側にとって、カルフレイン公爵家は軽く見ていい相手ではない。隙を見せるべきでもない。
一方のイグニスは、わずかに笑みを浮かべたまま何も答えずにいる。沈黙は、そのまま肯定だった。セレナはそれを、上位家門に属する者の矜持と受け取る。
――そして。
「……ふふ、ふ、ははっ」
不意に、イグニスが笑い出した。肩を震わせるその姿に、後ろに控えていたアリアまで、ぎょっとしてイグニスを見直した。
「何が面白いの?」
セレナは眉をひそめる。
「ふはっ、はは、あはは! いや……やっぱり、ただ者じゃないな」
笑いで目尻がゆるんでいる。威圧的な貴族の顔ではなく、ふいに子どもっぽさの覗く笑い方だった。
イグニスは椅子を離れ、セレナの前まで歩み寄った。黒い外套がふわりと揺れ、重みのある影が床へ落ちる。
「俺たちには君の力が必要なんだ。協力してくれるなら、カルフレイン家は君の後ろ盾になる。この件に関する権限は当家からも許しが出ている。だから、図書館のことも、君のことも、俺たちが守ると約束できる」
「自分のことは自分で守る。他人の庇護なんて要らないわ」
セレナはきつく言い返した。
「それに、私のことをずいぶん調べていたみたいだけど……そこまででもなかったみたいね」
「そう?」
イグニスはわずかに顎を引いた。
「なら、俺も遠慮はできないな」
沈黙が落ちる。
「断るなら、俺は君のことをさらに徹底的に調べる。君が頑なに認めない図書館の存在にも踏み込むつもりだ。でも、協力してくれるなら話は別だ」
言葉は冷ややかだった。それでもなお、選択肢だけは残している。
セレナは舌打ちをこらえた。気づかないわけではなかった。イグニスはセレナに、自分自身か、図書館か、そのどちらかを選ばせようとしている。
――図書館なんて知らない。そう切り捨ててしまえば楽だろう。
だが、イグニスの目は本気だ。セレナにはそれが分かる。あの凍えるような瞳の奥に、イグニスは優しさとは別の執念を飼っている。
セレナは、図書館を捨てられない。
なぜなら、図書館だけがセレナの唯一の存在理由だからだ。
「……ずるい言い方ね」
イグニスは、セレナと図書館の繋がりを、かなりのところまで確信しているようだ。
外の人間に、図書館との繋がりを悟られた。そうなれば、図書館の管理人からの叱責は避けられない。
だが、ここで逃げれば事態はもっと悪くなる可能性がある。どちらのリスクを取るかと考え、セレナは視線を伏せた。
ほんの一拍、黙りこんで、ゆっくり息を整える。




