第四話 契約―1
第四話
『契約』
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セレナが次に目を覚ましたとき、部屋は薄暗く、窓の外には星が瞬いていた。
灰色ではない。
青と橙。差し込む月光と町の灯が混じり合い、ここが夜だということを一瞬忘れそうになる。
知らない部屋だ。――夢ではない。セレナは真っ先に自分の手足が拘束されていないかを確かめた。
「目が覚めましたか?」
柔らかな声とともに、明かりを持った人影が近づいてくる。
「腹部の怪我は、私が治療しました。倒れたのは魔力の枯渇が原因です。そのせいで、まだ熱があるんですよ」
赤毛をゆるく束ねた女が、ローブの裾を揺らして駆け寄ってきた。少女にも見えるほど若い女だ。胸元には、魔法管理局の刻印を彫り込んだ首飾りが揺れている。目覚める前に見たものが幻ではなかったことに、セレナは目を細めた。
「体調はどうですか? 痛みは?」
女が手を伸ばす。セレナはその手を即座に払いのけた。
「触らないで」
低く押し殺した声が喉から漏れる。セレナは熱に焼かれた目で女を睨む。
女はぴたりと動きを止め、驚いたように何度か瞬きをした。拒まれると、思っていなかったのだろう。その顔にはっきりとした戸惑いが浮かんでいる。
だが、女はすぐに表情を和らげた。まるで、安心してくださいと言いたげな顔だ。
「ごめんなさい。でも、高熱もあって、ずっと魔力が回復しなかったんです。もう大丈夫かどうかだけ、確認させてください。私は治癒魔法師ですから」
責める口調ではなく、本気で心配している声。セレナは居心地の悪さを覚え、女から目を逸らして天井の暗がりを見る。
「目的は何?」
端的に問うと、相手の呼吸が一瞬だけ詰まった。表情を隠したり、声色で悟られないようにしたり、そういう訓練はあまり積んでいないらしい。セレナはかすれた声を無理に押し出しながら続けた。
「ここへ連れてきたのは、あなたたちでしょう」
「私たちは、あなたに敵意があるわけじゃありません」
自分の身体のことはよく分かっている。魔力の乏しい身にとって、枯渇と発熱は珍しいものではない。助けがなくても対処できるのに、「助けてやった」と恩を着せられるのは不愉快だ。
心の中で鼻を鳴らした時、部屋の扉が軋んだ。
「目が覚めたか?」
セレナは目だけを向けた。あの青年が部屋に入ってくる。
青年は寝台の隣に椅子を引き、静かに腰を下ろした。その仕草は古びた部屋には不釣り合いなほど洗練されていて、高い教育を受けた人間の動きだとひと目で分かった。
「……ずいぶん丁寧なご招待ね。拘束用の魔法式まで。私にはあまり意味はないけど」
「だが、手足まで縛って嫌われるのは惜しいかなと思って」
さらりと返されて、セレナは胸の奥がざらつくのを感じた。唇の端が、わずかに引く。
「話があるなら手短にして」
「もちろん」
「ですが、かっ――」
女が口を挟みかけ、青年はそれを押し返すような柔らかな笑みを向けた。その笑みに気圧されたのか、女は一度口を閉じ、ためらってからまた開いた。
「失礼しました。熱は下がっていますが、魔力の枯渇は続いていますので……」
「大丈夫だ」
青年は笑みを含んだまま答えた。
「手荒な真似はしない」
女は小さく肩を落とし、ほっと息を吐く。それから続いてセレナを見遣る。
「あなたも、魔力が枯渇するほど魔法を使うなんて正気じゃありません。今は大人しくしていた方がいいですよ。それに、嘘をつく場合は、こちらも相応の手段をとることになります」
「脅しているの?」
「ただ、事実を言っただけです」
意外なほど静かな声だった。見た目にはまだ幼さが残るのに、魔法管理局の魔法師としての落ち着きはきちんと備わっている。
「彼女はアリア・パールシー。治癒魔法師だ」
アリアは一歩下がり、静かに頭を下げた。青年はそのまま椅子に深く腰かけ、扉の方へ顔を少しだけ向けた。
「部屋の外にいるのが、ルフェン・ハルビリオン。彼も魔法師だ。二人とも信頼できる仲間だよ」
「……それで、あなたは?」
「俺のことは、イグニスと呼んでくれ」
貴族だろう、とセレナは思う。平民や商人とは思えないほど整った身なりをしているのに、家名を名乗らないことには、怪しさしかなかった。
「隠したいなら勝手にどうぞ。私にはどうでもいいことだわ」
「どうでもいい、か。でも、俺は君に会えて光栄だよ、司書さん」
イグニスは足を組み、膝の上で指を静かに組んだ。
落ち着き払った仕草は、まるでこの場が最初から自分の支配下にあるとでも思っている様子だ。
(……いったいこの男、どこまで知ってるの?)
「君の名前は?」
イグニスは懲りずに問う。諦める気はないらしい。セレナははあと息をつき、寝台の上でゆるやかに身体を起こした。身体は重く、頭はまだぐらつく。熱の余韻のせいか、心臓の音がいつもより近い。
「……セレナ。旅をしているだけの魔法師。さっきから図書館だとか、司書だとか――」
「君は黒い潮の汚染を取り除いた。そんなことができる魔法師は存在しない」
イグニスは組んでいた指をほどき、右肘を肘掛けに置いて頬杖をついた。
「あの魔法は管理局でも確認されていなかった。そもそも、君は魔法師としての証を本当に持ってる?」
「疑り深いのね」
セレナは外套の内側へ手を差し入れ、小さな首飾りを取り出した。淡い光を帯びた正規の証票を、指先で軽く揺らす。
「持ってるわよ。ほら、ちゃんと」
「……へえ」
イグニスの声が少しだけ硬くなった。
「確かに本物だ。だが、セレナという名の魔法師については、所属も任務も、一切の記録が残っていない」
セレナは考えるように視線を逸らした。吐息に混じって、小さな音が漏れる。
これは偶然ではない。必然の出会いだ。
セレナという魔法師の名も、あのいくつもの通り名も、すでに調べ尽くした上で、イグニスは今ここに座っている。
(ほんとに面倒。記憶を消すのは……無理そうね)
セレナはちらりと視線を走らせた。イグニスの背後に控えるアリア。出入り口にいるルフェンというもう一人の影。拘束用の魔法式。三対一。しかも目の前の青年も、隠してはいるが、相当な実力を持つ魔法師だろう。
「記録の不備なんて珍しくないでしょう」
「十年分まとめて?」
イグニスは頬杖を外し、わずかに身を乗り出した。
「証票はあるのに足跡は空白。存在は証明されているのに、経歴だけがない。そんな魔法師は、そう多くない」
「いるときはいるわ。否定はできないでしょう?」
「けれど、この国で人体に影響を及ぼす魔法を使うには正式な許可が必要だ。君の『黒い潮を除去する力』も同じだ。管理局に登録されていない魔法なら、禁忌魔法の疑いがある」
イグニスは、白い指先で椅子の肘掛けをとん、と軽く叩いた。部屋の中に、一瞬、沈黙が落ちる。張りつめた空気が部屋を満たし、室温まで下がったように感じられた。
「俺たちは君を捕らえ、罰することもできる」




