第三話 最悪の始まりー2
黒い潮。
それは帝国を含むあらゆる地域――このエリス=アリダ大陸の広範囲で報告されてきた異常現象を指す。
精神や魔力、果ては物理法則にまで干渉する汚染。人の心を濁らせ、記憶を曇らせ、自然の流れすら狂わせていくものだ。黒い潮に侵された先に何が起こるのか、どのような影響がどこまで及ぶのか、その全容はいまだ明らかになっていない。なぜ、どこから発生するのかさえ、誰も分かっていなかった。
魔法学会はそれを「黒い潮現象」と総称した。
今では魔法師だけでなく、一般の人々のあいだにもその名は広まり、巷では単に「呪い」として恐れられている。だが、魔法の詠唱も、結界も、浄化も、その一切が通じなかった。それは瘴気や呪いという既存の言葉では括れない、未知の汚染だった。
だからこそ、黒い潮を取り除いたセレナの行動は、魔法師の常識からすればあり得ない。
その光景を目の当たりにした青年は、声の起伏を変えないまま、淡々とその事実を並べていく。
「あの男を狂わせたのは、君が回収した指輪だろう」
セレナは黙ったまま青年を睨み返した。けれど青年は、セレナに考える間を与えない。
「そして、その指輪を、もう君は持っていないようだ」
青年はまた一歩踏み出した。石畳に靴音が鳴る。だが、距離を詰めすぎることはせず、影の境界で立ち止まった。
「探られる理由はないわ」
セレナは硬く言い捨てた。
「そう言われると思ったよ」
セレナのつんとした返しにも、青年の口元には笑みが残っていた。だが、その目だけは鋭い。親しげな表情との落差が、不気味だった。
「俺はイグニス。皇都からここへ来た。君の名前は?」
「この流れで教えるとでも?」
セレナは後ろ足に重心を移し、指先で衣の裾をかすかに握った。逃げ道は確保している。これ以上話す理由はない。追われる理由もない。それより、一刻も早くここを離れるべきだと、セレナは考える。
「黒い潮の生じた地域に現れて、黒い炎を操る魔法師。黒煙の魔法師、非道な魔女、あるいは呪われた者。そう呼ばれているみたいだけど……どれがいいかな?」
「どれもお断りよ」
吐き捨てるように告げて、セレナは踵を返した。
「そうか。なら、そうだな――」
青年はふいに呟いた。今思い出したような声音で、それでいて、ずっとその言葉を告げる瞬間を待っていたように。
嫌な予感がした。セレナの心臓が早鐘を打つ。次に青年が何を言うのか、どうしてか分かってしまう気がして――
「ルーメニクス大魔法図書館の司書さん、とか?」
石畳の上で、セレナの足は止まった。進みかけた一歩が、中途半端な位置で固まる。
「な……」
セレナは反射的に振り返った。
その一瞬の反応だけで、イグニスには十分すぎる答えだった。
ルーメニクス大魔法図書館――それは大陸に伝わる伝承のひとつであり、幻の図書館の名でもある。
司書という肩書きは、ただの学者でも書庫番でもない。失われた歴史、禁じられた魔法、途絶えた記録――そのすべてが保管された場所。そして、誰にも見つけられず、誰にも見つかってはならない場所。
図書館は、その伝説を知る者にとって夢であり、宝の宝庫だ。司書はその知識の番人と呼ばれる存在であり、司書の存在そのものが図書館の実在を現実に引き寄せる。
その名が出た以上、もう偶然でも必然でも済まされない事態だった。
セレナは今度こそ急いで身を翻した。逃げなければ、と直感が告げていた。
だが次の瞬間、セレナは背後で風を切る音を聞いた。同時に人の気配と魔力の動き。セレナが足を踏み出すより早く、冷たいものが肺に入り込んでくる。喉が締めつけられ、セレナは咽せた。白い霧が、あっという間に視界を覆っていた。
「ぐぅっ……!」
霧の向こうで、周囲の音が遠のいていく。
目の前のイグニスは動いていない。視界の端で、もうひとつの大きな影がわずかに揺れた。
(しまった、もう一人!)
視界と地面の距離が急に近づく。そのときになってようやく、セレナは自分の意識が奪われようとしているのだと気づいた。
だが、石畳に頬を打つ寸前、背後から伸びた腕がセレナの身体を抱え上げた。抵抗する力もないまま、セレナの意識は沈んでいく。
「……ようやく捕まえられましたね」
知らない声が路地に落ちた。膜の張った耳にも届く、低く落ち着いた男の声だった。
「ご苦労さま、ルフェン。まあ、素早い人だと思っていたが……君の存在には最後まで気づかなかったようだ」
イグニスが答える。石畳を擦る靴音と、布のこすれる音が聞こえた。セレナは瞼を開こうとしたが、まぶたは鉛のように重く、ぴくりとも動かない。
「閣下。念のため魔力の流れも封じておきましょう。万一、起きて暴れられては困ります」
「ああ……そうしよう」
セレナのそばに誰かが膝をついた。首筋に、ひやりとしたものが触れ、糸のように細い魔法式が、セレナの魔力を静かに縛っていった。
「……すまない、手荒な真似をして。さあ行こうか」
穏やかな声だった。誰かがセレナの前髪をそっと払う。手袋越しの指先が、右眉の上を斜めに走る古傷に触れかけて、止まった。
その手を振り払うこともできないまま、セレナの意識は深く沈んでいった。
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見知らぬ部屋だった。
身じろぎした瞬間、全身を沈めるような鈍い重みが意識を叩いた。
(……ここは、っ!)
セレナは柔らかな寝台の上で目を開けた。壁も床も煤や染みで荒れているのに、置かれた椅子や机だけは上質で、丁寧に磨かれている。調度品だけが、この場所にそぐわない輝きを放っていた。
直前の記憶がゆっくりと繋がっていく。セレナは慌てて自分の身体に目を落とした。拘束はない。指も、腕も、足も動く。視線を上げると粗削りの石の天井が見え、そこに刻まれた細い線が気になって目を凝らす。幾何学模様は、魔法式だった。
――拘束の魔法。
強制はしないが、逃がす気もないという意思表示だ。
セレナは眉間に皺を寄せ、寝台の縁に手をつき、身体を起こした。冷えた床板が裸足に触れ、体温を奪っていく。なぜか、身体がやけに重たかった。
(――私は、何をやってるんだろう)
答えは返ってこない。
ぐらりと視界が揺れた。壁と床が歪み、世界がぐるりと回っていた。身体が床に叩きつけられた痛みすら、どこか鈍く感じられた。
自分が倒れたのだと気づいたのは、少し経ってからだった。起き上がる余力はなく、セレナはしばらく床に倒れていた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
セレナは近づいてくる足音を聞いた。低くも高くもない、中性的な声。おそらく女だろう。セレナは億劫になって、視線だけを動かした。
「無理して起きてはだめです!」
女がセレナの身体を抱き起こそうとする。唇は確かに動いているのに、何を言っているのか頭に入ってこない。セレナの耳は、その声をうまく拾えなかった。
――熱のせいだ。
鉛の詰まったような頭で、セレナはそれだけをどうにか理解した。
自分より低い背に身体を支えられる。触れられたくないのに、振り払う力もなく。その女の首元で揺れる首飾りだけが、やけに鮮明に見えた。
魔法管理局の魔法師であることを示す証。
(さいあくだ――)
逃げたいのに、身体が言うことをきかない。目の前の人影がぼやけ、視界は白く滲んでいく。
そのままセレナの意識は、再び沈んでいった。




