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第三話 最悪の始まり―1

第三話


『最悪の始まり』


◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐


 ――化け物。


 その言葉は、もう胸には刺さらなかった。あまりにも繰り返され、あまりにも長く浴びてきたせいで、今さら痛みとして届く前に、擦り切れた感覚の表面を滑っていくだけだった。


 セレナはそれらすべてを背後へ置き去りにするように、酒場を後にした。


 路地裏の空気は、ついさっきまでいた酒場の喧騒が嘘みたいに暗く澄んでいる。酔い潰れて石畳に転がる人間を横目に、セレナは重たい足取りで進んだ。街のざわめきは少しずつ遠ざかり、冷えた夜気だけが頬を撫でる。


(――たいした傷じゃない……まだ動ける)


 腹部からじんわりと熱が広がっていった。脇腹に手を当てると、布がいやに湿っている。痛みと一緒に、魔力を使いすぎたあとの鈍い痺れが、身体の内側からじわじわと圧をかけてきていた。


(……ちょっと、使いすぎた)


 セレナは立ち止まると、腰元の袋から回収した指輪を取り出した。中央には、凛とした光を湛える灰色の宝石があしらわれている。その裏には、伯爵家の紋章が刻まれていた。


「アダルー伯爵家の紋章、か」


 数十年前に滅びた貴族の名だ。セレナも、その存在を文献でしか知らない。すでに存在しない家系でありながら、かつては多くの魔法師を輩出した一族でもあった。没落の理由も知っている。――禁忌の魔法に触れていたからだ。


 銀の指輪はひどく冷たく、刻まれた紋章の溝からは黒い靄がじわりと滲んでいた。まるでセレナに抵抗するみたいに、小刻みに震えている。


「往生際が悪いなぁ」


 このまま持ち帰って分析に回そう。そう思った、その時――ぱきり、と乾いた音が鳴った。つまんでいたセレナの指先の中で、大きくひびが走った。


「え――」


 言葉が漏れた時にはもう遅かった。鈍色だった指輪は、じわじわと黒炭みたいに変色していく。完全に炭化したまま粉々に砕け、灰となって空中へ霧散してしまった。


「うそ……まさか。消えた?」


 セレナは自分の指先を見つめた。


 自然に起きた崩壊ではない。糸を細く、意図的に絞って、断ち切ったような壊れ方だった。空気の中には、不可解な魔力の残滓だけがかすかに漂っている。自己崩壊の魔法式。一定の条件を満たしたとき、あるいは異なる魔力の干渉を受けたときに、自壊するよう組まれた魔法。


「はぁぁぁ……」


 灰すら残らなかった指先を見て、セレナは痛む頭を押さえた。


 魔力や記録を転写し、蓄える魔法には必ず核となる親器がいる。この指輪がその場で消えたのなら、これはただの触媒でしかない。つまり大元との魔力の繋がりが断たれたか、核の側で自壊信号が走ったか、そのどちらかだ。


 指輪の反応は、拒絶に近かった。セレナが干渉した瞬間、指輪は彼女の魔力を検知し発動条件を満たしたのだろう。


「また振り出し……」


 

 建物と建物に切り取られた狭い夜空を見上げ、セレナは白い吐息を長く吐いた。気持ちを切り替えようとするみたいに。


(……そういえば、あの男)


 ふと、酒場の青年に意識が戻った。


 詠唱なしで高度な魔法を扱い、隠してはいたが、セレナと同じように腰に剣も帯びていた。偶然を装っていたものの、セレナが席についた直後に正面へ現れたということは、それ以前からセレナを見ていた可能性が高い。


(まあ、あのチェスは楽しかったかな)


 盤を挟んだ駆け引きは妙に心地よかった。そのことを思い出した途端、口元がわずかに緩みかけて、セレナは慌てて手で覆った。


「……でも、関わったらろくなことにならなそう」

「――何と?」


 思考を断ち切るように、背後から声が落ちてくる。セレナは反射的に腰元へ手をかけ、鋭く振り返った。


「おっ、と。そんなに怖い顔をしないで。チェスを指した仲だろう。俺は怪しい者じゃないからさ」


 たった今思い浮かべていた青年が、少し離れた路地の入口に立っていた。


「怪しくないって言う人ほど怪しいわ。あなた、何者なの? どうして私をつけているの?」


 セレナはその青年を鋭く睨みつける。けれど、その一連の動きだけで腹部の痛みが鈍く身体を刺した。


 だが、痛みを悟られたら負けだ。セレナは呼吸ひとつ乱さず、表情も崩さずに言葉を返す。


「つけてた、ね」


 青年は肩をすくめた。


「聞こえが悪いな」

「誤魔化さないで。店に入る前から、私を見てたんでしょう」

「はは……うん。これは誤魔化さないほうがよさそうだ。そうだよ、つけていた。これで納得する?」


 セレナは右足をわずかに引き、逃げ道を確保しようと身体を傾けた。それでも逃げなかったのは、理由を突き止めなければ後で厄介になると分かっていたからだ。


「なぜ」

「なぜって、黒い潮の影響を、あんなふうに対処できる魔法師なんて普通じゃないからだ」


 入り口側から差し込む淡い光が、青年の輪郭だけをやわらかく照らしている。対してセレナの立つ場所は、建物の影に沈んだまま。青年はゆっくりと一歩進み、それ以上は間合いを詰めず、二人を分ける線の手前で止まった。


「黒い潮。あの男に取り憑いていたものを、君は何らかの力で消した。浄化した、とでも言うべきかな。でも魔法陣も詠唱もなかった。そんなことは、俺は聞いたことがない」


 風がひと筋、二人の間を抜けた。


「黒い潮? 錯乱した男よ。ただの鎮静魔法で抑えただけ」


 セレナは軽く肩をすくめた。


「そうかな?」


 青年は首を傾げる。その眼差しには、穏やかさに隠しきれない確信があった。


「それなら、ぜひ、ただの鎮静魔法を教えてほしいなあ」

「嫌よ」


 恐ろしいほどまっすぐな、群青の視線。強面ではないのに、その視線に絡め取られ、逃げ道をひとつずつ塞がれていくような圧迫感がある。


「黒い潮に対抗する方法を開発した? それとも、どこかの流派に伝わる秘伝かな」

「だから黒い潮って……。あなたの言う通り、黒い潮に普通の魔法は効かない。さっきから言ってることが矛盾――」

「矛盾なんかしていない」


 青年はセレナの言葉を鋭く断ち切った。にこりと微笑んだ顔は若く見えるのに、声だけがひどく冷たく研がれている。


「誤魔化す必要はない。あれは黒い潮の汚染だった。鎮静魔法? なるほど。そう呼ぶなら、それでもいい。むしろ魔法というなら――」


 一拍置いて、静かに、青年は続けた。


「今の魔法知識じゃありえない魔法を、君は使えるということだ。黒い潮に普通の魔法は干渉できない。乱れた布地には、どんな針も刺しようがないから。そうだろう?」


 セレナはわずかに後退した。


 踵が石畳を擦り、身体が影の奥へ退く。青年の声は夜気に溶けながら、それでも静かな重みを失わずに響いていた。

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