第6話「気づかないくらいが丁度いい」
その日は何も起きないはずだった。目的地までの航行は順調で、依頼もなくトラブルの気配もなかった。ルミナが「暇だね」と言って、ブレイクが「珍しい」と言って、ジャックスが「いいことだ」と言った。それで終わるはずだった。
最初に異変が出たのは、ジャックスだった。午前中から、端末に向かって作業していた。航路の見直し、記録の整理、次の補給ポイントの確認——いつも通りの作業だったが、午後になっても終わらなかった。ブレイクが通りがかって、ちらりと画面を見た。
「それ、昨日もやってたやつじゃないか」
「細部を詰めている」
「同じとこ、三回見てるぞ」
ジャックスは答えなかった。ブレイクは何も言わずに、隣の席に座った。特に理由があったわけではなかった。ただ座った。しばらく沈黙が続いた。
「あの上官の話」とブレイクが言った。「前に言ってたやつ」
「急に何だ?」
「今も引きずってるか」
「引きずっていない」
「…そうか」
ブレイクはそれ以上聞かなかった。ただそこにいた。端末を取り出して、特に意味もなく画面を眺めていた。ジャックスは作業を続けた。十分ほどして、ジャックスは端末を閉じた。
「終わったのか」とブレイクが言った。
「あぁ、終わった」
「早かったな」
「そうか?」
ブレイクは立ち上がった。「腹減った。なんか作るけど、食うか」
「……もらう」とジャックスは言った。それだけだった。
昼過ぎ、今度はブレイクだった。食事を作り終えた後、ブレイクは珍しく静かだった。会話もなく、冗談もなく、ただ窓の外を見ていた。ルミナが気づいた。
「ねぇ、ブレイク。どうしたの」
「別に」
「顔が違う」
「そんなことない」
「ルミナ、ずっと見てるから分かるよ」とルミナは言った。「あのひとのこと、考えてた?」
ブレイクは少し間を置いた。
「……なんで分かった」
「こういう顔するとき、たいていそう」
ブレイクは窓の外を見たまま言った。「今いるこの惑星系、昔そいつと来たことがあって。それだけ」
「そっか」
「大したことじゃない」
「…そっか」
ルミナは何も言わなかった。音楽もかけなかった。おもてなしもしなかった。ただ、船内を少しだけ暖かくした。気づかないくらい、少しだけ。ブレイクはしばらくして「なんか温かくなった?」と言った。
「気のせいじゃない?」とルミナは言った。
「そうか」
それだけだった。
夕方、ルミナが静かになった。正確には、静かというより——おとなしかった。実況もなく、提案もなく、ただ船を飛ばしていた。ジャックスが気づいた。
「ルミナ」
「なに?」
「何かあったか」
「ないよ」
「声が違う」
ルミナは少し間を置いた。
「……さっきブレイクの話聞いてたら」と彼女は言った。「ルミナも思い出したことがあって」
「四十三人のことか」
「うん」
ジャックスは端末を置いた。
「みんないなくなった、と言っていたな」
「うん。でも今日はなんか、それがいつもより——なんか、うまく言えないけど」
「近かった?」
「そう」とルミナは言った。「なんかリアルだった。久しぶりに」
ジャックスは少し考えた。
「俺たちは」と彼は言った。「少なくとも今日は、ここにいる」
「うん」
「明日のことは分からない。だが今日は、そうだ」
ルミナは少し間を置いた。
「……ジャックスって、たまにそういうこと言うよね」
「そういうこと、とは」
「なんか、ちゃんとしたこと」
「いつもちゃんとしたことを言っている」
「それはそうなんだけど」とルミナは言った。「なんか今のは、ちょっと違った」
ジャックスは答えなかった。ルミナが、ふわっと笑うような声を出した。人間でいえば、笑顔に近い何かだった。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「言いたかったから言ったの」
夜、三人が同じ空間にいた。特に何かをしていたわけではなかった。ジャックスは読みかけの資料を眺めていた。ブレイクは横になって天井を見ていた。ルミナは船を飛ばしながら、小さな音量で音楽をかけていた。会話はほとんどなかった。それでも、誰も席を立たなかった。
「なんか今日、何もなかったな」とブレイクが言った。
「そうだな」とジャックスは言った。
「珍しい」
「いいことだ」
「それ朝も言ってたな」
「今も同じ意見だ」
ルミナが「ルミナは今日楽しかったよ」と言った。
「何もなかったのに?」とブレイクが言った。
「何もなかったから」
ブレイクは少し考えた。
「……まあ」と彼は言った。「分からなくもない」
ジャックスは資料を閉じた。窓の外に星が流れていた。
「寝る」とジャックスは言った。
「おやすみー」とルミナが言った。
「おう」とブレイクが言った。
それだけだった。三人の夜は静かに続いた。
—続く—




