檻の中の教祖と不格好なピース
松江市内の所轄署、一階の生活安全課・相談室。
壁掛け時計の秒針が、夜の九時を回ったことを告げていた。
無機質なスチールデスクと、パイプ椅子が数脚だけ置かれた殺風景な室内。蛍光灯の青白い光の下で、栗原剛はパイプ椅子に背筋を伸ばして座っていた。彼の視線の先には、これ見よがしにため息をつきながら調書用のバインダーを叩く、若い地元署員の姿があった。
「……で? 警視庁からお越しになった偉い刑事様は、夜道で他人の飼い犬に得体の知れない肉を食わせようとしていたと。そういうことでよろしいですかね」
野村と名乗ったその若い巡査は、口元に隠しきれない嘲笑を浮かべていた。
「犬泥棒、あるいは動物虐待。どちらにせよ、天下の捜査一課にいた人間のやることじゃありませんねぇ。島根の夜道は退屈でしたか?」
「……ただのビーフジャーキーだ。犬が震えていたから、与えようとしただけだ」
栗原は感情の起伏を一切見せず、淡々と事実だけを述べた。
「その言い訳が通るなら、警察は要らないんですよ。現に、あちらでおばさんが『殺されるところだった』って泣き叫んでるじゃないですか」
野村が親指で指し示した廊下の奥からは、先ほどのソフトアフロの女性の甲高い怒声が、今もなお響き渡っていた。
『だから! あの男の目が完全にイッてたのよ! ウチのポチを攫って、どうせ三枚におろして鍋にする気だったんだわ! 早くあいつを逮捕しなさいよ! 金歯が震えて止まらないわ!』
もはや名誉毀損を超えて妄想の域に達しているが、地元の署員たちは誰も彼女を止めようとしない。それどころか、本庁から左遷されてきた「曰く付きの男」が、近所のおばちゃんに犬泥棒扱いされて拘束されているというこの滑稽な状況を、署の連中は総出で楽しんでいた。
廊下のガラス越しには、ニヤニヤとこちらを覗き込む数名の署員の顔が見える。四年前の『栗原教騒動』で組織のメンツを潰した疫病神。彼らにとって、栗原は仲間ではなく、格好の嘲笑の的でしかなかった。
だが、栗原自身は周囲の悪意など、毛ほども気に留めていなかった。
パイプ椅子に座ったまま、彼の思考は目の前のくだらない尋問から完全に切り離され、深く冷たい海の底へと潜っていた。
(……五年前の島根の少女。三年前の広島の少女)
栗原の脳裏には、夕方に石田が見せた「未解決失踪事件のリスト」が浮かんでいた。
発生時期も場所もバラバラ。だが、彼女たちは皆、「祭りの直前」に消え、「巫女舞」という役割を担っていた。
田舎の閉鎖的なコミュニティにおける、思春期の重圧による家出。警察機構はそう処理して、早々に捜査を打ち切った。だが、本当にそうだろうか。一見すると無作為に散らばった点と点の中に、作為的な「ノイズ」が混じっている。
誰かが、意図的に彼女たちを選び、意図的なタイミングで消し去っているとしたら。
バンッ!
野村巡査が、苛立ったように机を叩いた。
「おい、聞いてるのか栗原! あんたの身柄、どうしてくれようかって話をしてるんだぞ! 島根県警の恥さらしが!」
野村がさらに声を荒げようとした、その時だった。
「――はいはい、そこまで。その『恥さらし』の引き取り人が来ましたよっと」
相談室のドアが開き、紙袋を提げた石田誠がひらひらと手を振りながら入ってきた。
「お疲れ様です、野村巡査。いやあ、うちの栗原がご迷惑をおかけしました」
「なんだお前、県警本部の……」
「石田です。まあまあ、そう熱くならないで。ほら、証拠品ですよ」
石田は提げていた紙袋から、コンビニのレシートと、半分食べかけのビーフジャーキーのパッケージを取り出し、机の上に置いた。
「栗原さんが犬に盛ろうとした『得体の知れない肉』です。さっきそこのコンビニの防犯カメラも確認してきました。栗原さんが自分で食べるために買った、ただの安物の酒のツマミです。毒も何も入ってませんよ。僕もさっき一切れ食べましたが、ちょっと塩分が強くてHPが減りそうな味がしただけです」
「なっ……」
「それに、廊下で騒いでるおばちゃんの犬、ポチちゃんだっけ。さっき見たら、栗原さんが落としたジャーキーの欠片をペロリと平らげて、尻尾千切れるくらい振ってましたよ。すこぶる健康です。……ということで、事件性ゼロ。ゲームオーバーならぬ、エンカウントすら成立してません。これで帰らせてもらっていいですよね?」
石田の立て板に水のような弁明に、野村はぐうの音も出ず、悔しそうに舌打ちをしてバインダーを閉じた。
* * *
「いやあ、栗原さん。まさか帰路という名の安全地帯で、あんな理不尽なトラップイベントを踏み抜くとは思いませんでしたよ」
所轄署を出て、夜風の冷たい舗道を歩きながら、石田がカラカラと笑った。
「あのおばちゃんの『金歯が震える』って叫び声、署の入り口まで響いてましたからね。僕、笑いこらえるのに必死で……あ、言い過ぎました。災難でしたね。すみません」
「……」
栗原は石田の軽口を黙殺し、ただ黙々と歩幅を崩さずに歩き続けた。
少し歩いた先にある、赤提灯の点るうらぶれた中華屋。栗原は無言でその暖簾をくぐり、一番奥のテーブル席に腰を下ろした。石田も慌ててその向かいに座る。
「親父。餃子二人前と、瓶ビール。こいつにはウーロン茶だ」
栗原が短く注文を済ませると、すぐに水と熱いおしぼりが運ばれてきた。
栗原はおしぼりで念入りに手を拭きながら、向かいに座る石田を真っ直ぐに見据えた。
「……それで? 頼んでおいたものはどうなった」
栗原の空気が、先ほどまでの「犬泥棒に間違えられた男」から、鋭利な刃物のような「刑事」のそれへと一瞬で切り替わった。
石田もその変化を感じ取り、苦笑いを引っ込めて、持っていた鞄からクリアファイルを取り出した。
「ちゃんとやってきましたよ。あの化石みたいなパソコンを鞭打って、フリーズと戦いながらデータを引っ張り出しました。夕方に神社の石段で栗原さんが見ていた、未解決失踪事件のリスト。その被害者全員の『正確な生年月日』を追加した最新版です」
石田はクリアファイルから数枚のプリントアウトを取り出し、栗原の前に滑らせた。
栗原は運ばれてきた瓶ビールには目もくれず、そのプリントアウトの束を手に取った。
五年前の島根の少女。
三年前の広島の少女。
八年前の山口の少女。
リストには、十数名に及ぶ失踪者の名前と、失踪した日付、そして石田が新たに追記した「生年月日」が並んでいる。
「……よくやった」
栗原は短く労い、文字の羅列に意識を沈み込ませた。
年齢はバラバラ。失踪した年もバラバラ。
だが、生年月日のデータが加わったことで、夕方には見えなかった「新たな輪郭」が、栗原の脳内で徐々に像を結び始めていた。
「栗原さん。そのリスト、何かおかしなところ、ありますか?」
餃子を頬張りながら、石田が首を傾げる。
「僕もデータ打ち込みながら見てたんですけど、やっぱりただのランダムな数字の羅列にしか見えないんですよね。生まれ年も、消えた月も、見事なまでにバラバラじゃないですか」
「……いや。バラバラじゃない」
栗原の声が、低く地を這った。
「え?」
栗原は、プリントアウトの一行目を指先で強く叩いた。
「五年前、島根で失踪した少女。失踪日は『十月十五日』。そしてお前が調べた彼女の誕生日は……『十月二十二日』だ」
「あ、はい。そうですね」
「次だ。三年前、広島の少女。失踪日は『八月三日』。誕生日は『八月十日』。……八年前、山口の少女。失踪日は『四月十日』、誕生日は『四月十七日』だ」
栗原は、次々と別の被害者の行を指し示していく。
その規則的な数字の響きを聞いていた石田の箸が、ピタリと止まった。
「……え? ちょっと待ってください」
石田は慌てて身を乗り出し、栗原の手元にあるリストを覗き込んだ。
「失踪した月と、誕生月が……一緒?」
「それだけじゃない」
栗原の眼光が、冷たい炎のように揺れた。
「失踪日と誕生日を引き算してみろ。十五日と二十二日。三日と十日。十日と十七日だ」
「……七日。つまり、一週間」
石田の顔から、さっきまでの軽口を叩いていた余裕が完全に消え失せた。
「彼女たちは皆、ただ祭りの直前に消えたわけじゃない」
栗原は、まるで呪文を読み解くように、低く重い声で結論を口にした。
「リストの少女たちは全員……『自分の誕生日のちょうど一週間前』に姿を消している」
換気扇の回る音が、ひどく遠くに聞こえた。
偶然の一致で片付けるには、あまりにも異常な確率だった。失踪した時期も場所も年齢もバラバラな少女たちが、ただ一つ、「誕生日の七日前」という不気味な法則だけで見えない糸に繋がっている。
「……背筋が寒くなってきましたよ」
石田が、ウーロン茶のグラスを握る手を微かに震わせた。
「これ、ただの家出なんかじゃない。誰かが意図的に、このタイミングを狙って『狩り』をしてるってことですか? なんでそんな、ゲームの特殊条件みたいな面倒くさい真似を……」
「動機は分からない。だが、これは紛れもなく、狂気に満ちた几帳面な『構造』だ」
栗原はリストから目を離し、冷めかけた餃子の皿を見つめた。
巫女舞。誕生日の七日前。
まだ全容は見えない。犯人がなぜこのような複雑な条件を自らに課しているのか、その理由を解き明かすためのパズルのピースは、まだあまりにも不格好で足りていなかった。
だが、栗原の刑事としての本能は確実に告げていた。
この中国地方のどこかに、途方もない執念で「獲物」を収集し続けている怪物がいる。そしてその怪物の儀式は、今も現在進行形で続いているのだと。
「……石田。明日、署のデータベースではなく、過去の新聞記事を当たれ」
「新聞記事、ですか?」
「ああ。この『誕生日の七日前』に消えた少女たちの事件に、警察の調書には残っていない、何か些細な『共通点』がまだ隠されているはずだ。それを探し出す」
栗原はグラスのビールを一気に飲み干し、静かに立ち上がった。
犬泥棒の濡れ衣という滑稽な檻の中から解放されたばかりの男の目は、もはや完全に「猟犬」のそれへと変わっていた。沈黙の構造を暴くための、果てしなく泥臭い捜査が、今ここから始まろうとしていた。




