独裁者の激憤と、反逆の足音
島根県警本部、特別捜査本部。
数百人の捜査員がひしめき合う大空間は、つい数分前までの統制された熱気が嘘のように、疑心暗鬼とパニックの坩堝と化していた。
「――突破されただと!? 相手は窓ガラスの割れたポンコツセダン一台だぞ! 五人もいてライフルまで構えていながら、なぜ一発のタイヤも撃ち抜けなかった!」
本部長席のデスクを両手で叩き割りそうな勢いで、山名が無線機に向かって咆哮した。その怒声は、特捜本部の分厚い防音壁を震わせるほどの物理的な圧力を伴っていた。
『も、申し訳ありません! しかし本部長、特捜本部の暗号回線から直接「山麓で仲間が被弾した」という緊急応援要請が入りまして……! 我々は指示に従い、バリケードを解いて応援に向かおうと……』
「馬鹿野郎!! 俺はそんな指示は一切出していない!」
山名の額に、どす黒い青筋が何本も浮かび上がる。
黄泉比良坂のダミー施設がもぬけの殻だったという事実だけでも、指揮官としてのプライドを粉々に打ち砕くには十分だった。その上、念のために張っておいた八雲山の最終防衛線までが、たった数秒の「あり得ない隙」を突かれて突破されたのだ。
「……通信班! 先ほどの緊急指令はどこから発信された!」
山名が血走った目で、フロアの中央に陣取るオペレーターたちを睨みつけた。
「お、お待ちください……! 履歴を追っています……。発信元は、外部からのハッキングではありません。この特捜本部のシステム内……いえ、メインサーバーの管理者権限を使った、内部からの強制割り込みです!」
「なんだと?」
室内の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった。
最高機密である特捜本部のシステムに、内部から偽の暗号を流し込める人間。それは、このフロアにいるごく一部の限られた「権限保持者」しかあり得ない。
「……内部の裏切り者が、栗原の逃走を手助けしたというのか」
山名が、獣のような低い唸り声を上げた。その双眸が、ゆっくりと会議室の隅々までを舐め回すように動く。
そして、その視線は極めて自然に、ある一つの「不自然な空白」へと吸い寄せられた。
部屋の片隅。情報分析官たちが並ぶデスク群の中で、一つだけポツンと主を失っている席があった。
稼働したままのノートパソコンの画面が、無機質なスクリーンセーバーの光を放っている。そこに座っていたはずの、警視庁から出向してきていた長髪に細縁眼鏡の男――鈴原の姿が、いつの間にか煙のように消え失せていたのだ。
「……鈴原。あの男か」
山名の地鳴りのような声に、周囲の捜査員たちが息を呑んで道を空けた。
栗原剛という狂犬を追い詰めるための完璧な包囲網。それを内側から食い破ったのが、本庁から送り込まれた青白い顔のデータアナリストであったという事実が、山名の正義感を強烈に逆撫でした。
「ただちに鈴原の身柄を確保しろ! 県警本部の全出入り口を封鎖し、防犯カメラを……」
「無駄ですよ、山名本部長」
氷のように冷たい声が、山名の怒号を遮った。
声の主は、ネクタイをきっちりと締め直し、静かに山名の前に立ちはだかった関川管理官だった。
「関川……。貴様、奴の直属の上司だな。奴が何をやっているか、知ってて逃がしたのか」
山名がゆっくりと関川に詰め寄る。その巨体から発せられる凄まじい殺気は、並の人間であればその場にへたり込んでしまうほどの威圧感だった。
だが、関川は一歩も退かなかった。ポケットに手を入れたまま、冷ややかに見つめ返す。
「私は規定通り、不審なネットワークの動きを検知したため、部下である鈴原を地下のサーバー室へ直接確認に向かわせただけです。……今頃はもう、不具合の報告のために本庁へ戻るべく、地下駐車場から裏口を抜けている頃でしょう」
「とぼけるな。お前たち本庁の人間が、連続殺人鬼の栗原と裏で繋がっていたとでも言うのか!」
「殺人鬼?」
関川は、そこで初めて明確な嘲笑を浮かべた。
「……本部長。私たちは、見当違いの場所を這いずり回らされているのではありませんか? もし栗原が本当に少女を拉致した凶悪犯なら、なぜ警察の大部隊が迫る黄泉比良坂の地下を捨て、わざわざ逃げ場のない八雲山の行き止まりへ向かって、自ら袋の鼠になるような真似をするんですか」
二人の指揮官の視線が、空中で激しく火花を散らす。
「あの栗原という不器用な男が、すべてを投げ打ってでも向かっている『本当の現場』が、あの山の奥にあるはずだ。……私は、机上のデータよりも、現場の猟犬の嗅覚を信じます」
関川のその言葉は、数時間前に山名自身が関川に放った言葉の、完全なしっぺ返しだった。山名の顔面が怒りで紅潮し、拳がミシミシと音を立てた。
その頃。本庁の地下駐車場を抜け出した鈴原は、関川から密かに受け取っていたキーで覆面パトカーに飛び乗り、助手席に通信機材の詰まったジュラルミンケースを乱暴に放り投げていた。
(……待っていてください、栗原さん、石田くん。廃鉱山の奥深くでは、通常の警察無線も携帯の電波も完全に遮断されます。僕が外から、システムの裏口をこじ開けて『中継回線』を繋ぎます)
鈴原は、濡れた前髪を無造作に掻き上げ、キーを回した。
(そうすれば、真実をすべて、あの傲慢な警察組織の脳天に直接叩きつけられる!)
深夜の豪雨の中、サイレンも鳴らさずに急発進した覆面パトカーが、八雲山へと向かって猛スピードで水を跳ね上げた。東京から来た二人の背広組が、組織の論理を完全に逸脱し、初めて現場の猟犬たちの執念に「共鳴」した瞬間だった。
* * *
同じ頃、八雲山の旧硫黄鉱山。
赤黒く錆びついた重い鉄のゲートの隙間を身をよじって抜け、栗原と石田は、完全な暗闇が支配する廃坑道へとその足を踏み入れていた。
「……ひどい匂いですね。鼻の粘膜が焼けそうだ」
石田が、破れたシャツの袖で口元と鼻を覆いながら、顔を顰めて呻いた。
有毒ガスである硫化水素特有の、腐った卵を濃縮したような強烈な悪臭。立入禁止になってから十数年、一切の換気もされていない密閉された地下空間には、粘り気を帯びた濃密な死の空気が重く滞留していた。
「あまり深く息を吸い込むな。長居すればガスで肺がやられるぞ」
栗原は腰のホルスターから懐中電灯を抜き出し、スイッチを入れた。細い光の束が、埃と湿気にまみれた前方の闇をナイフのように切り裂く。
坑道は大人二人が並んで歩ける程度の幅しかなく、足元には酸性の泥水が不気味な赤茶色に濁って溜まっている。かつて鉱石を運んでいたであろう錆びついたトロッコのレールが、肋骨のように地肌から剥き出しになり、奥の暗闇へと真っ直ぐに伸びていた。
「……栗原さん。これ」
石田が、足元の泥水の一角を懐中電灯で照らした。
赤茶色の水たまりの上に、真新しい男の重いブーツの足跡と、そして……何か柔らかく重いものを「引きずった」ような、二本の細い跡が残っていた。
「……物部だ。しずくちゃんを抱えて、この奥へ向かってる」
栗原は足跡の横にしゃがみ込み、泥水の中にキラリと光る小さな物体を見つけた。
それは、石田が廃工場の車の中で握りしめていた「銀の髪飾りの基板」と対になる、美しい蓮の花を模した銀細工の欠片だった。
「奴め、この坑道へ入る直前に、発信機である髪飾りの残骸を完全に捨てて行きやがった」
栗原は泥に塗れたその欠片を拾い上げ、無造作にポケットにねじ込んだ。
「つまり、ここが正真正銘の終点だ。もうGPSで追跡される心配も、警察の介入を恐れる必要もない。この地下こそが、奴にとって誰にも邪魔されない『神の領域』ってことだ」
二人は無言で頷き合い、泥水を跳ね上げながら、さらに奥へと進んでいく。
五十メートル、百メートル。外の雨音は完全に消え失せ、自分たちの呼吸音と、時折天井から落ちてくる水滴の音だけが、耳鳴りのように響く。
やがて、坑道の壁面に、ポツン、ポツンと、奇妙な人工の灯りが見え始めた。
和蝋燭だ。一定の間隔で岩肌の窪みに置かれた和蝋燭の揺らめく火が、まるで死出の山道を案内するかのように、さらに深い地下へと二人を誘っている。
「……栗原さん。電波、完全に圏外です。本庁の鈴原さんからの支援も、もう受けられません」
石田が、真っ暗な画面になった通信端末を見せて囁いた。
「構わん。ここから先は、刑事の仕事じゃない」
栗原は上着の裏に手をやり、そこにあるはずの警棒――ではなく、石田の右ポケットの底に深く沈められている「銀のメス」の存在を意識した。あの廃神社で物部の血を吸い、石田の指紋が上書きされた、反撃のための唯一の牙だ。
「ただの『猟犬の喧嘩』だ。十二年分のツケを払わせて、奴の喉笛を噛み千切るまで、俺は絶対に離さねえ」
栗原の低い声が、蝋燭の火を微かに揺らした。
強烈な硫黄の匂いの中に、微かに、あの最初の事件の調書にあった「お香の甘ったるい香り」と、そして……拭い去ることのできない、濃密な血の匂いが混じり始める。
十二年分の少女たちの無念が眠る、真の儀式場。
その最深部の闇の扉が、すぐ目の前まで迫っていた。




