16. 白スミレ
アウレリオの大きな手が、私の頬にそっと触れる。私は涙を拭くのも忘れて、頬へ添えられた彼の手に、自分の手を重ねていた。
「いつからです? いつ、姉との入れ替わりに、お気付きになられたのですか?」
「最初から。会食で紹介された白いリボンの妹君が、青いリボンを着けて観劇に現れた時からですよ」
予想外の答えに目を見張る。アウレリオは、ばつが悪そうに眉尻を下げた。騙そうとした私ではなく、見抜いた彼が申し訳なく思っているのを、不思議な気持ちで見つめ返す。
「あなたたち姉妹は姿形こそ似ておられたが、些細な話し方や仕草が、ほんの少し違っていましたから」
イヴァノの言葉を思い出す。我が強いオリヴィエラ、ぼんやりしているフランチェスカ。なんとなく分かるのだと、幼馴染みは教えてくれた。きっとイヴァノは、わずかな差異を感覚で嗅ぎとっていたのだろう。
一揃いで生まれた私たち姉妹は、右手と左手が異なるように、全く一緒ではなかった。
「政略のための縁談ですから、マルキオン家の双子なら、どちらでもかまわなかったのです。けれど、姉君のふりをするあなたが、次第に気にかかるようになりました」
「私が……?」
「あなたは、ご自分が楽しむのを罪だと思っておられるようでした。本来のあなたは、朗らかな女性なのにね」
「勘違いです。私は陰気で、つまらない人間で……」
アウレリオが、切なそうにチラリと笑う。青いリボンを着けていた当時の私を思い出したのだと、その表情で伝わった。
「サーカスに誘ったのを覚えていますか?」
私は小さく頷いた。王都の観光案内のような、お行儀の良いデートをひとしきり終えた後、アウレリオから提案されたのだ。
「あなたは、怒りませんでしたね。サーカスに誘ったと話したら、側近たちに呆れられたんですよ。面子を重んじる中央貴族のご令嬢は嫌がるはずだ、あなたが優しいから気を遣ってくれただけだって」
「そんなことありません。私も、行ってみたかったんです」
「ええ。あなたは目を輝かせてくれました」
蕩けそうな彼の眼差しの向こうに、サーカスの思い出を垣間見る。死んだように過ごしていた無気力な私に、アウレリオは新鮮な驚きや感動を思い出させてくれたのだ。
「興業は愉快でした。楽しそうなあなたが見られて、嬉しかった。けれど、あなたはすぐにうつむいたんです。まるで、何も楽しんではいけないと、自分自身を戒めておられるようでした」
「ええ……。確かに当時は、そう信じていた気がします」
「いつか、あなたの笑顔が見たいと思ったのですよ。マルキオン家の双子のどちらかではなく、あなたの笑顔が。縁談相手の妹君に、惹かれてはいけないのにね」
彼の指が、私の涙を拭う。私たちは、同じ想いを抱えていた。私はアウレリオを欺き、アウレリオは入れ替わりに気付いていた。けれど、また二人で会うために、私たちにはあの嘘が必要だった。
「オリヴィエラ嬢と婚約を結んだとき、諦めようとしたんです。自分の気持ちを整理するのに精一杯で、彼女の決意に気付けなかった」
「ご自分を責めないでください。一番そばにいた私が、気付くべきだったんです」
だけど、姉の選択に気付いて、やめて欲しいと懇願したら決意を捨ててくれただろうか?
私には分からない。手遅れになった私には、オリヴィエラの死を悼むことしか出来ないのだから。
ひとしきり泣いた後、私は最初に受けた重要な問いかけへ、自分なりの答えをだした。アウレリオは聡明な人だから、私から蒸し返さない限り、二度と尋ねられないと分かっていた。
「私のことは、今後もオリヴィエラと呼んでいただいて結構です」
「危険を考慮し、我慢しておられるなら心配は無用です。南部の秘密として、けして外部に漏らさないとお約束します」
これほど案じてもらえて、胸が一杯になる。アウレリオへ感謝しながら、私は首を横に振った。
「やせ我慢ではないんです。私にとって『オリヴィエラ』は、別人の名前ではありませんから」
姉から名前と自由をもらった。報われなかった愛情と共に、囚われのフランチェスカは姉が連れていってくれた。
私たち姉妹は、元の一つに戻っただけだ。名前が変わったからといって、別人になったわけではない。私の正体はオリヴィエラではないけれど、フランチェスカでもなくなったのだ。
「髪飾りを着けてもかまいませんか?」
「はい」
贈られた絹の花が髪を飾る。アウレリオは、とても優しい声で私を呼んだ。
「あなたの秘密を共に背負いましょう。私の美しい白スミレ」
結束の強い南部では、親しい相手を愛称で呼ぶ。この日からアウレリオは、私をヴィオラ・ビアンカと呼びかけた。ただ一人だけの、彼の白スミレと。
□
結婚式を間近に控えたある日、私とアウレリオを執務室へ呼んだ義父が、一通の手紙を見せてくれた。
「デッシ男爵と事業を始める話は、先日、伝えた通りだ。男爵と連絡を取り合っているのだが、ひとつ検討している計画がある。読んでみなさい」
カゼッリ領の主な産業は、薬草と小麦の栽培だ。収穫物は王都へ運ばれ、収入となっている。
しかし、平民階級の台頭により貴族社会に凋落の兆しが見え始めた。これまで通りのやり方では、通用しない未来が確実に近付いている。義父とアウレリオは新時代に適応するための方法を模索しており、中央貴族の花嫁探しもその一環だった。
あの夜会の晩、セレーネの窮地を救ったことで、デッシ男爵家とカゼッリ伯爵家との間に繋がりができた。コルツァーニ公爵に激怒し、見切りをつけた男爵にとっても、両家の友誼は歓迎すべきものだった。
デッシ男爵にとって、彼の事業や資産は、一人娘のセレーネのために築いたものだ。目先の利益を優先するより、彼女の苦痛が伴う王都での商売から、いずれ撤退できるよう距離を置き始めている。
「小麦や薬草の加工の件とは違うのですか?」
「そうだ。加工工場の建設と隣国への販路拡大については、順調に進んでいる。それとは別に、新規事業の可能性を探ってみようかと男爵と相談していたんだ」
現在の産業を一新するのではなく、小麦や薬草を領地内で加工して付加価値を高めたり、王都より隣国のほうが近い立地をいかして輸出ルートを確立したりと、デッシ男爵との共同事業計画は順調に進んでいた。
渡された手紙に目を通すと、別の事業に関する提案が記されている。
「ワイン用の葡萄ですか」
「領内の高地の気候が、栽培に適している可能性が高いようだ」
山師のように、いきなり賭けに出るのではなく、小規模な試験栽培から試してみないかという相談の手紙だった。
「葡萄栽培が上手くいったら醸造はできそうか、葡萄の品種は何がいいのか、どこへ向けて販売するのか、ひとつずつ手探りで進めていかなければならない。専門技術の積み重ねから始めるのだから、かなり長期の計画になるだろう」
ワインの計画は、地道な努力と多大な時間を必要とする。次世代を担う者たちが取り組む課題といったところだろう。
「先方は、セレーネ嬢に任せたいと言っておられる。私の方は、お前たち夫婦に委ねるつもりだ」
近く、デッシ男爵の名代としてセレーネを向かわせると手紙に記されている。思いがけない人物との再会を控えて、私は人生の不思議というものを味わっていた。
数日後、デッシ家の馬車が領主館に到着した。男爵の部下だという青年を伴って、一人の令嬢が姿を見せる。
「お久しぶりです、オリヴィエラ様、アウレリオ卿。あれから一年ぶりでございますね」
道ならぬ恋に溺れる幼さや、傷つけられて泣き崩れた痛々しさは、最早どこにも見当たらない。苦い経験を飲み込んだ眼差しに陰りは出来ていたけれど、同時に大人びた凛々しさが感じられた。
再会したセレーネは背筋を伸ばして挨拶すると、真っ直ぐ私と向かい合った。私には彼女の変化が眩しくて、かけがえのないもののように感じられた。




