15. 伯国の優しい時間
王国の南部地方、カゼッリ領には雄大な自然が広がっていた。遠くに見える山々の稜線が、空の青を背景に鮮やかな色彩を描いている。
平地には一面の小麦畑。領主館は高地にあり、馬車にゆられて緩やかな坂を登っていくと、次第に農地は少なくなる。風が渡る草原、深い森、川には清らかな水が流れて魚が泳ぐ影が見えた。
そして、どこを切り取っても絵画のような風景と同じくらいに、驚かされたことがある。カゼッリ領に着いた途端、予想をはるかにこえるほど、領民の歓迎を受けたのだ。
「おお、若君様がお戻りになられたぞ」
「お帰りなさい、若君様!」
「ご無事で良かった。じき収穫祭だというのに、お帰りにならないから、もう心配で、心配で……」
馬車の周囲をかためる護衛たちも、王都での無機質な表情とはうってかわって、親しみやすい顔をしている。
「手を振ってご覧なさい。皆、喜びますから」
うながされて、ためらいながら小さく手を振ると、わっと歓声が上がった。「若奥様」「若君様のお嫁さん」といった言葉が好意的に投げかけられて、頬が熱くなる。
南部という特殊な土地で、カゼッリ伯爵家は今でも君主として扱われていた。すでに王国の統治下へ戻って久しいけれど、実質、この地は未だに伯国なのだと思い知らされた。
私が結婚したアウレリオという男性は、南部地方の人々にとって、伯国の王を継ぐ存在だった。
カゼッリ家の領主館は、古式ゆかしい外観の落ち着いた佇まいだ。歴史を感じる重厚さで、私たちを出迎える。
気圧されながら館へ一歩足を踏み入れると、採光に気を遣った構造のお陰か、思いがけず温かい雰囲気に包まれた。居心地の良い空間に、私は安堵の息をつく。
「家族に紹介しましょう。みんな、あなたに会うのを楽しみにしていたんですよ」
階段の手すりや壁に施された、さりげない装飾。素晴らしい骨董の壺に活けられた、飾らない野花の美しさ。一見素朴だが、上品で洗練された内装を興味深く見いっていた私は、アウレリオに声をかけられて、ハッとする。
「ぼんやりしてしまって、申し訳ありません。あんまり素敵なお屋敷で、つい夢中に……」
「気に入っていただけたなら嬉しいですよ。是非、母に感想を伝えてあげて下さい。きっと喜びますから」
案内された応接室には、立派なタペストリーが掲げられていた。清廉な青菫と血止め草ヤロウの葉が組み合わされたカゼッリ家の紋章が描かれている。
かつてカゼッリ伯爵家とアルベローニ伯爵家で統治された連合伯国だったこの地では、青いスミレはカゼッリ家を紅薔薇はアルベローニ家を意味する特別な花だという。
応接室で私を迎えてくれた伯爵夫妻は威厳のある人たちだった。アウレリオは父親に、弟は母親に似ている。青菫を背負う南部の統治者は、近寄り難さを感じる前に目元を和ませ、長旅の疲れをねぎらってくれた。
「我々はあなたを、アウレリオの妻として遇するつもりだ。だが、正式な結婚が済むまで、東翼の部屋を使っていただきたい。花嫁になる令嬢が婚姻前に滞在する際、用意する部屋なんだよ」
「正式、ですか?」
「御令姉の喪中に、略式で籍を入れたのは承知している。しかし、それが若い貴族令嬢の望みだとは思えないのだ。違うかね?」
義父が私へ、思慮深い眼差しで語りかけた。義母や義弟も、気遣うように微笑みを浮かべている。
「気持ちの整理が、まだついていないのではなくて? わたくしも、身内の不幸がどれほど辛いか分かります。喪が明けるまで、わたくしたちと花嫁道具を揃えたり、この地を巡って習慣を覚えたりして、ゆっくり過ごしてはどうかしら」
「ゆっくりと言っても、南部女性はにぎやかだから、姉上が退屈することはないと思う。うるさかったら、僕が代わりに注意するので言ってください」
「こ、こら。何を言うのです。オリヴィエラさんがびっくりするでしょう」
唇が、わなないた。王都から領地へ向かう旅路の宿で、アウレリオが私の身に触れることはなかった。しかし、夜毎、あの庭園で目撃したジルベルトとセレーネの痴態が脳裏に浮かび、恐ろしさに震えていたのだ。
領主館に着いた以上、妻のつとめを果たす日が来たのだと、覚悟を決めたつもりだった。しかし、こうして寄り添ってもらえて、自分がまだ怯えていることに、ようやく気付く。
思いやりに胸がつまる。秘密を抱えて嫁いできた私に、これほどの優しさを受ける資格は無いというのに。
「我が家では、新婚の夫婦が暮らす屋敷があるんです。でも、結婚式まではこの領主館で、わたくしたちと過ごしましょう」
通常、カゼッリ家に嫁いだ若妻は、その屋敷で女主人の采配を学ぶそうだ。
「もちろん、あなたの過ごしやすい屋敷で暮らしてもらって、かまわないのよ。ただ、アウレリオは立場上、屋敷を離れることも多いでしょう。こんな状況のときに一人きりは、よくないと思うのよ」
瞼が熱い。喉がつまった掠れ声で、返事をする。
「あ、ありがとうございます、皆様」
「もう家族なのですから、気にしないでね。さあ、アウレリオ。使用人との顔合わせは任せましたよ。嫁いだばかりで不慣れな場所は、本当に心細いものなの。夫のあなたが気を配るんですよ」
使用人に紹介され、アウレリオ自らが屋敷を案内してくれる。到着前に整えられていた私の部屋は、広々と明るく、他の部屋と同様に居心地がよさそうだった。
南部貴族と中央貴族との違いは多々あるが、中でも貴族女性の手仕事には驚かされた。中央貴族も刺繍を刺すのは女性の嗜みとされているけれど、南部ではドレスまで仕立てあげてしまう。
「やらないことと、出来ないことは違いますからね。下手でもかまいませんから、少しずつ覚えていくといいわ」
義母に誘われ、カゼッリ家と親しい家柄の女性たちとのお茶会に参加した。世間話が終わると商人が応接室へ現れて、生地を見せてくれる。
南部貴族に、仕立屋へドレスを頼む資力が無いわけではない。私の祖母が若い頃は、中央貴族の女性たちも、普段使いのドレスや花嫁衣装を、自分で仕立てたと聞いている。昔からの文化や習慣が、廃れずに残っているのだ。
「わたくしなんか、初めて縫った夜着は、みごろを間違えて大変でしたのよ、オリヴィエラ様」
「懐かしいですわ。みんなで手伝って直しましたわよね」
「わたくしは、お洋服作りは好きですが、刺繍が苦手ですの。黙々と刺していると、嫌になって走り出したくなってくるのよ」
「あら、この生地は素敵ね。お洋服には派手だけれど、手提げにすると良さそうだわ」
ほとんどのお客様が、私と歳の近い女性たちだった。おそらく義母は、友人づくりのきっかけを用意してくれたのだろう。手芸の話題で会話がはずむ。
着の身着のままで嫁いできた。私の服は、旅の途中でアウレリオが買ってくれた既成のドレスが数枚だけ。すでに、仕立屋に何着か頼んでもらっている。それとは別に、花嫁道具として用意する衣類や花嫁衣装を、みんなで仕立てようという話になっていた。
幼い頃に、姉と共に耳を傾けた祖母の娘時代の思い出話がよみがえる。親しい友人に手伝って貰って、祝福を受けながら衣装を準備するのだと言っていた。
生地を選び、交流をかねた花嫁衣装の準備が始まった。のんびり集まり、話をしながら針を動かすのは楽しかった。手作業を通じて、若い婦人たちと親しくなっていく。何度も顔を合わせるうち、自然に友達ができていた。
「わたくしが嫁ぐときは、オリヴィエラ様も手伝って下さらなくては嫌よ」
「はい、勿論です。ふふっ」
いつの間にか、当たり前のように笑っていた。少しずつ花嫁のドレスが仕上がっていく。ドレスと共にかたく拗れていた私の時間がほどけて、ゆっくりと前へ進んでいくようだった。
アウレリオは多忙な中、たびたび時間をつくっては、私を外へ連れ出した。屋敷の近くを散歩するのはもちろん、馬に乗せて貰って南部の平原を駆け、二人きりで遠乗りへ出かける。
冬になると、凍った湖で初めてのスケートに挑戦した。立ち上がれない私の手を取ったアウレリオが、可笑しそうに肩を揺らす。ムッとした私の仇打ちに、義弟が彼の背中へ雪玉を投げてくれた。
雪が更に深くなると、暖炉の前に集まって、家族で詩の朗読会を開く。深く柔らかなアウレリオの声に、耳を澄まして目を閉じた。朗読が終わり目を開けると、青い瞳がじっと私を見つめていた。
娯楽室でピアノを披露したとき、アウレリオは喜んでくれた。後日、書類仕事をしている彼へ、お茶を淹れようと執務室を覗いてみた。私が演奏した曲を、こっそり口ずさむ彼の姿に、顔が赤くなるのを止められなかった。
雪を割って芽吹く花。番いを誘う鳥のさえずり。アウレリオに手を引かれ、春の訪れを共に感じる。
木々の緑が深まると、アウレリオは私を初夏の遠乗りへ誘ってくれた。
「渡したいものがあるんです」
晩夏に結婚式を控えている。私の花嫁衣装は仕上がって、式の後に移る屋敷では、壁紙を張り替えているところだ。内装を整えたら、アウレリオや友人と選んだ新しい家具を運び込む予定になっていた。
「いつかのように、身を乗り出してはいけませんよ。落ちたら大変ですからね」
「あっ、あれは、慣れていなかっただけです」
「そうかなぁ」
「もう!」
初めて馬に乗ったときの醜態を思い出して、苦笑する。横乗りする私を、背中から支えるように、アウレリオは手綱を握った。
冬にスケートをした湖のほとりで、ブランケットを敷く。馬を木に繋いだアウレリオは、私と肩を並べて美しい風景を見つめた。
やがて、アウレリオは私へ化粧箱を差し出した。蓋を開けると、絹の小花をあしらった髪飾りが入っていた。私は目を見張り、のろのろと顔を上げる。
白いスミレの髪飾り。
「あなたを、なんとお呼びすればいいですか、フランチェスカ」
青い瞳には、軽蔑や非難はなかった。ただ静かに穏やかな愛情を宿して、涙を流すありのままの私を――――死んだはずのフランチェスカを映している。




