謁見の間-010 歌は聞こえたか?
皇子は黙り込んでしまった。
サテンは何もいわなかった。その代り、表情がはっきりと変わりだした。目は宙をにらみ、口は薄く開かれて、まっすぐの背がまるで、造り物の彫刻のように動かなくなる。身体だけがそこにあり、空間から何かが浮き上がるような気配になった。近くの蝋燭の灯りが風もないのに傾いた。どこからともなく、空気が震えて、柵になった岩のふちが鳴りだした。皇子が目を見開いて、サテンを見つめた。サテンの目がゆったり動いて皇子を見る。サテンの顔に大きな笑顔が浮かびあがった。
「やめよ!」
皇子がどなった。廊下の奥へと反響し、階下から、女官達のざわめきと、衛兵のブーツの音が響いて、階段の角から顔をだした。
「皇子殿下?!」
皇子は肩で息をしていた。耳に手を当て、サテンを見ていた。歌は一つも聞こえなかった。しかし、サテンが歌っているのを聞いていた。うすら笑うサテンの顔は、奇妙に浮世離れしていて、人間に見えない。皇子は、立ち止まったままの衛兵に、
「大丈夫だ。口論をしていただけだ」
と言った。疑わしい顔の衛兵に、皇子は大きく息を吸って自分を落ち着かせ、
「時には怒鳴りたくもなる。この男はそのくらい無作法なのだよ」
と言った。本当に、その通りだった。衛兵は、謁見の間のことを聞いていたのだろう。サテンを見た。
「皇子、向こうへ連れて参りましょうか?」
「その必要はない。大丈夫だ。今は、私の付き人だ。私も第五皇子のように龍に慣れ親しみたいと思っていたのだから。少しは、耐えなければなるまい」
これは、自分で自分に言って聞かせているようだった。衛兵は、皇子とサテンを交互に見ていた。サテンの白い服に、片手に花をぶら下げている、武器のない姿を見て、危険が薄いと判断したのだろう。
「お傍におります。何かございましたらお声をおかけください」
と言った。皇子が、片手をあげて感謝するようにうなずくと、衛兵は、二人を見ながら、器用にこちらに顔を向けたまま階段を下がって行った。上の階からも衛兵が駆け下りてきていた。今の衛兵の話を受けたのだろう。同じように、階段を、やはり二人に顔を向けたまま、後ろ向きに戻って行った。皇子は、衛兵を見つめていた。「歌は聞こえたか?」と聞きたかった。しかし、「聞こえなかった」と言われたら? 「いったい何のことでしょう?」と言われたら? 皇子は、不安をぬぐうように、低く固い声で、サテンに言った。
「おまえは知らないかもしれないが、私の両親は王族の中では、奇跡と言われるほど仲睦まじいお二人であられた」
サテンは無言で皇子を見る。
「私はその二人に愛しまれて育った。私は二人の御子だ。国を愛するように育てられ、国を第一に守るようにと育てられた」
皇子は早口になっていた。
「お二人は、私に王になれと育まれた。私は、王になり、第五皇子が穏やかに母龍の話を聞きながら過ごせる宮廷を造り、隣国が武力よりも交易で互いに潤いたいと思う豊かな国を造り、平和で穏やかな国を育てる。国を二分にするような勢力争いをしたり、内乱を助長するような貴族の権力争いの場にはしない。王陛下が築き上げた平和を、両親が望んでいたように、私はそのまま維持していく。なぜなら、私はお二人の御子だからだ。人間の子だからだ」
「孤独な龍の命は短い」
「私は人間であり、龍ではない!」
イライラした声は甲高くなっていた。
「つがいのいない龍の命は短命だ。何かを成せるほどの時間はない」
サテンの乾いた声だった。皇子は睨んだ。
「私は人だ。だいたい、未来が分かるものはいない。おまえが龍であってもな」
「頑固なところは龍である証拠とは言えまいか? 龍は、志を守り、仲間との約束を違えることはない。空を飛び、龍と誓い、龍の世界を愛した時に、本当の幸せが訪れる」
「龍であったら、さぞや幸せになれただろう。人間に生まれて残念だ」
残念がってはいなかった。皇子は言う。
「人間とは、仲間を信じ、約束を守り、互いを守りあいながら生きていく。弱さの中に強さを隠し持つ生き物だ。龍に比べて、短命で、身体は弱く、いつ命を落とすか分からない。未来の儚い生き物だ。だからこそ、今ある生が美しい」
皇子の声は低くかった。しかし、声は誇りに満ちていた。サテンは何も返さなかった。




