山の麓
竜の寝床と言われる王城の閲兵の間では、ぎっちりと立ち尽くした兵が、巨大な柱と柱の間に煌びやかに立ち並び、まるで絨毯が敷き詰められたように立っていた。崖縁の両端、石の手摺のあるバルコニーから貴族、公家、官吏、議場の間にまでこれる人々が驚きを持って見下ろしていた。正面の数段高くなっている石畳には、むき出しの岩壁の前に、昼だと言うのに煌々と松明を掲げ、近衛に護られた第一皇子が立つ。王は控えの窪みで巨大な石の椅子に座り、近侍達に囲まれていた。
ミラーナがバルコニーの近くから正面の石畳を見上げるようにして第一皇子を見つめ、両手を握りしめて青ざめた顔を見せる。可憐な少女に憐れみを感じる人間もいたが、それよりも正面の中央で、緋色の生地に金の刺繍の文様が彩られたマントを翻す、隆と立つ第一皇子の姿に目を引かれ、他を見るどころでは無かった。実際、岩の窪みに座る王の顔色の悪さや、近侍の他に医務官がついでのような顔をしつつも王の脇に用心深く立つ姿は、良く見れば兵を不安にさせたかもしれない。しかし、両側に四将を従え、華々しい姿で立つ第一皇子に目を奪われて、また、遠すぎたと言う事もあるのだが、不穏さに気づく兵はいなかった。
「我ら王国の軍は、幻想と妄想で脅かされる東部の民を救う為、陛下の意志にて出軍する!」
トルスキンがひょろりとした見た目とはかけ離れた、低く良く響く声で大音声に言って聞かせる。しわぶき一つしない閲兵の間では、壁が無い。岩の向こうには青空、空の下には樹海の森が広がっている。人が宙に集まっているかのように見える場所で、トルスキンは黒い上着に黒のマントと言う、四将の軍服を翻し、片手をさっと上げると、天を差した。
「王の意志は、天の意志。天の意志とは王が先祖の竜の意志。我らは竜に従うもの! 我らの側に竜あり!」
と言った瞬間、広場を覆う異様な気配が湧き上がった。真っ白い何かがぐっと兵をものともせずにくぐるように泳ぐ、奇妙な圧迫感が生まれ、一斉にざわめきが上がった。そこに、第一皇子が声を上げる。
「竜が加護を! 我らは竜の使いを得て、ここに、竜軍として出兵する!」
その声と共に、閲兵の天井には岩の中へ食い込むような何かがゆったりと動き、誰もが無言で息を吸った。と、そこに、
「バイローン!」
と言う第一皇子の声が掛かると、銀の髪に銀の目をした、武人らしい装いの男が四将の後ろから一歩前に踏み出した。と、その姿に、まるで吸い込まれるように白い影が動き、バイローンの背後に消えた。一同騒然とする。第一皇子はその雰囲気をあおるように、
「竜が使いは我らと共にあり!」
と叫ぶと、ざわめきが雄たけびのようになり、
「竜は我らと共にあり!」
とさらに第一皇子が叫ぶと、唸り声が叫び声となって、
「竜よ! 我らが王国の竜よ!」
と言う声に合わさって、閲兵の間にうねるような唸り声のような声で振動したのだった。
第一皇子達の立つ石畳の脇には紐で引き据えられた偽バイローンがいた。偽バイローンは憎々しい目で第一皇子を見上げていたが、一瞬口の紐を説かれ、口を動かした途端に、再びさるぐつわをかまされたのだった。その一瞬に、閲兵の間には、はみ出すほど巨大な竜が泳ぎだし、偽バイローンが再びさるぐつわをされている間に、その竜が本物のバイローンを護るかのように背後の岩壁に消えて行く。
「すごい」
とつぶやいたのは、第一皇子の官吏である、バーセルバーだった。たった一言の音にもならないようなつぶやきで、これほどの効果があるとは、と竜の影の消えた岩を見つめながら感嘆の溜息をついた。そして、その岩を同じように睨む偽バイローンは、自分がやったのではない、と言う事を知っていた。そして、その気配が、自分が作り出す幻の竜など比べ物にならないほどの重圧感があり、出汁に使われているだけだと主張もできないほど、恐怖に背筋が震え上がっていた。そして、竜が壁に消えた瞬間、第一皇子の視線がちらりと偽バイローンへ落ちたのだが、その瞬間の恐怖は、消えた影の竜どころではなかった。
「本物だ。本物がそこにいる」
声にならなかった偽バイローンの言葉は、何度も何度ものどの奥で繰り返されるのだった。
なかなかいい考えだと、第一皇子は思っていた。偽バイローンを使って竜の幻影を王軍の竜だとしてしまえば、今後竜の幻がでてもひるむ者も少なくなる。竜神信仰はそのまま、王軍への忠誠へすり替えられる。偽バイローンが何かする時間が無い程短く口を開けさせるだけ開けさせて、閉じさせてしまえば、後は気配を作ってしまえばいい。第一皇子は、だんだん、竜である事、人ではなくなってきていることに、抵抗が無くなりつつあった。
最短で、誰も幻影に飲まれることなく、竜神信仰の侵略者を押さえ、春秋祭りまでには戻る事。王を安心させ、王が養生できる環境を作る事。それだけが、第一皇子の目的になりつつあった。
ぺルシール地方の端、山岳地帯の麓に、川を行くサテン達の姿があった。
兵士たちが陸地を確認しながら、小舟は葦の影に隠れるように川を行く。ランレルは舳先の舟板にしゃがみこみ、山を見上げていた。葦の向こうに星空をくりぬくように黒々とした山がある。海育ちのランレルにとって山はどこか怖かった。
小舟は葦の間から山間の支流へ入り、両側は襲いくるような山肌に変わる。岩肌の上に木が生い茂り、太い枝から垂れた蔦が川面に落ちる。見上げると木々の向こうに夜空が見えるが、月は見えず、星が見えるばかりで暗い。どうやって漕いでいるのかと不思議に思う。前の舟にランタンが吊るされて、その舟を追うように小舟を漕いでいるようだ。
と、脇に道があるのか上の方から音がする。しかし、木々の枝の向こうに岩があってそも向こうにいるのか、音だけが響く。ランレルはぶるっと震えて肩を縮めた。夜の海に入る者は、海の神の機嫌を損ねる。お許しを得る為に、夜の漁に出る者は酒と小枝を用意して、漕ぎ出た後に海に捧げるものだった。
河だって同じじゃないだろうか、とランレルは腕を組んで両手で腕を掴んだ。川下へ漕いでいけばその内海に出るはずだ。海の神と河の神は、それほど違っていないのでは。枝は自然に枝垂れているから、海にいる魚たちへの供物にする必要もない。でも、酒は? 酒くらいはあった方が良いんじゃないか? ランレルはごくりと唾を飲み込んだ。迫る山は、知らない入り江に入り込んでしまったような怖さがあった。
早くつけ。と口の中でつぶやいて、大きく息を吸って目を見開いた。目をつぶるには怖すぎたのだ。
水が舟底を流れて行くのを感じる。舟が水が打つ音が聞こえる。垂れ落ちる蔦が額にぶつかりそうになりそっと右に身体を傾けた。と、眩暈を感じた。と、唐突に辺りが開けた。正確に言うと、一瞬にして全てが見えた。水の道が先まで続き、蛇行した砂の入り江に小屋が見えた。薄い星明かりしか見えないはずが、川は隅々まで見れて、両側にはまだ数艘の舟が横並びできるくらいの幅があった、と言うのが分かる。木々が垂れているように見えるのは影が落ちているからだ。振り返ると、と言うよりも、振り返らなくても、来た川は開けた水田へと続き、広々とした水田には、煌々と月が照る。
ランレルは腕を掴んだまま茫然としていた。まるで崖の上から周囲を見ているかのようだった。それだって、蛇行した川の向こうが分かるはずがない。ないのに、すぐそこに入り江があると分かり、じっと待つほども無く、舟は山肌を廻り、見ていた通りの入り江が見えた。
「見えたんだ」
震えるようなランレルのつぶやきに気づいたものは無かった。
ギャベットは、ランレルの後ろの横板に座っていたのだが、ちょうどその時、開けた視界にほっとして、
「ここで下船か」
とたいそうな船を下りるかのように言った。そして、その脇に腰掛けていたトチ医師は、
「なぜ、船着き場が無い。荷揚げの人夫がいないんだ」
と今更だと言うような、投げやりの声でつぶやいていた。




