マイレウスの山頂
ランレル達は舟を下り、サテンやアヤノ皇子達も舟を下りた。先頭の舟に乗っていたトルンは、舟を岸に引き上げるように短く命じると、兵士たちは草を被せて舟を隠した。トルンは、それを見て確認してから、ランレル達に続くように短く言う。ランレル達は、砂浜の脇にある細いけもの道をかき分けるように入り、斜面を登り始めた。
木の根から木の根へ階段のように渡り、斜めに飛び出た細い幹を掴みながら上の岩へと昇って行く。獣道と言うよりも鉄砲水の通り道のような小道で、ふと見上げると枝や葉の間から綺麗な月が見えた。不思議な程明るい。ふと見下ろすと、ランレルの後ろから上るアヤノ皇子やギャベットが、荒い息を押し殺すようにうつむきながら登っているのが見える。その向こうは急な斜面になっていて、驚くほど下の方に川面がきらきら月に光って白く輝いているのが見えた。
随分昇って来たんだな、と驚いていると、
「立ち止まるな。登るんだ」
と下から腰をつつかれた。剣の柄が腿に当たって、ランレルは兵士を見る。大きなザックを背に背負い、手には重い剣を持ち、なのに、ランレル達よりずっと息も軽く登って来る。ブーツ一つとっても、厚手で重いはずなのに、ランレルよりも小柄な兵士も汗一つ流していないように見える。
「前を見るんだ」
と上からフードを掴まれて、引っ張られる。ランレルは慌てて上を見ると、右端の突き出た岩に上りかけている男が片膝を岩の角に掛けて、手を長く伸ばして、何でもない事のようにランレルの襟のフードを引っ張っていた。
「前の人間が見える距離を保つんだ」
そう言いなおされ、見上げると、その兵の向こうの男も立ち止まり、その向こうの木々の端に消えようとしている男も立ち止まってこちらを見ている。
「この暗がりで、おまえの後ろ全員を迷子にするつもりか」
と言う低い声を後ろから掛けられて、ランレルは岩の間の根っこの道を昇りだす。
ふと気が付くと、後ろの兵士は剣の柄でランレルが踏んだ場所を確かめるようにつつきながら登って来る。見上げると、岩の上にいた男がゆっくりと再び登り始めて、その向こうでじっと上を向いたまま立ち止まり続けていた男も、ゆっくりと動き始めた。暗く見えない森の中を進んでいる。そんな姿に見えた。なのに、ランレルには、岩の上も、その向こうの男達も良く見えた。まるで、月明かりであって、日陰をくぐって行くような気持になるほど辺りは明るく見えた。実際に月は煌々としている。そう、この森の木々の上で。見えないはずの葉の上で。ランレルはぶるっと肩が震えた。なぜ見えるのか、なぜ明るいと思うのか、しんとした山の中で、山の神々の中で、あれこれ疑問に思いたくは無かった。
それから、ランレルは慌てて前の兵士を追いかけた。追い掛けている内に、山の峰に出て、山から山へと連なって行く、東方連峰の美しさを見る事になるのだが、美しさに声を飲むその瞬間まで、自分に何が起こっているのか考えまいと、無心になろうと足元を睨み続けるのだった。
山の頂に出て、山頂だ、と思ったところから、尾根を行くと、ところどころ見晴らし台のようなところがある。人が行く道だ、と思うとランレルはホッとした。もちろん兵達は立ち止まらず、後ろを歩いていたギャベットもアヤノ皇子も、ただただ足元を見るだけで口の端を噛むようにして耐えているばかりなのだが、ふとランレルが気づくと、サテンが飄々と、まるで、庭を散歩しているかのように、連峰を眺めながら、ゆったりと歩いている姿が見えた。全く疲れている様には見えない。そこでランレルは、ぞっとした。自分も全く疲れてなどいなかった。
前を行く兵達は黙々と足元を見ながら連なって行く。その中ほどにトチ医師がいるのだが、途中から歩けなくなっているのだろう。片側から腕を兵士の肩に担がれるようにして歩いている。
ランレルは彼らを追って歩き出す。海辺を歩き、街から街へと当然のように歩いて貝を売りに行った子供時代があった。夜の海は暗く、そんな中、月明かりを頼りに魚を探した事もあった。体力は子供の頃についたはずだ。目は海の暗さに鍛えられた。街で過ごしたギャベットさんとは違って当然、のはずだ。と自分に言い切る。あの、空へ一度浮かんで、眼下を見降ろすように感じたことは、ランレルは強引に記憶の向こうへ押し返した。不安が恐怖になるのは困る。
「幻覚を生む一族がいる場所だ。何があっても不思議じゃないさ」
とつぶやくと、
「その幻覚がない。そこが異様だ」
と、これまで何度もランレルをつっついて先へ向かわせていた兵士が後ろからぼそりとつぶやいた。ランレルがはっと振り返ると、港に少年兵士を送り出した、顎髭の兵士、ゼセロだった。息一つ乱していない。自分と同じだ。そう思うと、ランレルはそれだけでホッとした。ゼセロは、振り返ったランレルを見て、
「この全てが幻覚じゃないとどうして言えよう?」
と低い声で続けた。振り返っていたランレルは、ゼセロにつつかれて、再び前へ歩き出す。歩かせているゼセロは、その背に、さらに、
「今、この瞬間、大勢の敵に囲まれていたとしても、幻覚のせいで見ることができない。切りかかられ、矢を射かけられても、打たれるまでは気づかない」
そう言った後、さらに低い声で、
「痛みさえも幻覚で散らされて、今、この腕は実際は切り落とされて無くなっていたとしても気づかない」
と言って、驚いて振り返るランレルを、止まらず歩けと言うように横に並びながら腕を持つ。ランレルは、掴まれた腕を見て、筋張っている指を見る。痛みがある。強くつかまれている指があり、この手はここにあるはずだ。と、ゼセロに肩を押されて、よろけるように前へむかって、よろめきつつも歩きだす。ゼセロの声が低く続く。
「切った腕があるかのように見せて何になる。血止めが無ければその内、倒れる。倒れれば気づく。気づかせないように歩かせて、躓いても躓いていないように見せかけて、いったい何の意味がある? 血が止まらねば、人は死ぬ。死人に幻覚は見せられない、とすれば、幻覚を見ているならば、生きていると言うわけで、腕があって、切られていないと言う事になる。現実は、ただ歩いているだけ。山だと思って山を登る。尾根だと思って尾根を渡る。幻覚があったとして、その幻覚が、何なのかに意味がある。ともあれ、現実通りの幻覚を見せているなら、予定の時刻に拠点に付けよう」
考え込むような声は、低くゆったり響くせいか、どこか悟ったような声に聞こえた。ランレルは、それなら、この白く光る山々も彼らが見せている幻覚だろうか、と目をすがめながら考える。白く靄が沸き立つようなに見える、尾根の景色は、夜空の下の幻覚だろうか、と。
ゼセロは黙り、先を行く兵も、後ろから来るギャベット達も、口を閉じ、土を踏む足音のみが耳を打つ。草が風に揺れ、葉擦れの音がした。それだけだった。周囲の山の静けさは、月の光の音さえも消してしまった。本当は光の音なんかしないけれど、とランレルは思いながら、光が足元へ落ちるような明るい粒を見ないように足を睨んだ。
木々の間から見えていた山々はいつの間にか鬱蒼とした葉の向こうへ見えなくなった。月は傾き、足元は踏みしめられた小道に変わる。まるで森の中を歩いているようだ、と思っていると、ひんやりとした空気の中に枯草のような香りが混ざり、ふと気が付くと、目の前にはススキが一面に広がっていた。その向こうに月を映す湖面が見えた。
「マイレウスの山頂だ」
ゼセロの言葉に、周囲を見ると兵士たちがススキの合間に見える低い丘へ集まり始めているのが見えた。何もないススキ野と湖面だけが広がる空間に、薄く雲が掛かった夜空が見える。浮かぶ月が湖面に落ちて来そうなほど大きい。真っ黒い湖は、月を映して鏡のようだ。ランレルは、ぶるっと震えた。寒さと言うよりも、どこか神々しいような気がした。それがなぜだか怖かった。しかし、ゼセロは全く気にした様子はなく、
「ふん。ここにも誰もいないか」
とだけつぶやいて、立ち止まったランレルを、ほとんど習慣になってしまったように、肩をつつくようにして押しだした。先へ歩け、と言う意味で。ランレルが歩き出すと、丘の上で集まり始めていた兵達は、荷物を降ろしだしていた。




