異能
近習が第一皇子に茶のカップをそっと出した。四将がそれぞれ慌ただしく散って行った後、執務室でのことだった。窓際に立ち、雨が降りしきる外を眺めている。手をガラス窓に添え、木々の下へ激しく落ちる雨が大地をえぐり、森の木々の下にも盛り上がった根に打ち付けるような雨が降る。第一皇子は空を見上げる。暗く垂れこめた雨雲はどこまでも重く見えた。室内に明かりが灯る。外は夕暮れのようになり、手元が暗くなっていた。振り返ると、本の積み上がった自分のデスクの上に、花の香のお茶が置いてあった。室内を見回しながらお茶を口に運ぶ。ついさっきまで慌ただしく将や副部が出入りしていたのが嘘のような静けさだった。
「第五皇子を人身御供に出したのですから」
レルンの言った、嫌な言葉を思い出す。事実はどうあれ、サテンは自分を連れて行く気で来ていた。それを代わりに第五皇子が受けたのだ。喜んで駆けて行ったが、それを見ていた王陛下や母親であるララルーアの青ざめた顔が頭を離れなかった。
昼過ぎに、官吏のバーセルバーが偽バイローンの調書を持って入って来る。そして、第一皇子は、受け取った調書を読み、動かずじっと待つバーセルバーの前で紙を睨んでいた。と、そこで大きく息を吸う。地図が広げられ、書類が散った中央のテーブルに調書を置くと、第一皇子は不意打ちのような穏やかな微笑を浮かべた。バーセルバーの目には、何かを決意したように見えた。しかし、言った一言は、
「よくやってくれた。しばし休め」
と言う言葉だった。バーセルバーが戸惑ったような顔をしたのだろう。実際、この緊急の時に休めと言われて、戸惑ったのだ。第一皇子は分かっている、と言うように頷いて、
「四将が動きだせば、また、新たに情勢が動く。それまでの休憩だ。動きだしたら次にいつ休めるかわからんぞ」
と言うと、バーセルバーは去りがたいと言う顔をした。分かっているが、何かやれることがあるのでは、と言う思いと、たかが一昼夜の徹夜で潰れるわけもない、と言う自信があった。その思いに、第一皇子は笑って、
「ミラーナを部屋に待たせている。私も少しはそちらへ行かねばならない」
と言うと、慌てたように頷いて、
「申しわけございません。まさしく殿下こそ、今度いつご休憩が取れるかわかりません」
と言って慌ただしく、挨拶をしてさって行くのだった。
その姿を見て第一皇子はテーブルに置かれた調書の束を見た。幻想を見せる偽バイローンの主張。そしてその紙に差し伸べる自分の手の武骨さ。その武骨さのわざとらしさに苦々しさを感じた。第一皇子の目には、武骨な手の向こうにほっそりとした指の長い白い手が空けて見える。自分の手だ。武骨さこそが幻影だと主張する細い手だ。幻想を見せる悪しき者。それは、自分以外の何者でもないような気分になる。
第一皇子は大きく息を吐くと、側にいる近侍達に、
「居室に戻る」
と告げると、彼らにも休みをとるように言い渡して廊下へ出た。
「ミラーナ」
もう昼を過ぎている。外に面して壁一面にとられた窓の向こうは雨が上がり日差しが差し込み始めていた。鬱蒼とした森の木々の間に光がこぼれ、土の上の緑の草花をに白く光を当てている。窓の向こうでパラソルを置いて昼をとる事もある、ミラーナお気に入りの場所は今は雨露で光っている。
「ミラーナ」
第一皇子は居室の中央、10人は座れる広々としたソファーの端で、ひじ掛けの脇に縮こまるようにして眠るミラーナを見つけた。侍女が美しい織布を被せ、自分で顎の上まで引っ張り上げているのか小さな手が布の端を握りしめている。静かに第一皇子が歩み寄ると、ミラーナの顎に力が入っているのが分かる。そっと柔らかい頬に指を添えると眉間に深く皺が寄る。この苦しみが自分のせいだと感じ、第一皇子も同じように眉間に深く皺が寄る。
「さっきまで、楽しそうに話してたんすけどね」
低くそっとした声がして、今気がついたと言うように、第一皇子は振り返る。背もたれの無い長いソファーの上にクッションを枕に横たわる男の姿があった。銀の髪は疲れたように額にはりつき、第一皇子を見上げる目は、視線を向けているだけだと言うのに辛いのか暗く濁った黒に近いような銀色だった。怪我の包帯には血が滲み出し、息をするだけでも痛いのか熱い呼吸を吐いている。昨日の雄弁さはまるで奇跡であったかのように、今は一言言うだけでも辛い、と言う顔をしていた。本物のバイローンだった。
第一皇子とバイローンの間にある美しい花や街の絵が描かれたタイルの張られた低いテーブルの上には、果物の汁の器と小さな匙があった。レースの敷物の上に載せてあるが、ミラーナの好みそうなガラスの器には、切ったオレンジやリンゴも置かれている。
「具合はどうだ」
第一皇子は身体を起こし、ミラーナを起こさないようにそっと離れてバイローンへ向かう。低いテーブルを廻り、ソファーの下に敷かれた重厚な絨毯の上に片膝をつく。
広々とした居間には窓近くに片側10人が座れるソファーセットと、その向かいに人が2人ほどながながと寝そべれそうな長ソファーがある。入口近くにはミラーナが第一皇子の手を引いて時折ダンスをしはじめる、ぽっかり空いて広い場所があって、中央には竜や花の彫のある濃い茶の木製のテーブルがあった。壁沿いには、と言っても中央に立つと随分端の方に見えるのだが、そこには飾り棚があって、ミラーナのお気に入りの南部の美しい細工箱やどの時代からあるのか不明な竜や天の使いのような美しい精霊の陶器の置物が並んでいた。もちろん、ミラーナが活ける花々もある。
「熱があるな」
第一皇子は本物のバイローンの額に手を伸べて熱を測る。バイローンの目にはどう見ても高貴な皇子にしか見えない。その皇子がまるで市井の少年のように気軽に手を伸ばしてきたせいで、一瞬おののいたような顔をした。しかし、第一皇子は構わず暗い銀の目をのぞき込み、ふっと笑った。楽にしてやろうか、と口にしようとして声を飲む。そんな事ができるだろうか、と言う疑問が湧き上がって来たからだった。でも、声を飲む前には、確かに自分にできると感じた。しかし、第一皇子が言った言葉は、
「少しは果汁は飲めたのか」
と言うあたりさわりの無い事だった。
バイローンはじっと皇子の顔を見つめて目を瞬いた。なぜか泣きそうな少年がそこにいるような気がしたのだった。
「玉座の間は上手くいったって聞きました。その小さい姫さんが話してくれて」
一瞬第一皇子は構えた顔をした。と言うのは、上手くいったと言うのは、いったい何をさして上手くと言うのか、と言う苦い思いがあったからなのだが、バイローンはどうやって知ったんだと疑われたのかと思い、あわてて小さい姫さんの事を言い足した。言った途端、第一皇子の目は優し気な色を帯び、ついで、苦しい色に変わった。バイローンは内心首をかしげて、実際には目を軽く二回程しばたたいただけだったのだが、
「あんたの事を、皇子様のことをひどく自慢していたんでさ」
と言った。第一皇子は今度は柔らかく笑っただけで、苦い表情を隠し、
「なんでも自慢してしまうんだ」
と言い返した。そして今度は声に出して、
「楽にしてやろう」
と言うと、バイローンは目に見えて怯えた。理由が分からなかった第一皇子は手を伸ばして安心させようと額に手を当ててやろうとした。熱をとると言うような意味だったのだが、本物のバイローンは本当に動揺して、動けるはずがないのに、腕で身体を起こして離れるようにクッションの上で身じろぎしようとした。
「おい」
と慌てて、長ソファーから落ちそうな勢いで動こうとしたバイローンを、腕を掴んで引き起こし、その瞬間にバイローンは痛みに顔を大きくゆがめた。第一皇子はそれでもぐっと力を入れたままクッションの上にしっかりと戻し、それでも暴れそうになる本物のバイローンを今度は両腕を押さえてクッションの上に留め置き、
「おびえるな」
と言い聞かした。なぜ、怯えるんだ、と言う驚きを持って声を掛けた。その声音で何か感じたのかバイローンはゆっくりと力を抜いた、しかし、第一皇子を見る目にはまだ疑いを含んだままで、
「痛みをとる為にいっそ、思い切って、心臓を止めてやれ、と言う親切じゃないっすよね」
と胡乱な事を聞いた。第一皇子は驚いた顔をした後苦い顔になって、
「妻と子がいて帰らなければならない、と言っていたのではないのか」
と言うと、
「覚えてたんだ」
とつぶやいてほっとクッションに埋もれるように力を抜いたのだった。第一皇子はいらだっていた。ここまで怯えられたことがなかったからでもあるし、怯えられるのはこの見かけがもうほとんどの人間に作り物だと分かっているからではないか、と言う嫌な想像もあったからだ。実際は、気づかないだろうと言う確信があった。どうして、自分の能力にそんな自信があるのか分からないのだが、なぜか分かる。その思いが、第一皇子にはたまらなく嫌だった。それで、気を変えるかのように、
「楽にしてやる」
と再び言ったかと思うと、本物のバイローンの両腕を握ったまま、力を入れた。入れたのは中に流れる意識であって筋肉の力では無かったのだが、手の中のバイローンが跳ねた。驚くような勢いで、背をそらせて上へ膝丈程の高さを跳ね上がって、かぼそい喉から絞り出すような悲鳴を上げた。
第一皇子は驚いて両手を放した。単に、自分の中を流れる物を流せば、人間の身体は簡単に元に治る、と思っていたからだった。両目をむき出しにして天井を見て悲鳴を上げ続ける姿を見て驚き、膝をついたまま、半歩下がって、上下に跳ねていた身体を見て、今度は慌てて屈みこむように身体が飛び跳ねて落ちないように上から押さえ、そして、その動きが見えていないのかバイローンは跳ねたままで意識を飛ばした。目が、何を見ているのか宙を睨んだまま見開いていたのが、やがて疲れたように瞼が落ち、それと共に身体がゆっくりと弛緩して、長ソファーの上へと戻って行った。
第一皇子は真っ青になって、バイローンの肩を押さえ続けていた。落ちないようにと押さえていたはずが、驚きと自分が何をやったのか分からない恐怖とで身じろぎできなくなっていた。
「殿下?」
と言うかぼそい声を聞いて、跳ねるように振り返る。
そこには震えて青ざめた顔のミラーナが、ソファのひじ掛けから身を起こし、顎まで引き上げていた上掛けを震える手で握りしめた姿で、目を見開いて自分を見つめているのだった。第一皇子は振り返ったまま声が出せず、部屋の端から慌てて駆けよって来た近侍と侍女達によって、バイローンの手当が始まり、侍女が怯えるミラーナの側で宥め始めるのを見て、そこで初めてゆっくりと立ち上がる。立ちあがって、上から見下ろす第一皇子が近寄ると言うよりミラーナの様子が気になり身体の向きを変えた瞬間、ミラーナの身体が跳ねた。侍女長が思わずミラーナを抱きしめ、
「大丈夫でございます。姫様。大丈夫でございますよ」
と何度も何度もささやきかけて、背をさする。
第一皇子はそのままフラッと彼らから離れ、そして、ソファーを離れ、まるで自分の部屋ではなくなってしまったかのように感じる居室を、ゆっくりと手足を動かして出て行くのだった。一部始終を見ていた近侍は一瞬後を追いそびれた。彼も怖いと思ったのだ。皇子が手をかざした瞬間、人間がソファーの上で激しく跳ねだしたのを見て、恐怖に胸が掴まれたのだった。しかし、夢遊病者のように出口に向かう第一皇子を見て、唾を飲んだ後、しっかりと立ちあがって後を追う。第一皇子の背中が、まるで泣いているか悲鳴を上げているかのように見えたのだった。
追いついて、扉を出るところで、
「寝室の準備はしてあります。ゆっくりとお休みにならればよろしいかと。長い一日だったのですから」
といたわるように言うと、第一皇子がうつろな目を向け、
「そうだな」
とだけ答えた。なぜか、近侍はその声に胸が締め付けられるような哀しさを感じた。恐怖よりさらに悪い、と近侍は思ったのだが、何も言えず、ただ、支度をしに慌ただしく寝室へと向かったのだった。
これほど暗かっただろうか。岩の中の宮殿である為、寝室には窓の無い部屋を使っている。いつもは、入口近くから広がる鮮やかな白と青の絨毯が部屋を明るく見せ、岩壁に掛けられた踊るような竜と森を描いた横に長いタペストリーが、弾むような楽しさを醸し出す。なのに、第一皇子は両開きに開かれた衛兵が守る扉を超えた途端、息詰まるような暗さを感じた。入口の壁にあるランプや、中央に置かれたベットに吊るされたランプや、着替えでくつろげるようにと据えられているソファーや棚や、いつもみる、木製の自分の好みの落ち着いた部屋が、今は閉じ込められているような気がしてくる。
第一皇子は息を大きく吸ってから、一歩踏み込み、暗い、と思った途端に目を瞬いた。途端に、まるで明るい日が差すかのようにすみずみまで白い光で照らされ始める。驚いて、上を見て、窓は無いかと見回して、いつもと同じタペストリーに低いくり貫かれた天井があるだけだと気づく。そして、ふと足元を見ると、特に影がある分けでは無く、ほんのり、揺れ動くランプの影が、不思議な程白く明るい床の中に、不自然に踊っているのが見えた。第一皇子は足元の影を睨み、踏み出したところで、白い布で覆われた細く長い足を見つける。厚手のズボンに革のブーツを身につけているはずが、もちろん、その自分の影も見えるのだが、その下には素足の自分の足が二重写しになって見える。
深く息を吐いて、あきらめたように踏み出した。暗い部屋は明るくなり、自分は常に二重映る。後からついて来た侍従が着替えの準備をし、片手で上着を脱ぎながら、渡された寝間着を身に着けて行くのだが、本当に手に取って脱いでいるのかさえ、本当に手にしているのかさえ自信が無くなり、侍従が手に取って丁寧に横の低い棚に並べて行く姿を見て、やっと本当に服があったと思う程だった。
ベットに向かって踏み出して、ふと気づいたように振り返る。
「水を、綺麗な泉から湧き出た水をくれ」
言った瞬間、侍従が驚いたような顔をした。それを見て、始めて、そんな習慣が自分には無かったことを思い出す。それよりも、香りのいいアルコールを一口飲んで横になるのが常で、入口近くで待つ控えの侍従が小さな銀の盆に美しいカットグラスをささげて用意しているのが見えた。第一皇子は、いつもので良い、と言おうと口を開け、そして閉じた。泉の水は要らない、と言うべきかと思い、さらに無言が続き、控えの侍従が会釈をして慌てて下がって行くのを見て、ほっとしたのだった。アルコールは飲めない。そう感じた瞬間、第一皇子は何かもっとも大切な物がなくなってしまったような気がしたのだった。
ぼんやりとしながら、ベットの縁に腰掛けて、じっと泉の水を待った。侍従が来て、捧げるように水を渡されると、のどに流し込むようにグラスを傾け、空になると無言で返した。侍従は恭しくグラスを盆に受け取って下がって行くが、いつもなら、礼を言い、ねぎらいの言葉をかける皇子が、無言であるのを見て、それほど疲れているのかと、静かに煩わしい音を立てないように、下がって行くのだった。
第一皇子は、ぼんやりとランプを消してほとんど真っ暗になっているはずの部屋の中、ベットの縁に腰掛けたまま身動き取れずに床を見ていた。第一皇子の目には鮮やかな明るい絨毯が、白い光の中にはっきりと見える。ランプの無い窓の無い部屋で、明かり一つないこの場所で、目が見える自分を、第一皇子は哀しいくらい、異質だと噛みしめていた。
人ではない。それがこんなに哀しいなんて、思わなかった。竜である。それがこれほどの哀しみを生み出すなんて、想像もしなかった。第一皇子は時が過ぎるのを、彫像のように身じろぎ一つせず待った。眠れるような気がしなかった。竜が眠る生き物なのか分からない、そう思った途端に、自分がベットに横になって眠れるかどうか、試してみる気になれなくなった。もしも、一睡もできずに過ごしてしまったら、自分はそのまま森へと駈け出し二度とここに戻って来れなくなってしまうような気がした。座っていたから眠れなかった。そう言う言い訳が欲しくて、第一皇子はじっと床を見つめ続けた。
どれくらい時が経っただろうか。廊下は静まり返り、衛兵が立哨しているだけで、人の動く気配が無い。第一皇子は腰掛けていたベットの端から、ゆっくりと身を動かして、立ち上がる。腰ひもで押さえただけの寝巻のまま、ふらりと動いて戸口に立った。外が見たかったのかもしれない。空気の流れがない岩の部屋が息苦しかったのかもしれない。しかし、動いた途端に意志を持って扉を開けた。起立しなおす衛兵を横に、そのまま廊下に出て、居室へと向かう。
いつもの、自信に満ちた第一皇子がそこにいた。第一皇子は、居室に入ると天井まである窓の近くのソファーに向かう。そこには、両脇にひざまずくようにして看病をする侍女と侍従が、軽くうたた寝をしていた。背の無い長いソファーの上には、昼と同じように本物のバイローンが横たわり、思ったよりもずっと白く綺麗な包帯にくるまれた姿で横たわっていた。静かな寝息が聞こえる。第一皇子は屈みこむようにして胸に手をかざした。心臓の動きを感じる。鼓動が手のひらから伝わり、音が聞こえてくるようだ。実際、第一皇子の耳には音となって聞こえていた。静かな、力強い、規則正しい音だった。
昼間、痛みにのたうち回っていた人間の寝姿には見えない。顔は穏やかで口元は微笑みが浮かんでいるような緩い閉まり具合だった。歯をかみしめて痛みをこらえていた昼間の姿からは想像もつかない程、穏やかな顔だっった。第一皇子はほっとした。痛みつけたかもしれないが、悪化はしていなかったようだった。「そう願うばかりだ」第一皇子は苦い声でつぶやいた。
「何を願うんでさ?」
驚いて視線を上げると、本物のバイローンが目を開けてじっと第一皇子を見上げていた。
「痛みはどうです?」
第一皇子は答える代わりに具合を聞いた。本物のバイローンは、にやっと笑って、
「ご覧の通りでさ」
と身じろぎせずに言った後、腹筋を使って軽々と身体を起こした。驚く第一皇子の前で、ソファーから足を卸して、座って見せる。胸に撒いた包帯も、腕や足の先に撒いている包帯も、痛々しいばかりだと言うのに、全く気にならないのか、足の先を床につけ、腕で身体を支えるようにしてずり上がるようにしてソファーの上に座りなおした。そして、首をかしげて見せると、
「皇子はやっぱり時間が止められるんですかねぇ」
と聞いたのだった。第一皇子が驚くと、
「全く痛くないんでさ。まるで、サテン殿が時間を止めたた時みたいでさぁ」
と言って、両足を同時に上げて、ぽんぽんと足を床につける。にっと笑って、
「まあ、痛みのない時間があるっていうのも良いもんでさ。のんびり茶を飲めるってもんで」
と言う。すると、脇でうめき声が聞こえた、と思うと、脇にいた侍女がはっと顔を上げ、座っている本物のバイローンを見て驚いた顔をした。
「何をしているんです。傷が開いたらどうするんです!」
その侍女の声を聞いて、侍従も顔を上げて、慌てたように本物のバイローンの様子を探る。しかし、それ以上に驚いているのは本物のバイローンで、起きだした二人を見た後、慌てて周囲を見回して、部屋の中央や廊下近くにあるランプが、炎に瞬いているのを見ると、
「時間が動いている…」
と当たり前のことを、驚いたようにつぶやいた。
それから、自分の包帯を巻いた腕を見て、睨みつけていたかと思うとおもむろに手荒く包帯を巻き解いた。止めようとする侍女をしり目にむしり取るようにして包帯をとると、傷一つ無く昔の通り剣だこや切り傷が残るだけの、腐ってもいない溶けても無い手を見ると、そのまま大きく息を吸った。
「治っている」
つぶやきは低く小さく囁くような声だった。しかし、しんと静まり返った居室には重いほのか大きく響き、驚いた顔の侍従が顔を寄せて手の先を見つめ、侍女がのけぞるようにして驚いて、絨毯の上に座り込んで二人を見ていた。
黙って脇に立ち尽くしていた第一皇子は、驚きそして顔がほころぶように喜び始める本物のバイローンを静かに見下ろしていた。治っていた。当たり前のように感じていた自分が恐ろしく、そして治っていないと思った時の驚愕を思い出すと、胸がきりきりとした。よかったと言う思いは、本物のバイローンが喜びに弾けた顔で第一皇子を振り仰いだ瞬間、やっと、しみじみと広がりだして、
「ああ、ありがとうございます。これで、普通に妻と子供を養えます」
と言う声を聞いて、
「良かったですね」
と自然に返せたのだった。
第一皇子が王城から出陣したのは、それから三日後の事になる。




