執務室
第一皇子は、暗い岩をくり貫いたトンネルのような回廊を大股で歩いた。議場脇の扉を抜け、慌てて追随する官吏を無視し、緩くカーブを描く回廊を進む。壁には思い出したようにランプが掛かり、淡く光る炎は、天井高くくり貫いた空気穴からの風で、ゆらりと揺れる。自分の思いのようだ。第一皇子は揺れる岩壁に伸びる自分の影を見て苦々しく思った。陛下の言葉によって取り仕切った軍議は、これまで王が取り組んでいた事の集大成をやっただけだ。これまでの積み重ねがあったればこその動きだ。しかも、自分がした事はすべての者を納得させたわけでもない。バラバラになる前にほんの時間稼ぎをしただけだ。王がいる。だからこその求心力だ。これだけの力しかない。
第一皇子は廊下の向こうに出口を見た。岩回廊を抜けると月の照り映える森の海になる。まぶしい程の光を感じる。
「もしも、陛下が」
第一皇子はつぶやいて、両脇の手をぐっと握った。出口からの風が頬に当たり髪が後ろになびく。後を追う官吏は、いつの間にか裏へ廻った近習へと変わり、第一皇子のつぶやきに耳を傾け足早による。第一皇子は、首を左右に振って彼らをおさえ、さらに大股で歩みを早め、岩穴を抜けた。外は、切り立った崖に岩をくり貫いて作られたテラスがめぐり、岸壁に沿った外回廊になっている。続く先に岩の中の部屋へ続く広場があるが、その手前には下へと続く階段がある。第一皇子はテラスに立つと立ち止まる。
煌々とした月が海原のような森の上に、今しも沈もうとしていた。空は端から薄く青みを帯び、朝を迎えようとしている。清涼な空気が木々の上を渡り、第一皇子の全身を覆う。美しい。慣れた王城からの景色を見て、第一皇子はまるで初めて感じるかのように世界を感じた。美しい。と感じた瞬間、見ていたのがこの壮大な森とその上に見える群青色の夜空だったのか、それともその向こうにあると感じる、更なる広がりの世界だったのか、もう、分からなくなっていた。分からなくなっている自分に気づいた事が驚愕で、そして当たり前のような気がした。そして再び、低い声で、
「もしも、陛下が」
とつぶやいて、苦く思った。もしも、陛下が、第五皇子を選び育てていたら、あの瞬間指示を出していたのは彼だった。自分じゃない。すべては陛下がおられたからだ。自分の力で来たわけじゃない。第一皇子にとって、第五皇子が弱かったことも、人と話せなかった事も、そのどれもが全く関係なかった。時間さえかければ、王陛下ならば、第五皇子をアヤノ皇子を、さすがわ世継ぎの君だ、と言わしめるだけの人物に育てる事ができたのだ。自分が育てられたように。
第一皇子は開け始めた空を見て、苦く哀しい気持ちになった。選ばれて嬉しかった。この議場では成果を出せて誇りと喜びを感じた。だと言うのに、この苦さは言いしれないものがあった。
ゆっくりと風を頬に受けながら外回廊を歩き出す。腰下の手摺の向こうに、朝の鳥のさえずりが聞こえ出す。木々の中にぽつりぽつりと散らばる離宮の屋根が見えはじめた。森の向こうに王都が見え。明るくなり始めた空の下、街が明るく白み始める。第一皇子は自分の守るべき街を見て、その向こうの自分に託されている大地を国を見て、大きく息を吸いこんだ。空の下、はるか向こうに海が見えた。こんな低い階層からは絶対に見ることの無い海が。見えたとしても小さな光としてしか見えない程とおくにあるはずの海が。まるで押し寄せる水の塊のように見える。人ではない。第一皇子は心に浮かび上がった言葉をぐっと飲み込み、足早に歩き出した。
下へと続く岩階段へ向かう。絶壁に掛かる5、6人が並んで降りれるくらいの広々とした階段を、美しい朝焼けも見ずに足元だけを見ながら駆け下りたのだった。時間が無い。各領地が人を出し、物資を出し、協力するのは、ほんの数週間にしか過ぎない。外敵に動きがなければ、全てが止まる。自分が領主であっても止めるだろう。中央が主張する、幻かもしれない敵の為に、無理な要望を聞くなぞもってのほかだ。自領をおろそかにするなど愚かな事だ。全ての動きが手中にあるうちに、全貌を明らかにしなければならない。
「幻での王城侵略」
本当にそれだけなら、ましな話だ。侵略の規模さえ不明な侵略なぞ、それこそ人智を超えている。第一皇子は、哀しみや恐れとは全く違った、ぐっと湧き上がってくる人間らしい、不遜な敵に対する不愉快な気分を蹴散らすように第一層まで駆け下りた。岩山の下部をくり貫いた広場は、実はそれぞれの執務室や管理の部屋へ繋がる回廊なのだが、そこを足早に歩き、自分の宮へ、回廊近くにある執務室へと入って行った。
さすがに追いついて来た近習たちが、第一皇子が執務室に入る直前間に合って、扉に飛びつくようにして開け放った。第一皇子はそのまま中に踏み込んで、思わず足を止めた。中央に執務用に何の変哲もない木製のテーブルを置いている。その上にはカンテラと言われるランプがぶら下がり、岩山の城の特徴でもある、片側のみの大きな壁一面のガラス窓からはほんのりと朝の光が差し込み始めていた。両側の書棚や窓よりに置かれたあまり座ることの無い執務机には乱雑に本や巻物が積まれ、その近くに困ったような顔の近侍が立ち尽くす。執務机の前に揃えられた、謁見と言うには簡素な、単なる打合せ用の向かい合わせに置かれたソファーに、片側にティソーサーを置く低い飾り棚があるのだが、その側に、小さな影が静かに腰掛けていた。ミラーナだった。
ミラー名は、第一皇子が扉の音も高く中に踏み込むと、はっと顔を上げた。ミラーナは目を大きく見開いたまま踏み込んできた第一皇子を見上げていた。朝の光が部屋に沁み込み明るくなり出した室内に、背の高いいつもの姿が踏み込んできた。はずだった。
なのに、ミラーナの目にはまったく知らない人間が入って来たような気がした。踏み込んできた瞬間、森の香と共に風が入って来たような気がした。そこに人がいると気づき、近侍が開け放った様子から、待っていた第一皇子だと慌てて顔を上げ、動きを止めた。白く輝く面に細く整った顔立ちの美しい知らない青年がそこにいた。その人物が戸惑ったような顔をして、ミラーナを見た瞬間、ミラーナは顔に血が上って行くのを感じた。胸の鼓動が上がり、わけもなく恥ずかしくなって視線を落としてうつむこうとしたとき、その人物が踏み出した。
「ミラーナ」
その声を聞き、ミラーナは驚いたように再び顔を上げた。すると、ついさっき、美しい人がいた場所に、いつもの武骨な不器用なのに優しい、労わるような目をした、自分の婚約者である第一皇子がいたのだった。ミラーナは戸惑って、そして、瞬間恐ろしくなった。顔が真っ赤になったのを第一皇子に見られていた、そう思うと逆にさっと血が下がる。
「こんな朝早くから起きていたのかい。それとも寝なかったのかな」
いつもの優しい声を聞く。なのに、ミラーナは青ざめたまま動けない。第一皇子はゆっくりと脅かさないように動き、ミラーナの側に、ソファーの前に来てしゃがみこむと、ミラーナの両手を自分の両手で包み込んだ。つめたい手に第一皇子が驚いた顔をして、さらに暖かくしようと力を入れたところで、ミラーナは振り払ってしまった。手が冷えたのが、知られたと言う恐怖で、先ほどの思いに気づかれたかもしれないと思ったところで、我慢できなかったのだ。
第一皇子は執務室のソファーに座って、気高く自分を見つめている小さな姿を見ていた。そして、その瞬間、愛しさと同時に後悔に飲まれた。「短い命」と言うサテンを言葉を思い出し、この小さな少女を途中で一人にしてしまうのかと思うと、いたたまれない気持ちになった。廊下近くで立ち止まったままミラーナを見る。いつもなら立ち上がって走り寄って来るはずのミラーナが、身じろぎ一つせず腰掛けている。背に朝日を受け、顔は暗くなっているが、第一皇子には彼女の顔が良く見えた。喜びにほころんだ瞬間、恐怖に顔を変える。震えるような唇を見て、慌てて近づいて宥めようとして手を取るが、ミラーナに振り払われてしまう。
近侍達は驚いたように二人の様子を見つめていた。いつもの穏やかなやりとりは無く、固く表情を変えた小さな少女が、まるで妙齢の女性であるかのような恥じらいと共に、固い視線で皇子を見つめていた。手を払われた皇子は驚いた顔になり、一瞬傷ついたような顔になったが、いつもの穏やかな微笑を口の端に浮かべ、
「ミラーナ。不安にさせてしまったね」
そう言って、しゃがんだまま、やはり少女の顔をのぞき込んだ。
ミラーナは皇子に下から覗きこまれて、その中に優しさを感じて、その直前に見た、本当に傷ついたと言う皇子の表情にも気が付いて、ぽろぽろと泣き出してしまう。
「申しわけありません。わたくし、殿下が心配でここでお待ちしていれば、必ず戻っていらっしゃるはずだと思って待たせていただいていたのです」
震える声で説明しながら首を左右に振っている。何かもっと違う事を言わなければと思っているようなのだが、出てくる言葉はまるで、先ほどの自分の言い訳する為の言葉ばかりで、
「お邪魔かもしれないと思っていたのですが、ここでは近侍達の執務の邪魔にもなりますし、夜中だと言うのにみな忙しいでしょうに、その邪魔をしてしまって…。申しわけありません」
と声がどんどんしぼんでいった。
第一皇子はミラーナをじっと見つめていた。とつとつとした声が消えうつむいたまま顔を上げない。こんなミラーナはこれまでには無かった。どんなときにも顔を上げ、胸を張って殿下を護るのですと言い続けていた元気な少女はそこにはいない。
第一皇子は、しゃがんだままそっと下がった。怖いのか、と思った。やはり、人ではない何かを感じて、このミラーナでさえ怖いのか。としんっとした心の底で表情を変えずに考えた。ミラーナが驚いたように目を見開いたのだが、第一皇子は微笑を浮かべ驚かさないようにそっと立ち上がった。
「怖い思いをさせてしまったね、でも、大丈夫、玉座の間は収まった。陛下が守ってくださるから、安心しなさい」
そう言って、いつもの優しい目で笑いかけるのだった。ミラーナはその顔を見上げたまま驚愕していた。ちょっとした隙だった。あの一瞬現れた何者かに見とれたせいで、驚いたせいで、大事な自分の第一皇子が離れてしまった。ミラーナは慌てて立ち上がった。第一皇子に踏み出して、両手を伸ばして上着を、いつものように両腕を掴もうとした。そして、唐突に議場での事を思い出した。光り輝く白い姿が、今のこの穏やかな自分の皇子に戻る姿を。自分は自分の皇子に見とれただけで何の問題もないはずだから、そう思って両手を伸ばして掴もうとした。第一皇子はほっとしたような顔をした。そしてミラーナの手を見て微笑もうとしたその瞬間、
「殿下、四将おそろいでお見えです。中へお通ししてもよろしいでしょうか」
回廊から踏み込んだ近習が、無粋に声を掛けたのだった。中にいた近侍は瞬間、扉口に立った近習に睨むような視線を向けた。それを受けて、一瞬戸惑った顔をしたのだが、第一皇子が、
「中に通せ。ミラーナ。長い夜だったけどもう大丈夫だ。部屋へ戻って少し休みなさい」
と言っていた。両手を差し伸べようとしていたミラーナは、廊下の外に立つ大人の男達の姿を見ると子供じみた姿だと思ったのか、両手を下げて広がるスカートの下に隠してしまった。そして、うつむきそうになる顔を上げながら、
「はい殿下」
と上品に答えた。その答え方があまりにも頼りなげだったせいか、第一皇子はミラーナに向かって屈むようにして小声で、
「私の部屋にいる怪我した客人のお世話を頼みます。怖かったら侍女に任せてね」
と言うと、見て分かるほどミラーナはほっとした顔をした。そして、むっとした顔をしつつも、第一皇子に信頼されていると感じ喜びに目を輝かせながら、
「わたくし、怪我人を怖がるほど子供ではありませんわ!」
と小声で言い返してから、にっこりほほ笑んで軽く腰をかがめる形の会釈をすると、背筋を伸ばして顎をあげ、つんとした姿でソファーから回廊へ向かった。入口近くで待つ将兵たちを見るとにこりと上品に微笑んで、
「朝早くから大儀です」
と声をかけた。小さな少女のこの高慢な姿に、しかしこれぞ皇子妃と思ったのか、将軍4人は丁寧に会釈を返し、頭を揺らすことなく静かに離れて行く少女の後姿を見送るのだった。




