河向こうへ護送する
しばらく立ち尽くしていたのだが、ランレルは目を覚まさない、と思ったのだろう。騎士はアヤノ皇子の刃物なぞ全く気に掛けていないかのように振り返り、のけぞるように距離を取ったアヤノ皇子を見下ろしながら踏み込んで、脇をすり抜け扉へ付いた。そして、その扉を開きながら、話し始めて、
「河向こうへ護送する。嫌ならその幻覚の力でとっとと逃げろ。東へ。または、南へ。王都へ戻ると言うなら、どんな事をしてもお前たちを打ち取ってくれる」
と最後の言葉は、扉を開ききったところで、こちらを振り向いての言葉だった。
白光の中にランレルはいた。あまりにまぶしくて両目をつぶっていると言うのに、瞼の奥まで光が刺さるような強さで、ランレルは右腕を上げて顔に擦り付けるのだが、腕も肩も光だし、顔を覆っているのか、光を浴びる為に顔を押し付けているのか分からなくなり、うめき声を上げた。しかし、上げたはずの声は、声自身も光となって顔の廻りに白光がさらに強い七色とも透明とも取れる光へ変わりだし、ランレルは思わず右手で目の上をわしづかみした。
光を押さえようとしたと言うより、どこかにしがみつきたくて掴んだ。そうすると光に顔も腕も手のひらも溶けだして、ランレルは自分が光の中へと消えていくのを感じた。自分であったはずの、海辺の記憶が、母親が浜の船の脇でたたずんで駆ける自分を見つめていた、あの穏やかで湧き上がるような喜びの記憶が、遠い望遠鏡の向こうの景色のように見えだして、足の先から自分が消えていくのを感じた。
頭の先からだったのかもしれないのだが、腕も腰も胸も髪も、人間とは何だったのか分からなくなり、最後に誰かの微笑みを見た気がしたのだが、そこで全てがぷつりと切れた。と思った瞬間、焼け付くような痛みを感じて悲鳴を上げた。腕の付け根の穴の開いた刃物で抉られた個所に指を突っ込まれて、ランレルは「またか!」と思った。思った瞬間、手術が終わっていないんだ、と考え始めて、何度これをやればいいのか、と考えたところで、ゆっくりと意識が自分に戻って来た。
不思議な事に、一番初めに足の先に指があるぞ、と感じた。それから、顔に乗っているような頬の肉を感じて、呼吸で上下する胸を感じ、そこでやっと顔に押し付けている腕の事を思い出した。光はいつのまにか淡い明るい物へと変わり、痛さに頭が押し流されそうな光の波はどこかへ消えて、茫漠たる流れる景色にとって代わっていた。
長い長い間、流れ続ける景色をランレルは見ていたのだと思う。始まりは、大勢の仲間が旅立って行くところだった。見送る己の心に耳を澄ませようとすると、心を感じるより早く、球状の半分に見える大地が光と緑と厚い水の色とに変わり続ける景色に変わった。それから、どのくらい時が流れただろうか。景色はいつの間にか、もっと身近な森になり山になり海に変わって、時には人の戦になって、風のように景色は変わり、草原から湿原に、砂漠になって、気が付くと、泉の脇に立ち尽くしていた。
小さな突き出た岩の上に立って、泉の底に眠る姿をじっと見つめていた。そこは森の中だった。太陽が頭上に上り、月が頭上をよぎり、木々の緑が吹き出し、赤くなった葉が落ちて、白い雪に変わったかと思えば、春の花々に囲まれて。それを何度も何度も過ごしながらも、じっと水底に眠る美しい姿を見続けていた。
ランレルが、「愛しい」と言う言葉に行きついた瞬間、何度も流れる季節の流れが止まり、止まったと気づいた時には、ランレルはしっかりと目を開けて、格子状の天上を見つめていた。目から涙があふれ出ていた。どこかのベットに横になり、天井を見ながら、顔の両側に伝う水をただ感じていた。「寂しい」と言うのだろうか。寂寞とした思いに、ランレルは胸をぐっと掴まれたように感じ、たまらなくなって腕を上げてぐっと胸元を掴んだ。
その時、
「目を覚ましたか!」
と言う喜びの声を聞いた。目を瞬くと上からのぞき込むギャベットがいた。ランレルは慌てて目元の涙をぬぐった。あれは自分の哀しみではない、と言う事だけが分かった。あんな哀しみを感じて生きていくなど自分はできない。そう思ったところで、幸せだ、とホッとした。
あまりに自分勝手な様な気もしたけれど、やさしい母の思い出がある。温かい子供の頃の記憶があって、すぐ近くには叔父さんが居て、店では面倒を見てくれる主のアルラーレ様がいて、こうやって気遣ってくれるギャベットさんがいる。そして、自分は、これから全ての出会いが始まる。そう思うと、湧き上がるような幸せを感じ、やっと、ついさっきまで、ハーレーン商会のロンラレソルの店にいたはずだ、と言う事を思い出した。
「えっと。すいません。また、気絶しました」
とつぶやいて、ランレルは身体を起こそうとした。と、片腕をついて背を上げようとしたのだが、ぐらっとして崩れてベットに顔を付けてしまう。ギャベットが真面目な顔で、
「2週間も眠っていたんだ。そう簡単には動けまい」
そう言いながら、ランレルの背に片腕を入れて引き上げると、枕を重ねてベットの背に凭れるように座らせてくれた。
「2週間も」
と驚くランレルに、ギャベットは破顔しながら、
「2週間でよかった。目を覚ませてよかった」
と言って満足そうにうなずいていたのだった。
2週間経っても目を覚まさなければ衰弱してそのままになるだろう、とサテンに言われていただけに、ギャベットの頬は削れてやつれていたのだが、目じりの皺にはホッとした色が浮かんでいた。しかし、分かっていないランレルは、ついさっき軽かった筈なのに、今は恐ろしく重く感じる腕を上げ、首の後ろをさすりながら、
「すいません、何度も何度も、倒れてしまって」
と照れたように謝った。
どこからか音が聞こえる。規則正しくパタンパタンとなり続ける音は、止まる様子は全く無い。耳を澄ませていると眠くなってしまうような籠った音だ。ランレルはゆっくりと目を開けた。どこだっけ、と思いながら目だけで部屋の中を見渡した。
板壁に木枠の窓で、ハーレーン商会のこじゃれた窓枠とはかけ離れた、大工仕事の窓だった。やすりが掛かり磨き上げられているが、海辺の町でも良く見た窓だ。ガラスはあるが、ガラスは気泡の多いすりガラスだ。壁に掛時計があったがゆっくりと振り子が動き、時が流れていると言うより、音が響いているだけのような気がしてくる。
どこだろう、とランレルは考えた。大通りを走る馬車の音も、人々の喧騒も聞こえてこない。なのに、外は明るく白いガラスの向こうからは、日差しが差し込んでいた。昼なのに静かだ。こんなの海辺の町でだってなかった、と思いながら、パタンパタンと言う音を聞き続ける。
ギャベットさんはどこだろう、と思ったところで、ここは二階なんだとランレルは気がついた。階下から人が上がる音がする。板がきしむような音と共に固いブーツの足音がして、ゆっくりと扉の向こうで音が止まる。そして、様子を伺うように、音がしないように扉が動き、ランレルが身構えると、扉がゆっくり開かれた。
「起きていたのか」
そこにいたのは、アヤだった。
これがアヤか、と思う程様変わりしたアヤだった。いつの間にか日に焼けていた。初めて会った日の危うさは影を潜め、しかし、陽気と言うよりも、目尻の皺が日に焼けて刻まれているせいか、笑っているように見えた。お蔭でランレルは慌てた。眠り過ぎだと笑われたような気になった、それでつい、
「すいません。眠ってしまっていて」
と言うと、
「怪我人は寝ているものだそうだ。気にする事は無い」
と言う平たい声が返って来た。やはりあのサテンに従っていたアヤだった。日に焼けて、目じりに皺があるように見えたのだが、切れ長な目は青みを帯びて見下ろしているだけで揺るぎない。立ち止まってこちらを見下ろしているだけだと言うのに、背筋が伸びて首がほとんど動かない。そのせいか、視線だけで見下ろす姿は、気品があって近寄りがたい。しかし。と思いながらも、ランレルは背にしたクッションの上で身をよじる。
この気品に満ちたアヤと言う青年は、木綿の生地に縫い目の見えるシャツを、襟を立てて着ていた。ズボンは厚手で、サスペンダーで吊っている。ブーツは太く飾り気は無い丈夫なだけが取りえなブーツだ。どう見ても、最後に見た商家の子息の服装ではなく、また、似通ったものでもなく、表情のあまり崩れない上品な立ち姿のせいでちぐはぐに見えるが、服装だけみればどう見ても農家のそれだった。
潜伏先か。とランレルは考えた。2週間のうちに逃げて、どこかに隠れたのだろう。ギャベットさんは下にいるのだろうか。忙しいのだろうか。この潜伏先を見つけたのはきっとギャベットさんだ、詳しい話を聞きたい、ここがどこか、警邏達はどうなったのか、教えてほしい、と思った。このアヤに聞いてもいいのだが、聞いてはいけないような気がする。と言うか、聞くには気後れする、と思う自分にたじろいだ。男爵が来て買い物をする時だって緊張はしても気後れなんかしないのに、なんでこの青年に気後れするのか。じっと見上げると、表情の無い切れ長な目で見降ろしている。バカにしているわけでもない、何かを考えているかどうかさえ分からない、そんな表情の無い目を見上げて、息を吸う。ボタン一つ自分で掛けれなかった男じゃないか! と自分で自分を叱咤する。すると、何を思ったのかアヤが踏み込んできた。ベットに一歩近寄って来て、ランレルは息を吸って、ベットに背を寄せて、逃げを打とうとする。しかし、どこへ? と、アヤはベット越しに手を伸ばして窓を開けた。
窓枠を上へ押し上げて、外を見せてくれたのだった。戸惑いが見えたのだろう、とやっと分かった。そして、アヤの視線で外を見る。ランレルは目を見張る。水があった。水車があった。パタンパタンと響いていたのは水車の音だと、そこで分かった。藁の香りが風で流れて、顔を上げると一面の田んぼだ。この建物はたぶん小屋で、小屋の下に川だ、と分かった。すぐそこの水車の管理用の小屋で、水車が田んぼに水を流して、青空の下、山沿いに蛇行して広がる田んぼは、半分刈り取られていて雲を水辺に映していた。
「ここは」
と言う問いにもならない一言に、
「バクセルフ領、ペルシール山岳地帯へ入る手前の領地だ」
と言うアヤノ皇子の声が返った。
潜伏先と言うには、危険な場所に近すぎるように思う。見渡す限りのどかな田園風景なのに、この向こうには竜神信仰の信者がいる。と、思ったところでランレルはベットからずり下りた。アヤノ皇子が手を差し出し、崩れそうになるランレルを支える。ランレルは、その支えにすがりながらも窓枠ににじり寄り、木枠を掴むと体を乗り出すように外を見た。
山沿いに川が見えた。水車の向こうの川辺では洗濯をする農婦の姿が見え、小川に張り出した板にしゃがんで楽しそうにおしゃべりをしている。その向こうに小道があって、川岸の雑草の向こうには平屋の板屋根に石を置いた家がぽつぽつと見えて、視線を田んぼに向けると、とびとびに見える小屋や畦道が見えるばかりで、随分遠くに、ちょうど昼の休憩時なのか人々が田んぼから上がって土手に座っているのが見えた。
「信者はどこです。竜神信仰の侵略してきた信者は」
と言うランレルの喉が渇いてかすれた声に、アヤノ皇子はあまり感情のこもらない声で、
「いない」
「でも、河向うは信者の立てた家や仮小屋で、普通の生活ができないほどだって言われていて。ここはその河の向こう側じゃないですか。あの山が、すぐそこにあるなら、河を渡った向こうのはずだ!」
とランレルが手を伸ばすようにして指し示すと、ちょうど田んぼの脇に、河に繋がる細い水流が見える。放牧している水牛が見え、丈の高い水草の向こうには農家があって、農家の上には、鬱蒼とした緑が見えて、その緑は、聳えるような山々に繋がっていた。
「山岳の民は幻視の民。いかようにも見せる事ができよう」
アヤノ皇子の声は憤ってもいないし、訝しがってもいない。警邏に踏み込まれて、信者として捕縛されそうになったと言うのに覚めた声で、
「山から王都まで徒歩で20日。馬車で10日」
そう言っただけだった。その後、
「トチ医師を呼んで参る」
と言って窓辺から離れた。
ランレルはぼんやりと日数を数えた。ペルシール地方の山の麓から、王都まで歩いて20日、馬車なら10日。ほとんどが治らない患者ばかり見ていたトチ医師は、昨日の、ではなくて、ランレル達がロンラレソルの町に入る前日まで患者を見ていて、その翌日、ペルシール地方の山の麓から、たった一日で、王都から1日足らずの距離のロンラレソルの町に戻って来た事になる。
「ありえない」
そうつぶやいた。ちょうどアヤノ皇子が、扉を開けて廊下に出ようとしていたところだった。
「一日で、ロンラルソルの街へ出れる山なんかない。ありえない」
アヤノ皇子は聞きながら、背を向けたまま出て行った。ランレルはその背を見ながら考えた。あのサテンならできるだろう、と。あのサテンが、山からトチ医師を連れて時を止めて戻れば、一日で戻れるだろう。そう思いながらも、サテンでなくても同じような力があれば、きっと誰でもできるだろう。そう考えた。
ランレルはベットを出た。ベットから足を降ろすと思ったよりも腹筋に力が要った。手をベットにつきながら床に足をつけると、ゆっくりと膝に力を入れる。不思議な事に力が入らなくて、ふらっとしたが痛みは無かった。今更のように首を傾げて自分の肩と腕を見る。白い布がまかれているが、あの意識が消える前に見た赤い染みは全くなかった。もちろん、2週間もあったのだから変えてくれたのだろう。
ランレルはベットに腰掛けるように向きを変え、身体を支えて指を白い布の上に当てた。布の感じがさらさらする。痛みは無い。そっと力を入れて押してみる、が痛みはない。さらにぐっと押してみる。が、全く痛みは無かった。
「塞がっている」
力の無い声がして顔を上げてみると、戸口にトチ医師が立っていた。
と言っても、あの緑色の医師の上着は脱いで、襟のあるシャツに生成りのパンツと言うどこにでも良そうな都会の青年の格好だった。さっき見たアヤノ皇子の印象が大きかったせいか、この普通の都会の格好、と言うのが逆に奇妙に見えた。トチ医師はつかつかと近寄って来ると、ベットに半分腰を置いた格好のランレルの前で止まって、ランレルの腕を掴むと上げたり下げたりし始めた。
「痛みは?」
「無いです」
「指さきは? 握って。開いて。肘を曲げてみて」
言われたとおりに動かす。それをトチ医師は見る。そして、むっつりとした顔のまま、肩の布に手を伸ばした。
「もともと要らなかったのですがね」
そう言いながら、ランレルの布を手早く外す。肩から脇の下へ抜いて、腕の下を何度も通しながら布を巻きとって気が付くと、ぱらりと外れた。
トチ医師は苦々しいような音を出した。喉から響くような声だったのだが、それだけだった。ただ、何も言わずにシャツの袖にランレルの腕を通し始めた。そこで、ランレルは自分の肩を見た。色白の、最近は店からほとんど出ない上、上着を脱ぐことも無いせいか、真っ白になってしまった自分の鎖骨を見つめた。何もない。慌てて視線を肩から腕を向けて肘の辺りを見ながら、腕をよじるようにひっくり返す。そこにも無い。
綺麗に切り開かれていた、ナイフを刺されて引っ張り上げられた傷口は、無くなっていて、切った跡さえ残っていない。
「2週間も寝ていたから」
と言うランレルのつぶやきに、
「そんな事あるか」
と言うトチ医師の吐き捨てるような声が重なり、顔を上げると、目の力が消えどこか彷徨うような視線になったトチ医師の目を見た。トチ医師はランレルの視線を受け止め、疲れた声で、
「これも幻影だったのかもしれんな」
とつぶやいたのだった。
ランレルはゆっくりとベットから離れると、膝に力を入れて立ち上がる。さっきはふらついていたと言うのに、ゆっくりと立ち上がると足の裏は床につき、踏み出すと思ったよりもスムーズに踏み出せる。床は乾いていてひんやりと冷たい。
「熱は無い。怪我も無い。体力もすぐに戻ると言う話だ」
トチ医師は、そう言った後、
「少しは竜の影響を受けると言う話だったが、そんなものは医師に過ぎない私には分からん。自分で尋ねなさい」
と言って、突き放すように言い切った割には、ゆっくりと立って歩こうとしているランレルに手を差し伸べて、転ばないように肘を掴む。
「まずは、上着着て靴を履きなさい」
そう言って、ベットに座らせると、入口近くの棚に載せてあった籠を持って来る。中には、さっきアヤノ皇子が着ていたのと似たような荒い生地のシャツにだぼっとしたズボンとサスペンダーが入っていた。それから、ベットの下から革の厚みがある太くしっかりした作りのブーツを引き出した。ランレルが着終わり、靴を履き終わると、それを待って、ゆっくりと立ちあがったランレルと一緒に、戸口に向かって歩き始めたのだった。




