ハーレーン商会 玄関口
ランレルは、満足そうに壁の鏡を見ている客人を、ため息交じりに見て、せっつくように声を掛け部屋を出る。中庭の回廊を通って、八角形の部屋へと戻った。
扉を開けて、ランレルが通常は展示部屋と呼ばれている八角形の部屋へ入ると、アルラーレが、伯父上と呼んでいる人間と何かを話し合っていた。ランレルが扉を大きく開き、後から来たアヤを通すと、サテンがほぉっと言うような顔をした。
アヤは上等な商家の家人が着る服を着ていた。来た時に着ていた生地ばかりが立派な、貴族的だが階級が読めない服から、見慣れた、しかし豪商の一家にしか見えない、生地と言い織り柄と言い刺繍と言いデザインと言い、素晴しい服に着替えていた。
腰下まで来る上着。革とラメと宝石で彩られた腰ベルト、足には測って仕立てていないので少しゆるみがあるが細い足を美しく見せるパンツに、歩きやすい縁飾りがあるブーツ、と言った装いだった。アヤノ皇子はサテンの前で、袖の縁を引っ張って、また、襟を整えるように指を添えると、サテンを見て優雅に腕を振って挨拶をして見せた。
「仰せに従い、着替えて参りました陛下」
ランレルは顔をしかめた。また、「陛下」だ。ただでさえ浮世離れした雰囲気だと言うのに、所かまわず「陛下」と言うからさらに怪しくなってくる。せっかく、普通の豪商に見える衣装を着たと言うのに、台無しだ。と思っていると、アルラーレも苦々しい顔をしていた。顔をしていただけではなく、サテンに向かって、
「何とかならないんですか、これは」
と言った。しかし、サテンは、首を左右に振って、
「その内収まる」
と言って気にも止めない。ランレルは、ニコニコと笑い満足そうに服を見せびらかしている青年を見て、「収まるのか? 本当に?」と疑いたっぷりに首を傾げた。もちろん、密かにだったのだが、アルラーレが気づいたようだ。しかし、ランレルは気にしなかった。どう見ても、アルラーレも同じように思っているようだったから。
それから部屋にサンドイッチが一人分だけ用意され、アヤと呼ばれる青年は、勧められるままに腰掛けて、大人しく上品に一口づつ食べ始めた。サテンはすでに食べたのだろうか。何も食べずにソファーに座ってじっと見ていた。考え込んでいるようだった。
アヤ、と呼ばれる青年が食べ終わると、サテンは腰を上げた。アルラーレが同じように立ち上がり、サテンへ、
「それで、どこへ行かれるのです?」
と聞くと、サテンは考えながら、
「そうさな。プッシュナートにでも参るか」
と答えた。するとアルラーレが苦い顔をして、
「そんな魚と岩しかないようなところに行ってどうするんです」
「竜の住む地方だそうだ」
とサテンがからかうように言うと、アルラーレが口の端にぐっと力を入れて何かをこらえた。イラッとしたのを抑えたのだ、とランレルは見て取る。と、アルラーレは、
「行く場所がないのでしたら、東部にでもお行き下さい。大陸の東部です。ハーレーン商会の者に連絡をしますから、そちらでゆっくりなさると良い」
「竜王と言い続ける者がいる」
「いいんですよ。大陸東部で聞いたって、冗談としか思いません。ワイルラー王国の代表的な竜のデザインは、タペストリーや小物に飾りで入れると縁起がいいと言って良い値で売れますが、信じる者などいませんよ。その上、あそこは商都です。王より商人の方が偉いんですから。王が何人いたって、びくともしません」
そう言ったかと思うと、いつの間にかアルラーレの横に来ていたグーンが小さな美しい貝の盆を手に立っていて、その差し出す盆の上に畳んだ布があったのだが、グーンが優雅に指先でそっと開いた。布の中、盆の上にはメダルがあった。
鈍く光るメダルは、2センチほどの楕円で2ミリほどの厚みに複雑な柄が彫り込まれている。表には竜と蔦と3つの八角形の柄があって、意匠は複雑で美しく、鎖が付いていて、アクセサリーの様にも見える。アルラーレは、グーンの盆からメダルを手に取ると、
「持って行ってください。ハーレーン商会の関係者の印ですから」
と言って手渡した。サテンは軽く手の中で転がすように持っていたのだが、サテンと共に慌てて立ち上がっていたアヤノ皇子に、軽く手を差し伸べて、
「首に下げておくとよい」
と差し出した。アヤノ皇子はおごそかに会釈をしてから近寄って、ゆっくりと両手を差し伸べ、そっと触れるような形で大切にメダルを手に乗せると、
「生涯肌身離さず守ります」
と言って静かに指を織り込んだ。
真剣なまなざしに、ランレルは自分の首にぶら下がった鎖の先のメダルを服の上から軽く弾いた。同じものがそこにある。確かに、自分にとっては誇りで大切なもので、生涯大切にしたいと思って受け取ったのだが、この青年が受け取る気持ちは絶対違う、と確信していた。もしも、この青年が皇帝と言って慕っている男が、石ころを渡したら、きっと同じように恭しく受け取って後生大事に持ち続ける事だろう。と思うと、なんだかため息が出た。
「もう一つ。伯父上もお持ちください」
とアルラーレが、もう一つを盆から取って差し出すと、サテンは軽く指で挟んで、上へ投げてから、片手でメダルを掴みとる。そして、さらりと鎖を首にかけた。
「我に鎖をかけるとは」
と言う声には笑いが混じっていた。滑稽だ、と言う雰囲気だった。どうも気に入らないらしいのだが、アルラーレは、サテンが襟の中にメダルを落とすとホッとしたような顔をした。
「ハーレーン商会の伯父上です。どこででも便宜を図りますから、必ずご使用ください」
と言い含めるように言うと、サテンは片眉をちょっと上げただけで何も返事を返さなかった。
アルラーレの脇でグーンが盆の上に乗せていた布を戻しながら、静かにうなずいていた。ランレルはふと首を傾げた。ハーレーン商会の伯父上、と言うのは少し奇妙な言い方のような気がした。
それからバタバタと貸馬車を頼みに人を出し、裏の屋敷の玄関口から出立する事になった。彼らは着替えに立ち寄っただけだったらしい。それとも、軽食を食べに寄ったのだろうか? とランレルは思った。まさか、顔を見に寄ったのではないだろう、と思いながら、あまりの長な無沙汰に、本当に顔を見る為だけによったのかもしれない、とも考えた。そして、それにしては、短すぎる滞在だ、とも感じていた。
八角形の部屋を出て回廊を抜ける。まっすぐ行くと居住区の建物に入り、そのまま、裏通りに面した玄関ホールへ出る。その玄関ホールは、天井から小さな木製のシャンデリアが下がり、玄関扉の上にはステンドグラスの明り取りがあって、古めかしい匂いがする。
今は外が暗いおかげで、壁に取り付けたランプがほのかにホールを照らしている。客人である伯父上は、その玄関ホールに踏み込んだ時に、懐かしそうに周囲を見回していた。そんな客人を見ながら、アルラーレが、
「まずは南の港にお行き下さい。今年の東部行の船はまだ出航していませんから、間に合うでしょう」
と言うと、軽く頷き、
「手間をかける」
と答えた。それを受けて、アルラーレが、
「中央内陸の乱戦は小康状態のようです。3家の内、2家が婚姻で手を結んだとかで、18国の乱立が、まとまる事になるかもしれません。お蔭で発注があり、荷を港でいくつか降ろす事になっています」
と言うと、サテンは、「ほぉ」とだけ答えた。どんな意味の「ほぉ」だろう、とランレルが思っていると、アルラーレは分かるらしく、苦笑いして、
「ええ。まあ、ここ3年の小康状態ですし、いつ壊れても不思議はないものですが。あそこが収まれば内陸の道が生まれ、ハーレーン商会としてはありがたいばかりです。まあ、あと何年待てばよい事か。さらに100年、でしょうかね」
とため息をつく。サテンは柔らかい声で、
「永遠に続く人間の乱世と言うのは見たことが無い。いつかは収まるだろう」
と言うと、アルラーレは、
「気長に待ちますよ」
と言って肩をすくめた。
ランレルは、大陸の地図を思い浮かべて、東部の商都、中央大陸の戦乱の地、西の古都と呼ばれる我らの地、と考えながら、どこに店舗があって、今度の船はどこに立ち寄るのだろう、と思いながら聞いていた。いつかは、自分も船に乗って買い出しに行きたい。と思っていた。商品を見る目を養って、主の絶大なる信頼を得て、海をまたぐ商人になりたい。そう思って海辺の町から内陸の王都に来たのだから。と、そう考えている内に、玄関の外に水をはじく音が聞こえ出す。
がしゃがしゃと馬の金具の音も聞こえ出して、雨水を口ではじいているのか馬のぶるぶるっとした嘶きも聞こえる。ランレルは慌てて扉に近づき、覗き窓から外を見た。黒い箱馬車が今まさに止まろうとしていた。夕方に王都を出発するのだから、断られても不思議はない、と思っていたのだが、どうやら無事に借りられたらしい。ランレルはホッとして、扉の上下の閂を抜き、内へ扉を引き入れて、大きく開ける。
すると、箱馬車からマントを身体に巻き付けて、帽子を深くかぶった男が二人飛び出してきた。はっとして、ランレルは肩で扉を押して閉める。しかし、一泊遅かった。男達は飛び降りた勢いのまま、体当たりして扉を開き飛び込んで来る。抜き身の剣を手に、なぜか目の白い部分だけがはっきり見えて、ぎょろっと中を見回しているのが見えた。ランレルは舌打ちした。油断した。強盗だ。扉をあきらめ振り返ると主の、アルラーレの前へと飛び出してナイフを構える。主を守る。
すると、同じようにじっと話を聞いていたアヤノ皇子がサテンの前に飛び出して、両手を広げて止まれと言うように立ちはだかる。ランレルはポケットから手紙を開封する為の小さなナイフを引っ張り出していた。それを構えてアルラーレの前で身構えていたのだが、無防備に男達の前で両手を広げる青年を見てギョッとした。
ギョッとしたと同時に、男達が、アルラーレではなくサテン達へ向かったと気がついく。無防備な青年に、嫌な笑いを見せて初めの男が踏み込のが見えた。ランレルは、滑り込むように、男の前に飛び出して、ナイフを、笑えそうな程小さなナイフを、素手よりましだ、と言うように突き出した。
男は剣をそのまままっすぐ突き差してきた。自分に対してなんのためらいもない、と感じた。ナイフで剣先を払えるか、と言う疑問は、腕に刃が辺りかっと熱いものが腕から首筋に上がって行った瞬間に、ばかな問いだと気が付いた。無理に決まっている。と、その時、
「アルラーレ。世話になったな」
と言う声を、ランレルは聞いた。穏やかな声だった。ランレルは、熱を持って首にまで上がった傷を、熱い、とだけ思ったまま、刃が翻って襲って来るのを風で感じて腕を上げた。剣の刃を腕で払おうとして、腕が落ちると言う発想に歯を食いしばった。と、その時、
「これは癒してから戻そう」
と言う声がして、アルラーレの、
「必ず再びお戻りを。伯父上」
と言う声を聞いた。ほんの瞬きする間だったと思う。そして、箱馬車から飛び出した男の一人の、後から出て来た方だったと思う。
「なぜ切った!」
と言う焦りの声と、
「旦那。剣で襲って来やがったんでさ」
と言う答えに、罵り声が返り、ランレルは剣とはこのペーパーナイフの事だろうかと考えた。全ての動きがとてもゆっくりになったように見えた。男の一人が、「第五皇子に当たったらなんとする!」と怒鳴っていたのだが、怒鳴ったところで、音がぷつりと止んだ。音が聞こえなくなった。腕から首に上がった傷は、結構深くて、または、当たり所が悪かったらしくて、血が噴き出していた。
熱い。とだけ感じていた。痛さは無かった。手にしたナイフは不思議な事に、王都の叔父に貰ったのだが、もらった時と全く同じく、綺麗に赤銅色色に輝いていた。血は手首のとこまで滴っていたが、ナイフには届いていない。
「良かった。握りに飾り糸があるから、血が付いたら大変だ」
と言う随分、冷静な事を考えていた。
しかし、血が出て行くのは止められず、身体の動きが弱って行った。そこに、
「アヤ。腕で支えろ。出るぞ」
「はっ。陛下」
と言う、いつものコメディような二人のやりとりを聞く。落ち着いているが絶対的な声に、真剣な答えは、コメディのようには聞こえない、と思いながら、ぐっと腕を持ちあげられたのが分かった。見ると、ランレルの傷のついていない方の腕をぐっと持ち上げるアヤノがいた。その向こうに、歩き出したサテンがいる。
そのアヤノとサテンの間では、こちらを振り返って激高している男の顔があった。唾が飛んで宙にある。落ちてこない。ランレルを襲った剣は、今、ランレルのちょうど右上から頬に当たろうとしていた。風を感じて、今、まさに頬から胸に切り落とされると思っていたのだが、腕を上げて止めようとして、無理だと思っていたのに、剣はそこで止まっているし、剣を両手で握って振り下ろしている目を血走らせて口の端を舐めて興奮している男の顔が、すぐそこにあって固まっていた。
「参るぞ」
と言うサテンの声に、アヤノが深い会釈で答えて、ランレルの傷を見ると、
「痛いのか?」
と聞いて来た。
ランレルは、そこで初めて、痛みが無い、と言う事に気が付いた。支えられているのだが、痛みがないなら平気かもしれない、とそっと姿勢を正してみる。正しくは、宙で止まった剣を避ける為に半歩下がってみただけなのだが。と、足元がふらついた。
「具合が良くなっているわけではない」
と言うサテンの声を聞くと、ちょうど開けっ放しになっていた玄関に立って、こちらを振り向いていた。慌てた様子も、戸惑った様子も全くない。ああ、この人間がやったのか、とランレルは唐突に気が付いた。
全ての動きが止まっている。三人を除いて。アルラーレも、そして、見送りに付き添っていたグーンも。奥の店へ続く扉の近くで控えていて、この襲撃に恐怖して扉に背を張り付かせて顔をゆがませている家の者も、全ての動きが止まっている。これをやっているのが、この男なのか、と気が付いた。
「歩けるか?」
と聞いて来たのはアヤノだった。この青年にとっては何の問題もない事らしい。不思議でも無ければ、奇妙でもない。「竜王陛下」と言うこの青年の声が聞こえた気がした。狂気に満ちた目で、頬を蒸気させて語る話は、今、ここに来て、恐ろしく現実的な話になった。
しかし、サテンもアヤノも、ランレルの驚きが収まるのを待つつもりは無いようだった。歩けるかと聞きながらも、歩いて当然と言う様子で、アヤノは腕を引っ張り歩き始めた。見た目はぎょっとする程重症なのだが、噴き出ていた血は盛り上がったまま止まっている。気味の悪い止まりかただ、と思いながらも、ナイフをそっとポケットの中の鞘を出し、丁寧にしまうとポケットへ入れなおす。
引っ張られるように歩きながら、盛り上がった血をつついてみた。固い石のようだった。腕を触ると柔らかい。しかし、なぜか血は固い。この違いは何だだろう? と思っている間に玄関に来て、外へ出た。
外を見て、ぎょっとして立ち止まる。屋敷の裏玄関は馬車一台が通れるほどの狭い通りだった。正面には隣の建物の石壁が見える。同じように街中の5階まである建物で、2階辺りからアーチ形の窓がある。裏口に面しているせいか開いて入るところを見たことは無いのだが、時折ランプがともっている。通りは大通りから内に入っているせいで、人気が無く、通り抜けには不便な場所のせいか、人通りもない。
先ほどから、そこには雨が降っていた。篠突く雨だった。先ほど止まっていた馬車が、フードをかぶった御者が身をかがめて今まさに馬を出そうと手綱を上げて固まっていた。馬にフードに音を立てて当たっていた雨が、今は動きを止めている。雨が、まるでビーズを宙に投げて散らかした状態で、そのまま止まってしまっていた。辺り一面、空中はビーズの海だ。
「これだから、雨の日は」
と言う、うんざりしたようなサテンの声を聞いた。サテンは玄関から出て、石段を下りながら、雨粒を飛ばすように外していく。通った場所だけ人の形の空間ができて行く。アヤノがランレルを連れて後を追う。サテンは馬車まで来ると、
「ハーレーン商会の懇意にしている、もっとも近い、王都の外の治療所はどこだ?」
と聞いた。
ランレルは、サテンを見ていた。治療所と聞いて、なぜ? と思った。目の前の二人は怪我がない。自分の怪我には痛みもない。と、サテンは何を思ったのか、
「そのままでは、怪我は治らん。生涯このまま時を止めておくわけにもいかぬ」
と言ったかと思うと、
「治療所だ。場所はどこだ」
と再び聞いた。
「あ。ロンラレソルに行けば」
とサテンの言葉ではなく、目に気おされて声を絞った。とっさに治療所は思いつかなかった。懇意にしていると言うよりも、ハーレーン商会の支店がある街しか分からない。しかし、そこに行けば医師につなぎをつけてくれる。立ち寄る者がけがをしていたら人を呼ぶ。それができない店舗は無い。
「ロンラレソルか南だな」
とサテンは言うと、馬車を見て、近寄ると手早く馬を馬車から外し始めた。
「アヤ。馬に乗れるか」
と聞くと、途中で、
「いや。いい。竜に馬は必要ない。乗れずとも好い」
と言いなおした。
ランレルの横で震えだしたアヤノに、サテンが言った。敬愛する主にできない、と言わなければならない、と思った途端にがたがた震えだしたようだった。そして、サテンがさて、と言うように1頭の馬を見たところで、ランレルがおずおずっと、
「おれ、乗れます。山の入り江の漁師町だったから、移動で乗ってて」
と言うと、サテンは振り返りもせず、もう1頭も馬車から外した。
この3人なら、それほど重くなさそうだから乗れないこともないだろう、とランレルは考えた。自分も重くないが、この青年もひょろひょろしている。でも、2頭いれば、3人で1頭に乗るより、負荷が少なく長く早く走れる。それで、サテンは、もう一人乗れるならと、馬を放したようだったのだが、ランレルは、自分を支える腕をぐっと握っられたのが分かった。ちらりと見ると、悔しそうに口の端を食いしばっていた。しかし、何も言わずに、サテンが作業をしているところを眺めている。ランレルを支えると言う使命を、絶対の命令として果たしているようだった。
サテンは馬車の竿を外すと、馬が片足を上げて駆けだそうとしていた形のまま固まっていたのだが、その首を軽く撫でた。その途端、馬の嘶きが戻って、辺りに音が鳴り響いた。しんっと耳に痛いほど静まり返ったいた場所で、馬の声に石畳を叩く蹄の音が戻る。奇妙だがほっとした瞬間だった。
それから、サテンは、ランレルを馬へ投げるように乗せると、その後ろに、同じようにアヤを乗せた。そして、もう1頭の馬に駆るくまたがると普通の通りを行くように、粒の中を駆けだした。ランレルは、まるで雨粒のトンネルをくぐるように追いかけながら、王都を後にしたのだった。
ハーレーン商会の裏では、玄関には血みどろの跡があった。外では馬が外され、柄と馬車の箱と、御者席が残り、一瞬にして馬が消え驚愕している御者がいた。襲ってきた男達は、目の前で瞬時に3人が消えると、驚愕するよりも早く、屋敷の玄関から飛び出して行った。そして、いまだにぐずぐずしている動かない御者の男を見ると、
「降りて走れ!」
と一人が怒鳴って、そのまま、雨の中に消えて行った。
「どこかで付けられたのでしょうか」
玄関に流れる血を見て、苦い声でグーンが言った。アルラーレは、
「目立つ方だ、ちょっと探せばすぐに分かる」
「よく、いまだに王都にいると思いましたね。あの方なら、どこに居てもおかしくない」
「昨夜の雷鳴は、王宮と王都に落ちたと言う噂だからな。それを聞いて考えた者がいたんだろう」
と言った。
そして、やはりグーンと同じようい睨むように床に落ちた血を睨み、
「約束は必ず果たしてくださる方だ」
と言ってから、
「まずは、ランレルの保護者に話さなければならんな」
と言って、深いため息をついた。
ランレルを息子として大事にしている、ランレルの叔父はアルラーレの幼少のころからの幼馴染でもあった。幼馴染は、豪傑な鍛冶屋のおやじでもあり、身内を無くすことを極度に恐れる友人でもあった。随分前に妻子を無くしてから、それがひどくなっていた。
「さて。何と言えばいいか」
と言いながら、アルラーレはさらに深いため息をついたのだった。
水玉が宙に浮く世界を、ランレルはぼうっとしながら見ていた。王都は静かで、時折見える馬車は絵画の中のように馬が片足を上げたまま止まっていたり、跳ねた水を避けるように傘を傾けながらドレスの裾を抑える買い物帰りの女がいたり、裏階段から両足で飛び降りて両手を振り上げて、今まさに水たまりに着地しようとしている子供が、宙で笑顔のまま止まっていたりと、不思議な世界になっていた。
不思議と言えば、腕から首に上がった切り傷は深いはずだがピンクの肉が見えていると言うのに痛みがない。深すぎる傷は血もでず、痛みも分からなくなると聞いた事があるが、血は噴き出たところで固まっているし、切られて瞬間の痛みもあった。しかし、こうやって前のめりになり、後ろに青年を乗せて馬を駆っている今は、全く痛みが消えていた。
たまに額に当たる雨粒が、頬に当たって弾けて水になって落ちて行くのだが、落ちて顎から離れると、離れた途端に制止する。見送ると宙にあるままで、ちらりと後ろを見ると、後ろにまたがるアヤと呼ばれる青年も気になるのか、宙に止まる滴に手を伸ばし、手のひらにぴちゃと当たったのを見て、そこで弾けた小さな滴が再び止まるのを、目で追っていた。
石畳は光り、水たまりは氷の様になっているらしく、馬は水たまりの上で蹄を滑らせるのだが、滑りそうになったところで、ばしゃっと水の中に落ちる。水が本当に固まっているわけではなさそうだ。
「門を出るぞ」
前を行く、アルラーレの伯父が短く言うと、
「はい、陛下!」
と後ろに座っているだけの青年が勢いよく答えた。ランレルの代わりに。




