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龍の生まれる国  作者: るるる
第二部 平原の龍
112/128

街道

門は、今まさに、引き上げてあった外門の柵が滑車で降ろされようとしていた。門脇の塔には大きな舵輪があって、そこに3人の兵が取りつき、乗っている者、押している者、降りる柵を見上げながら腕を振っている者と、怒鳴りあいながら回しているのが見える。と、言っても動きもなく、静かな物のだ、止まっている。脇のくぐり戸を、検番兵に割符を見せて通っている商人もいれば、その後ろで、市民票を首の紐を引っ張って取りだそうとしている者もいる。王都から出る反対側のくぐり戸の人々は、両手や片手を上げて大声で何かを言っているように見えるのだが、柵を置かれて通れないようにふさがれている。兵士が棒で押し返し厳しい声を上げている。ように見える。


サテンが顔にぶつかる滴をフードの庇ではじきながら、広くトンネルのような門を、下りかけの柵を頭上に見ながら駆け抜ける。その後ろをランレルがアヤノを後ろに乗せながら追いかける。先がとがった策は、先に鉦が打ち付けあるせいか、暗がりに壁のランプに当たって鈍く光る。ちらりと見上げて駆け抜けると、

「閉門に間に合って良かった」

と誰に言うともなく言った。するとサテンが、腕を先に延ばして見せる。


王都の門の向こうに、平原が見えた。その手前に並木があり、並木が平原の真ん中を貫くように続いている。その並木の下には、雨をよけ肩を寄せ合う人々の姿があった。汚れたフードや泥だらけのブーツには、長い旅をしてきた様子がうかがわれる。

「閉門は唐突だった」

とサテンが言うと、彼らの顔には苦々しく、門を睨む顔が見えた。顔にかかる濡れそぼった髪を片手で跳ね上げて、中には踵を返して戻ろうとしている者もいた。この平原の先に、小さな町があるが、そこまで再び戻らなければならない。そのいらだちと、疲れに片方の肩を落とし、足が痛むのか足を引きずるように動いたのだろう、足元にブーツで削った筋が付く。


水たまりと泥と並木と、草原の冷たい風が吹く、暗い雨雲の落ちた外門前で、人々は立ち尽くしていた。

「身元のはっきりしていない者は通れぬようにしているようだ」

とサテンは言って、門を抜け、茫然とした顔の、動かぬ人々の前を悠然と駆け抜けて行く。ランレルは、振り向きながら彼らを見る。悔しそうな顔の先には街門があって、その街門では、数人が足踏みするように続いている。寒いのかもしれない、とランレルは思った。今は、寒さも、痛さも、つめたさも、何も感じなくなっているが、この音のない世界にいる人々は、ひょっとして、つめたい雨に濡れているのかもしれない、と思った。

「なぜ」

とランレルが無意識につぶやくと、アルラーレの伯父は初めに見た時よりも饒舌だった。つぶやくランレルに、背を向け馬を駆っていたと言うのに答えてくれた。そのくらい、ここは音もなく、人の気配もなく、寂しい空間だった、ともいえるのだが。

「バイローンの仲間を探しているのだろう」

と言った後、

「偽バイローンか」

と言いなおした。


ランレルは、じっと前を行く背の高い黒い衣装の男の背を見た。考え込むような、迷っているような気配を感じる。

「偽バイローンとは、誰ですか?」

とランレルが聞くと、すぐ後ろから、

「竜王に刃向かう愚かな者よ」

と簡潔できっぱりした声が聞こえた。首を回してみると、しっかりとランレルの腰を掴み、戸惑いなく馬にまたがりながら、アヤと言われた青年が、苦々しい顔をしてこちらを睨みつけている。

 ランレルはサテンに嫌がらせをする詐欺師を想像し、それから、

「あなたへの敵対する者は、王都を上げて探されるのですか」

と聞いた。冗談を言ったつもりだった。そして、目の前を掛ける背の高い男も、同じように、おかしな冗談を聞いたと言うような声で笑った。しかし、後ろの生真面目な青年は、

「当然だ」

と厳しい声で断言していた。なぜか、ランレルはばかばかしい気分になった。後ろの青年が本当の事を言っているようには聞こえなかった。それで、

「兵に閉門を命令できるのは誰なんですか」

と聞くと、サテンが笑いを止めて、

「王であろう」

と答えた。後ろの気配がうなずくのが分かった。それで、ランレルはさらに、

「偽バイローンは、王に追われるほどの何をしたのでしょう」

と聞くと、

「王国の乗っ取りだ」

と言い、ランレルが口を閉ざすと、

「いいや。軍の乗っ取りだったかな」

と言いなおした。

ランレルは、そこで初めて、

「いったい、あなたは何者です?」

と目の前を駆ける男に聞いた。背の高い男は、いつの間にか、馬の歩みを緩めていた。背後の街門は小さくなり、並木の向こうには遠くなって低く見える外壁のみ。その向こうに夜空を背景に黒々とした煉瓦や石の建物が見え、建物の向こうには岩山が見えた。きらきらと光がともり、岩山の中に作られたと言う、絢爛豪華な王宮の一部が遠めに見えた。


横にランレルが並ぶと、馬上のランレルに手を伸ばして顎を上げさせる。傷口を見ているようだ。指を血に触れ、眉間にしわを寄せると、

「すぐに失血で失神するか」

と診断を下しているようだった。

そこで初めて、ランレルは、この男が、あの街門の閉鎖に気づき、気づかれないように馬で突破したのだと気が付いた。この周囲が固まり、並木が風に揺らいで上へと伸びた枝の先がしなったままで固まっていたり、街の中では上から落ちているように見えた滴が、斜めに連なっている点々に変わっていたりするのを見ながら、

「あなたを捉えようとしていたのではないのでしょうか」

と静かに聞いた。


足元の泥は跳ねあがって固まっている。雨粒の勢いが強いのか、水たまりに水が落ちて跳ねて止まっているようだ。遠目の空が明るいのは、雨雲はここだけだからだろうか、と思いながら馬を進める。進めながら、横に並ぶ男を見る。すると、

「我が名は、サテン・チェシェ。確かに、我を止めようとしていたのかもしれない」

と後ろの王都をちらりと見ながらつぶやいた。

ランレルは、王に追われる男、と思って顎を引いた。雨を止めて、周囲の人間の動きを止める人間だったが、さらに王にも追われる男、と思ったところで、

「それでも、アルラーレ様の、主の伯父上なのですか」

と言ったのだった。

「あれの伯父をしている」

とおかしな言い方をした。サテンの目じりに皺がよったように見えたの。無表情のような冷たいまなざしが突然温かい、血の通った人間の顔に変わる。そして、その顔で、

「あれが止めようと思わぬまではな」

と意味深な事を言って、さらに、

「あれが、ロンラレソルか」

と視線をまっすぐ、道の先へ向けて短く言った。


平原を突っ切る街道の先に、淡く光る町が見えた。王都の門を朝にくぐりたいと思う人々が集まり泊まる町で、小さな町だ。家々の窓から漏れる明かりが町全体をぼぉっと照らしていた。雨の中、光に浮かぶ町は幻想的に見えた。

近づくについれ、雨は霧に変わり、外灯の明かりが霧に反射して、町の通りを照らしている。板塀で囲まれた強盗除けのある町は、真ん中に踏み固められた土の通りがあって、随分その向こうに、小さく板塀の門の出口が見えた。家々は漆喰と木で2階建てがせいぜいの高さだが、二階には欄干があり、そこから乗り出すように通りを見ながら、酒を飲む男達がいたり、酌をしている女たちが寄り添っていたり、通りには客引きか、宿を取った後に疲れを癒しに外へ出た人々を引っ張りこもうと、男や女が両手を振って、土間の中へと呼び込んでいた。

「宿と言う名の遊郭か」

とサテンが言う。さっとランレルの頬が蒸気し、

「別に通っているわけじゃなくて」

よく知っているわけじゃない、と言いたかったのだが、

「これほどにぎわっているれば医師もいよう」

と言われ、からかわれている分けではないと気が付いた。


しかし、町の人々は唾を飛ばして人を呼び込んでいても、両手を振ってからかう男達に文句をいいつつ媚を売っていても、霧が顔に掛かるのか布で顎を拭っている男がいたとしても、全員が動きを止め、ぶつかられよろけて足元が危なくなっている男も、転ぶ間際で、宙に浮かぶようにとどまっていてる男も、全く静かなものだった。

「で、治療所は、医師はどこだ」

とサテンが言うと、ランレルは口を閉じた。初めての町だ。店の場所だって分からないのに、医者の場所などなおさらだ。が、ランレルは、腕を上げた。とその先に、八角形が3つ重なるマークが板に浮き出た看板があった。うちの店なら、裏通りではなく表通り、そして、端ではなく中央だ、と思った通りにそこにあった。ランレルはほっとして、

「あそこで聞けば分かります」

と振り返って言うと、馬上のサテンはひょいっと片方の眉を上げた。人間的な動きをする時には、この表情をよく作るらしい。そんな事は知らないランレルは、見透かされたと思ってちょっと頬が赤くなった。知らないのに知っているふりをしているとばれたのだ、と思ったのだが。

「なるほど、そこか」

とサテンはいった。そして、首から鎖を引っ張り出して、店の印のペンダントを出すと、ランレルの後ろに乗っていた青年へとぐっと差し出し、

「これで医師を用意させよ。扉を開いて外へ立て」

と指示を出す。青年はペンダントを手に黙って馬から滑り降りた、と思ったら、そのまま動きを止めた。顔を見上げてサテンを見ていたのだが、サテンが馬首を回して半廻りで方向を変える。上を見上げたままの顔で、いなくなった空中を見つめていて動かない。手にしたペンダントを片手で、もう片方の手を包むように閉じているのだが、指が閉じかけている処で止まっている。

「おまえは来い」

と言う言葉に、ランレルが怪訝な顔を見せると、

「今、時を動かせば、その瞬間に失血死だ。医師を探すために時を戻す余裕は無い。ここまで来て無駄死には無駄であろう」

と言って、戸惑いながらアヤノを見ているランレルの馬の轡を片手を伸ばして取った。そして、器用に馬を進めながら、ランレルの馬の向きを変えて、

「離れるぞ」

と言って、固まったままのアヤノ皇子をその場に置いて、動き出す。


大通りをまっすぐ行き、元来た道を戻りだす。板塀の町の門から外へ出て、並木の影へと行くと、草原の手間への並木の下で、根の膨らんだ場所まで行くと、

「降りろ」

と短く言って、サテンも降りた。ランレルがそこで初めて、馬を引かれてここまで来たのだと気が付いて、慌てて降りる。このサテンと言う男とあの青年が離れて、あの青年が大丈夫なのだろうかと心配し、また、どこか神経がおかしくなったのか周囲がぼんやりしてきたせいで、反応が遅れたのだが、

「心配ない。指示は出した」

とサテンはランレルの考えを読んだ。そして、そのまま、自然に、ごく当たり前のように、

「木に凭れて根に座れ」

と言うと、ランレルが座るのを待って、今まで持っていた馬の手綱をそれぞれの蔵に巻き、馬の首を軽くたたくように撫でると、その尻を音が出る程きつくたたいた。と、馬は嘶き驚きと怒りの蹄でだっと駈け出す。見ていると、そのまま、王都の方へ戻って行く。そして、サテンは道をじっと見つめて、

「20分ほどだ」

とだけ言って、隣に腰掛けた。


すると、突然、ごっぉと言う音と共に全てが戻った。雨が額にぶつかり、風が髪をかき上げて目をすがめるとマントの端があおられて顔にかかる。遠くで歓声やざわめきと共に太鼓や弦の音がきんっとして聞こえ、うるさいほどの足元を打つ雨音が自分に当たりながら聞こえた。と思った途端に、ぷつりと音が止まった。

何もない平原を見る。雲が流れるように動く。まるで、大急ぎで駆け抜けているようにも見えた。瞬く星が平原の向こうに見え、空が明るくなってくる。雲が流れて消えていく。と、そこで、ランレルは目を見開いた。星がぐっと動いたように見えた。

「問題ない」

とサテンが言った。


ついさっきまで、街道には人っ子一人いなかった。王都へ続く街道は、平原の真ん中を抜け、並木ばかりが見え、強風でしなる木々が見えた。いや、たぶんそうだろう、と思うのだが、はっきりとは見えない。ついさっき見えた雨は街道を白く滝のように落ち、道を消した。その向こうに時々しなる並木が見える。駆け足のようなスピードで右左にしなる並木ははっきりと見えなくなって緑の幕のように見えだした。


ランレルが、なんだこれはと目を見張っていると、小さな米粒みたいな影が街道の向こうに見えた。と思うと、人間のスピードとは思えない程の速さで、しかし、歩いているとしか思えない手足の動きで近づいた、と思ったら、すぐそこに背に荷を括り付けた旅の業者のような大男が、ぎぐしゃくとしそうな大げさな動きで近づいてくる。顔がぱっとこちらに向き瞬時に向こうを向いたのは、目がぎょっと開いたせいか、恐ろしく印象的だった。しかし、その姿があっという間に背中を見せて、小さくなってロンラレソルの板塀の門をくぐると、喧騒に見えなくなる。と言うよりも、そこでランレルは目を見張った。


遠く、街道の向こうに板塀の続く囲いがあって門が見え、そこから街の中に一本の道が伸びる。その中に家々の明かりが灯り、道を横切る人々の影があるのだが、光がぼおっと膨らんでその中を人の影が線の様に縞模様を作り動いていく。あまりに早く動くので影の様にしか見えず、時折立ち止まっている人間のみが、人に見えた。

「これは?」

とサテンを振り返って聞こうとした。周囲の時間が、自分たちよりも早く飛ぶように過ぎているのか、と。振り返ろうとして動きを止めた。その時、町の真ん中で、まっすぐこちらを見る顔が見えた。通りの中ほどの開き戸の前で、小さく見えるが身じろぎ一つせず、こちらを見たまま動かない。腕が滲んでいたり、上半身が揺れているのかダブって見えたりする影の中、微動だにせず、じっとしていたのだろう、浮き出るようにはっきり見える姿があった。

「終わったか」

とサテンも同じように気づいたらしい。アヤと呼ばれる青年が、言われた通り、扉の外に立って身じろぎ一つしないで外を見つめていたのだった。


早回しの時が、その瞬間に止まった。一瞬音が聞こえたような気がしたが、再び、雨粒がビーズになって宙に浮く世界に戻る。

「ほら。行くぞ」

とサテンに言われて、ランレルはゆっくりと立ち上がる。顔に滴があたって、ぴちゃっと音がして、指で払うと、頬の近くで滴が止まる。


時間を自在に動かす存在。ランレルは恐れを感じるとともに、だから王に狙われるのかと、歩きながら考えた。この能力なら、きっと王国中から狙われても不思議はない、と思った。もしかしたら、この男が「第五皇子」なのかもしれない、とも考えた。ハーレーン商会の玄関で、ランレルは確かに「第五皇子」と言う言葉を聞いた。


竜の血を引く王家の者なら、このくらいの事はできるのかもしれない、と考えて、ランレルは、自分たちの王国の第五皇子は、いくつだったか思い出そうとしながら、サテンの顔をちらりと見た。

アルラーレが伯父上と言った人間が、20歳前の第五皇子であるはずがない。アルラーレの父親か母親の兄であるはずの人間である。アルラーレよりも絶対に年上だ。だいたい、この老齢にも見える顔が10代だとは思えない。と思いながらも、年が分からないと妙な不安を感じた。ともあれ、これは「第五皇子」じゃない。となると、「第五皇子」もう一人の方になる。喜々としてこの男の指示を聞き、王陛下と歌い続ける美しい少年にも見える青年こそが第五皇子、と言う事になる。ランレルの中に不安がぐっと膨れ上がった。そこで、ランレルは、

「ハーレーン商会は、伯父上の味方だ」

と口の中で言いなおし、両手をぐっと握りしめた。


だからこそのメダルであり、だからこそ王家の力の及ばない東に行けばいいと、アルラーレは言ったのだ。たとえ、第五皇子を連れていたとしても。と思って、ふと、アルラーレが、この男が第五皇子を攫って来たと気づいていただろうかと不安になった。盗賊が叫ばなければ、誰も気にも止めなかった青年だ。この男に心酔しているからこそ、余計に気に留めなかった。そして、だからこそ、守ってやらなければと思っていたのだ。きっとアルラーレもそう思って手配をしている、と思う。この伯父上を助ける以上に助けたいと思ったのでは、と思ったのだが。

「何があったも、ハーレーン商会は、伯父上の味方だ」

と口の中で言ってみると、苦い味がした。「たとえ人さらいであっても?」と言う疑問が渦を巻いて胸に重くのしかかる。


再び、板塀の門をくぐり、掛け合いをしているような人々の動きを縫って青年のところまで来る。ハーレーン商会の入口で、扉をあけ放ったまま街道を見る、早送りの時と全く同じように固まっている青年の前まで来ると、口元が引き締まっているのが見えた。良い年の青年が、攫われて逃げもせずついて行くなんて事はありえない。盗賊の間違いだ、と己で己に言って聞かせた。


ランレルが、思い切ったようにうなずいて周囲を見た。分からない事をいつまでも考え続けても意味がない。それよりも今の事だ、と思って立ち止まる。青年は遠くを見たまま、扉を抑えて待っている。時が止まったままだった。

あの男を、サテンを待っていたはずだ。大通りで、一瞬のうちに見えなくなったサテンを。見えないとあれほど不安そうにすると言うのに、今はしっかりとした表情で顔を上げて通りを見ている。


サテンは当然のような顔で、その固まっている青年の脇を抜けた。ランレルも、青年の脇を通り抜ける。なぜ、時を戻さないのだろう、とランレルは思った。通りをじっと見つめて口をかみしめている姿は、そのくらい切なく感じた。その心の声が聞こえたのだろうか、と思うようなタイミングで、

「時を戻せば、痛さと出血で失神するぞ」

とサテンが言った。はっとランレルが顔を戻すと、サテンは開け放たれた扉の内へ入って行くところだった。

その向こうに部屋の中が見えた。見た瞬間に目を見開いた。中央には5人掛けのソファーがあった。その真向かいには、椅子があったり台があったり、客をもてなし商品を広げる為の場所があった。しかし、その広げる為の台が2つ並べられ、上にはシーツがかけられ、脇にはストールのような丸机があり、その上には湯気の立った盥や見るからに清潔な生成りの布が置かれていた。

その台の後ろには腕を組む、ギャベットがいた。


今朝がた、アルラーレの指示で港へ向かったはずのギャベットが突っ立ったまま、と言うか動きが止まっているので突っ立ったままに見えるのは当然なのだが、微塵も動かず、扉を睨むようにして立っていた。正確には、扉を開いて、外を見つめている青年を睨むように見ている。その脇には、白い大きな前掛けを胸から腰に巻き付けるようにして立っている老齢の男がいて、手には細い金属でできて鋭利なハサミとナイフを布に乗せて手に取って、手元を見つめているのだった。道具を確かめていると言うのがありありと分かる。


彼らの前に、サテンがつかつかと近寄って行くと、台を軽くたたいた。頑丈さを確かめている様だった。足元のシーツをかき上げ軽く覗く、とテーブルの足が紐で縛られ固定されているのが見えた。サテンはうなずき、

「台に載って横に慣れ。まずは止血だ」

と言う。ランレルが、うなずき台に腰掛け、足をどうしようかとブラッとすると。

「ブーツぐらい脱げ」

と言われて、片手で乱暴にブーツを脱いだ。気が付くと、ランレルは左腕はあまり動きが感じられなくなっていた。強引に蹴り飛ばすようにブーツを脱ぐと、サテンは顎でシーツを示す。ランレルはゆっくりとおっかなびっくりそこに横になると、

「仰向きじゃない。右腕を下にしろ。縫うのは左だ」

と言われ、言われたとおりに右腕を下にした。


 すると、サテンが流れるような動きで、白い前掛けをしている男の手からナイフを取ると、ランレルの上着の袖に刃を充て、簡単に上着の袖を肩まで裂いてはぎとった。軽々と、肩宛は革だったのだが、まるで紙であるかのように、傷が付いた時には手首から顎までナイフが跳ね上がって、肩に来たところで顎までぐっと切り付けられた。そこでばっと血が飛び散って、今に至るのだが。サテンは布を全部切り離し、傷口を見た。そして、低く

「悪かったな。刃を本当に使うとは思わなかった」

と簡単に謝罪をした。そして、手をランレルの顎の下に当てた。もっとも深い傷がある場所で、自分で見えなくてよかった、と思うほど、そこは抉られていた。馬に乗って血が固まっているのを確かめた時に、指で触れて窪みに驚いて手を放したのだが、えぐれていた。

 それから、サテンは、

「しばらくは痛かろう」

とつぶやくと、唐突に、ごぉっと音が聞こえ、大通りの嬌声の混じった雑踏の音と、

「な、なんだこれは!」

と驚くしわがれた声と、

「陛下!」

と言う、振り返る風の音まで聞こえそうな勢いのある声と、

「ランレルか」

と言う驚きと言うか、確かめるように言う、ギャベットの声が聞こえて、その瞬間、首に置かれたサテンの指がぐっとその箇所を指圧した。ランレルは声にならない声を上げて絶叫し、痛さを顎から背中に、背中から脳天に感じて、そこまで来て、

「止血と共に縫合を」

と言う冷静なサテンの声を聞きながら、失神したのだった。


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