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龍の生まれる国  作者: るるる
第二部 平原の龍
110/128

アヤノ皇子

入口近くの扉をあけ放ったまま、外の冷気を額に浴びて、アヤノ皇子はじっと二人を見つめていた。マントを脱いだサテンは、不思議なほど穏やかな表情をしていて、嫌味のような声の男に、

「約束通り、帰ったであろう」

と答える姿を見つめていた。


圧倒的な存在感と、人には見えない何か超越したような頬一つ動かなかったサテンが、どこかに消えてしまっていた。アヤノ皇子は眉間に皺を深く入れ、じっとサテンを眺めつづける。サテンを迎えた男は、入口で立ち止まっているフードの青年を見つめると、サテンに向かって片眉を上げた。


細い眉の緑の目の男で、髪は白髪が混じり灰色だが、肌は生き生きとしていて、大きな口をぐっとつぐんでいる姿は辛抱強そうな印象を与えた。サテンよりも頭一つ低く、周りにいる店員やお客たちと、似たような背丈で、似たような髪型で、これと言って特徴もなく、サテンに似ているところも全くなく、ただ、

「人は凍えるんですよ」

とため息をついて言うと、サテンのマントを近くの店員に押し付けて、つかつかっとアヤノ皇子の前に立ち、

「ほら、そのフードを取って。とにかく奥へおはいりなさい」

と驚くほど穏やかにやさしく言うのだった。


怯えたような戸惑ったような顔をしていたアヤノ皇子は、今度はびっくっとして動きを止めた。これほど穏やかに自然に話しかけられたことはない。すると、動かないアヤノ皇子にしびれを切らしたのか、男は、手早くフードを外しマントを受け取り、中の上等な生地の上着が濡れて黒みがかってしまっているのを見ると、苦い顔をして、

「この季節の雨は身体に悪い。とにかく中にお入りなさい」

と言って、腕を取って、後ろも見ずに歩き出したのだった。


サテンはそれを見て口の端をゆがめながらも笑っている。そんなサテンを見て、奥に入りかけた男は、

「ほら、伯父上。あなたも。周囲が濡れて迷惑でしょう」

と何の同情もない声で言うと、サテンが歩き出すのを待って、さらに奥へと進んでいくのだった。


店の中。サテンについて店舗に入ったアヤノ皇子は、腕を引かれるままに歩き、カウンターの脇を通って、低いドアの扉をくぐって、床板がきしむ中、板壁の暗い廊下を通って、店の奥へ連れていかれた。どこかの部屋に入るのか、と腕を引く男が扉を片手で突き出すように押すと、びっくりするほどの光が廊下に差し込んだ。


廊下は、暗くて分からなかったのだが、壁には小さな絵が飾られて、天井には木枠の中に花の文様が描かれていて、ところどころに器を飾る棚まであった。暗い廊下は磨き抜かれた美しい板床で、壁のふちには木の蔦彫りの飾りまである。王宮ほどではないが、アヤノ皇子の住んでいた屋敷よりもずっと美しく手の込んだ建物だった。そして、その先、光のあふれた場所は、高い天井にはガラスが張られ、今はそのガラスに、八角形の全ての壁に掲げられた明るいオイルのランプから上がる火が反射して、七色の光を部屋の隅々にまで広げていた。


床には厚手の絨毯が敷かれ、四方に大きなソファーセットが四客も置かれ、さまざまな織物や布生地のクッションが置かれ、また、それぞれの場所には、タイルであったり、焼き物であったり、大理石であったり、それぞれの素材のそば机が置かれて、雑然と、しかし、どこかに腰掛ければとてもくつろげる広々とした空間になるように配置されていた。


「見本市ではないか」

とこれを見て、呆れたような声で言ったのは、アヤノ皇子に続いて入ったサテンだった。アヤノ皇子が振り返ると、上着に水が沁みていたのか、さっさと上着を脱ごうと袖を引き抜こうとしていた。腕にはりつく上着はなかなかひぱっても離れず、煩わしいように腕を振りながらだった。とても人間臭く見えた。


アヤノ皇子を引っ張って来た男は、

「当たりまえでしょう。こんなバカ高い王都の空間を、無駄に使えるものですか」

とぴしゃりと言って、ふと腕をつかんだアヤノ皇子を見上げて来た。


フードを取ったアヤノ皇子は青白いとはいえ肌理の整った頬にすっと通った目鼻立ちの美しい少年の様にも見える青年だった。そのアヤノ皇子が腕や肩に濡れた絹を絡ませて、震えるように立っている。

「温かいものに着替えましょう」

と今度は優しく言うと、その声を待っていたのか、八角形の壁のどこからか人が出て来て、アヤノ皇子の上着を引っ張るように脱がし始めた。


そして、上着どころかズボンも濡れていると気が付くと、中の一人が、上着代わりにタオルを巻き付け抱き込むようにしながら別室へと引っ張り始める。アヤノ皇子は引っ張られるままに歩き出し、八角形の壁まで来ると、それが衝立の様になっていてその向こうに廊下や、別の壁があるのが見えた。そして、その先に行こうとして、サテンが付いてこないと言う事に気が付いた。


サテンは、立って手渡されたタオルを頭に被せて首筋を拭っていた。腰の下は乾いているらしく、

「相変わらず、伯父上は器用ですね」

と言われながら、濡れて張り付いた上着を店にいた男の一人に引っ張られながらどうにか脱いで、中のシャツも軽く脱ぎ捨て、上からタオルをかぶるように巻き付けていた。アヤノ皇子は立ち止まって、サテンを待った。サテンが来なければ、別の場所へはいけないはずだ、と言うように。店の者が、

「お風邪を召してはいけませんから」

と言って引っ張っても、動かず、

「さあ」

と強引に力を入れて動かそうとする。しかし、アヤノ皇子は動かない。まっすぐサテンを見たまま微動だにしない。表情は驚くほど抜け落ち、能面のような顔になって腕を引かれると身体を動かさないせいでねじられたようになったのだが、眉一つ揺らさない。


アヤノ皇子はぼんやりと、サテンの廻りの景色を見ていた。

背後の壁は美しい空の色だった。周囲を囲む壁は八面もあるのに、薄雲のかかった空と空へ延びる樹木が絵画のように描かれているせいか、広い空間にいるように感じた。壁は織布が張られていたのだが、絵描かれているようにしか見えない。


その空の中で、サテンはどっとソファーに腰を下ろした。サテンは、タオルを肩に掛けたまま足を伸ばしてもたれかかる。靴が濡れているのを店舗の者が気が付いて、慌てて脱がせて銀糸の刺繍の店の品物のような布スリッパをはかせている。壁のどこかに扉があるのか、熱い湯気の立つ取っ手の無い陶磁のカップを持ってきて、茶たくと一緒に手渡すと、うなずくように受け取っている。

「陛下はどこにおいでだろう」

アヤノ皇子はぼんやりと、人らしくなったサテンを見つめて考えた。あの圧倒的な世界を統べる存在は、どこに行ってしまったのか。温かい茶をすするように飲む男を見る。近くに立っていた、サテンを伯父上と呼ぶ男が、アヤノ皇子へ何か言え、と言うようにサテンに話す。首を左右に振るサテンに、いらっとしたように、

「いったいどこから拾って来たんですか!」

と怒鳴っているのが聞こえた。拾われた、と言うのは自分の事だろうか、とアヤノ皇子は考えた。私を拾ってくださったのは竜である。

「竜王でなければならない」

とアヤノ皇子がつぶやくと、男はぎょっとしたようにアヤノ皇子を振り返る。アヤノ皇子は、

「人間など、ちり芥に等しい。我は竜に仕える者。その為にここにいる」

と自分を見る男に言って聞かせるように言った。だから、サテンは竜である、と言いたかった。人間のように見えるのは間違っている、と伝えたかった。しかし、男は細く音がしそうな勢いで息を吸った。そして、そこから両手を振って、サテンに向かってオクターブ上がった声で、

「あなたは今の状況が分かっているんですか!? この戒厳令が敷かれそうなこの王都の状況を。王宮から戻って来た者達は、竜神信仰の内乱だと騒いでいるこの状況を!」

と怒鳴った。それから、声を絞り出すようにして、

「今この瞬間に、竜神信者を養い子にしたのですか!」

と言うと、

「いったい、どこから拾って来たんですか」

と疲れたような声で言った。サテンは、表情を皮肉な微笑にしただけで、茶をすすり、カップを茶托に置いて首を回して肩の凝りを取っているようなしぐさをしてから、再び茶をすすりだした。男の向けては、片眉だけひょいっと上げただけで何も言わない。おかげで、睨みつけながら、

「王城では昨夜3度の落雷があったと言う噂で持ち切りですぞ」

と言って口を閉じた。サテンは静かに、

「身元を知りたいと本気で思うか?」

と言うと、男は嫌そうな顔をして、首を左右に振ってから、

「絶対に、わたしには言わないでください。聞きたくないです」

とまるで、アヤノ皇子が誰だか知っているかのように言うのだった。王宮に伺候していた商人たちは、議場の間が閉まる寸前、城下街に慌てて戻って行った者達がいた。何が起こったのか、店や家の者達に知らせる為に戻って行った。この店に戻って来た者もいたのかもしれない。何から何まで知っているのかもしれない。しかし、何も触れずに、男はただ、

「で、伯父上。この少年に、命じてくださいませんかね。さっさと着替えるようにと。人間は風邪を引く生き物なんで」

と半分投げやりに言った。

サテンは笑った。と、アヤノ皇子は表情を変えず生真面目な顔のまま、

「我は竜の子。竜である」

と言い返し、男はうんざりしたように、

「どっちでもよろしい」

と言った後、サテンを睨んだ。その睨みを受け、サテンはおごそかに、

「着替えてまいれ」

とアヤノ皇子に短く命じた。

アヤノ皇子は微笑を浮かべた。そうだった。この声だったと、笑いがこぼれた。このとてつもなく力ある声こそが、自分の主の声だった。アヤノ皇子はゆったりと、タオルを被せられたまま、背筋を伸ばし腰を落として片膝をついた。タオルを巻いた腕を胸に充て、頭を軽く下げて見せ、

「竜王陛下。仰せのままに」

とはっきりとした声でいうと、顔を上げて晴れやかに笑った。


サテンの脇で表情豊かに文句を言っていた男が、疲れたような声で、

「ランレル。着替えさせてあげなさい。この子を、この」

と言った後、サテンに向かって、

「この少年の呼び名は?」

と聞いた。サテンは、さてと言うように首を傾げた後、

「アヤ。何にいたすか?」

と聞いた。アヤノ皇子は、

「お望みのままに」

と頭を下げたまま答えたので、聞いていた男はバカらしいと言うように溜息をついて、

「伯父上。あなたが、アヤと呼んでいるなら、アヤなんでしょう」

と言った。そして、再び、先ほどアヤノ皇子にタオルを巻きつけ、その後、この展開を表情を変えずに、と言うより、変えないようにアヤノ皇子の後ろに立ち尽くしていた青年に、

「アヤ殿をお連れしなさい。風邪を引く」

と命じたのだった。

「かしこまりました」

と青年は答えて、膝をついて恍惚とした顔でサテンを眺めつづける青年をなんとも言えない顔で見下ろした。上品で品位がある。気品さえ感じられる。なのに、この残念な感じはなんだ、と思いつつ溜息を隠した。


アルラーレ、と言うのが、サテンを伯父上と呼んでいる男の名だった。年の頃は30過ぎ。灰色の髪のせいか年齢以上の年に見えた。穏やかな緑の目は、深いため息をついているせいか、少し疲れて見えるのだが、それでも活気があって生き生きして見えた。


良い商売になったと無邪気に笑っている時には20代にも見える美丈夫だった。王都に大きな店を構えて、顧客には腰が低く、商売では抜けが目ない。大陸中に支店を構えるハーレーン商会の主であった。伯父上と呼ぶほどの気安さのせいか、サテンを相手に一歩も引かない度胸があった、と言うよりも、いい加減サテンに振り回されているだけのようにも見えた。


サテンが、

「さっさと服を着替えてこい」

とアヤノ皇子に対して片手で追い払うようにして言うと、膝をついていた気高さに溢れていた青年がぱっと立ち上がって、青年ランレルを見る。そして、

「我の着替えはどこに?」

と雅な言葉で問いかけるのだった。



八角形の部屋は、奥の建物とをつなぐ廊下のような物らしい。アヤノ皇子が家人のランレルについて扉をくぐるとさらに回廊に出て、その先に別の建物があった。振り返ると、建物い挟まれた広い庭の中央に八角形のガラスの屋根が見え、その向こうに煉瓦造りの壁が、店舗の建物が見えた。アヤノ皇子はぼうっとした視線で雲から覗く薄日の中に光るガラスの屋根を見つめた。


前を行くランレルは腰低く案内をしているが、ぶしつけな視線を隠そうとして隠せていない。ぼんやりしたアヤノ皇子の顔は、おっとりとした大人びた子供のようにも見えるし、子供っぽい表情をする大人にも見えた。年齢が分からない。アルラーレは少年と呼んでいたが、丸みの消えた頬と言い、すっきりとした目元といい、どう見ても少年には見えない。しかし、目が穏やかだがどこを見ているか分からないような顔をするせいか、年端もいかない子供のようにも見えた。


立ち止まったまま、ついてこなくなった客人を待ってランレルは考えた。

この店に奉公に入って3年。王都に出て来て4年。15歳で、海辺の漁師町から王都に母親の祖父の孫の婿、つまりは母親の従兄弟の婿、と言う血のつながらない遠縁を尋ねてやってきてから、4年。そろそろ20歳になろうとしている。


店に出て接客をするようになって2年。鄙びた田舎町から出て来て、全ての人間が煌びやかで自信に満ちているように見えていた、あの15歳の日々から、王都の通り一つ隔たっただけで全てが変わってしまうような貧富の差や、生活の違いを知り、その違いによって生まれる立ち居振る舞いや言葉遣いの違いを学んで、だいたいどんな人間なのか分かるようになってきた、と思い始めた今日この頃だったのだが、この客人は分からない。


ランレルは赤茶けた母親似の前髪を指先でかき上げ、髪と同じ赤茶けて見える目を細め、客人をそっと見つめた。この容姿のお蔭で、母親の幼馴染でもあった母親の従兄弟の婿は、随分前に死別した妻の縁戚の者だと言うのに、懐かしいと快く迎え入れてくれて、仕事先を世話してくれたのだが。それはさておき。


客人の黒く短い髪はどれほど手入れをしているのかと思う程黒くつややかで、上を見上げたまま、背をすっと伸ばして身じろぎ一つせずに立ち止まる姿は、気品を感じた。声を掛けにくいと思わせる程の品位があった。


細く切れ長な黒々とした目が、わずかに揺らいでいるせいで儚げに見える。青年だと言うのに、少年にも見えるのは唇に時々不安そうに力が入るからだろうか。真っ白いかんばせは玉子のようにつややかで、ひげ一つ見えない。だから、幼く見えるのだろうか、と思って見ていると、青年がゆらりと揺れるようにこちらを向いた。

「我が皇帝の期待に応えねばならない」

そう青年がつぶやくと、ランレルへ向かって、

「我が部屋は遠いのか?」

と聞いて来た。

ランレルが何について語りだしたのだろうと首を傾げていると、

「竜王陛下のご依頼である。とくいたせ」

と目を細めて言う。何かを、とがめているようにも見える動きに、ランレルは待たせたのは誰だ、と言う思いを隠して、

「こちらでございます」

と背を向けて、今度は後ろを気にせずさっさと歩き始めた。


先ほどまでは、客人はゆらりと歩いていたのだが、今度はさっさと後を追って歩き出した。水に濡れた木々の中庭の回廊を通り、裏の居住区でもある建物に入ると、薄暗い廊下を、客人を通せる区画へ歩き、部屋のつながる廊下に立って、もっとも手前の部屋の扉を開けた。大抵はここに何もかもが用意されている物だった。ランレルは、さっさと中に入ると扉を抑えて、アルラーレの伯父と呼ばれる男がつれた、気品だけはある客人の入室を待った。


アヤノ皇子は背にサテンの気配を感じていた。あの巨大な気配があると言うのに、なぜ、先ほどまで、普通の人間がそこにいると思っていたのだろう、と不思議に思った。この店に入った途端、サテンは普通の人になった、と思ってしまった。ふがいない、と思う。あのお方の気配をこの自分が間違えるなどと、恥ずかしい、とも考えた。


八角形の部屋を出るとすぐ振り返る。と、八角形の屋根はガラスで、そこに太陽が差し込み、暗かった辺りが一面光が反射して、水粒た宝石のようにきらめいて見えた。部屋の扉は閉ざされ、軒の向こうにある窓には色ガラスが嵌められていて中は全く見えないと言うのに、ああ、あそこに竜王がお有れる、とアヤノ皇子は感じた。


じっくりと竜王の気配を感じ、心から幸せを感じて振り返ると、家人がじっと立ってこちらを見ていた。同じように竜王の気配を感じていたのだろうか、と思いながらも、身動きしそうにない家人に、竜王の命令を伝えなおすのだった。「着替えねばならぬ」と思いながら。


ランレルは、部屋に入って手早くランプに火をともす。昼から明かりを必要とする部屋を持っているのが贅沢と言えば贅沢であり、暗さを我慢しないのが贅沢と言えば贅沢だった。ただ、店舗の人間だけなら、この程度の明かりがあれば全く問題ないのだが、窓から差し込む光だけでは、手元の着物の色は淡くてはっきりしなかった。


部屋の中央には刺繍の多い布を張ったソファーがあり、壁には飾り棚があって、床には色鮮やかな絨毯があったのだが、簡単な接客用の部屋は、豪華な家具があると言うのに、必要な家具を置いただけ、と言う不思議な雰囲気があった。実際、置き場の無い商品だった家具を寄せ集めて置いていたのだから不思議はなかったのだが。豪華ではあった。


ソファーの前の巨木から彫り起こして作り上げたテーブルの上に、服を並べながらランレルは言った。

「こちらにお着換えください。東洋織ですが仕立ては王都でしたものなので、着やすいはずです」

ランレルが部屋へ招き入れてから、部屋の外へ出て、居住区の執事をしているグーンに用意してもらった服を並べたのだが、この客人は部屋に入ってテーブルの手前で立ち止まったまま身じろぎ一つせず待ち構えていた。ゆっくりとくつろぐ、と言う事をしない性質か、大変せっかちな人間かどちだろう、と思いながらランレルは丁寧に布を伸ばして青年に見せる。


アヤと呼ばれた青年はその服を見ただけで何も言わずに、タオルをするっと外した。そして、そのまま何もしない。真っ白い染み一つない肌をさらして、突っ立って、じっとしている姿を見て、ランレルは何ごとだと目を見張りながら青年を見て、その後で、口の中で舌打ちをする。指一本自分で動かす気が無いぞ、と気づいたからだ。


漁師町の中でも、網元の家で育ったせいで、ランレルは丁寧さは知っていた。がしかし、荒くれた所作が当たり前の子供時代があった。王都にいる母親の従兄弟の婿を叔父と呼んでいるのだが、この叔父に、何度も叱られて所作を覚えさせられた上、店舗では店に出せるようにと徹底的に躾を受けたのだが、油断をすると、簡単にお里がこぼれ出る。


口の中の舌打ちが外に出てこないように抑えながら、

「こちらにお着換えください」

と再度言った。幼子に服を着せ替えさせるように着せ替えさせる気はさらさらない。自分でやれ、と言う気を前面に出して言ったのだが、客人はじっとしたまま、ゆったりと視線を動かしランレルを見る。用事を知らないダメな家人を見るかのような視線を向けた。ランレルはイラッとして、

「ズボンは濡れていますよね。絨毯が水を吸っています。さっさと脱いでお着換えください」

と言うと、軽く会釈をする、と言う程度の礼儀は見せて、さっさと扉を開けて外へ出た。と、ドアを閉めようとしたところで、

「私が自分で服を着るのか?」

と言うつぶやきを聞いて、動きを止めた。嫌みやいらだった声だったら無視できたと思う。しかし、この客人のつぶやきは、どう聞いても途方に暮れたようにしか聞こえない。上品な人間と言うのは、こんなにダメなのか? とランレルは思い、見上げると不安そうに目が揺れて、どう見ても親とはぐれた子供のようににしか見えない。ランレルは深いため息をついた。



ランレルは、今朝は朝から、店舗に出ていた。昨夜遅く、慌ただしく、王宮に上がっていたはずのソウラ・ギャベットが戻り、アルラーレの指示を仰いでどこかへ飛び出していくのを聞いた。ランレルの部屋は店舗の真上で、居住区とは離れているのだが、オフィスに近い。店番と言う意味もあるのだが、こう言う時には何かが起こっていると気づけて便利だ。しかし、朝起きてからはいつもと全く変わらない朝が始まり、主に聞いても、

「船を抑えに行っただけだ。私たちにはそれほど関係あるまい」

とだけ言った。本当に問題ない事なのか、食事がすむといつものように店を開けた。


店は、朝からの雨で客足も悪く、一人二人と接客をすると暇ができたので、水気を吸ってスエードにカビが生えたり、飾り道具の鉄がさびないように、奥にある暖炉に火をくべようとカウンターの中へ入っていった。カウンターの影にある炭箱を開けて、鉄ばさみで炭をつまんで籠に移していると、カタンと軽い音がして扉が開いた。


店員になってからしごかれた習性で、瞬間身体を起こして扉に向かった。目が合えば、笑顔と共に挨拶を、と思って見るとフードを深くかぶった背の高い影のような姿がゆらりと中に踏み込んできた。しずくが店内にこぼれ、立ち止まると水たまりができてしまう。慌てて一見モップに見えない美しい布をつけた棒を手に、嫌味にならないタイミングで入口へ向かわなければと思ったのだが、ランレルは動けなかった。


フードを後ろへ跳ね上げて出て来た顔は、ショーウインドーを華やかに照らす為に窓枠に下げていたランプの光を下から受けて、はっきりした影ができたせいか美しく幻想的な面となっていた。


店舗には、茶会のテーブルを飾る小物を探して雨を押して出て来た子爵婦人や、雨が降っても雪が降っても退屈だからと隔日に来る大店の隠居や、次に来る買い物の下見にと言ってこの界隈に来たついでに寄って外国産の布を次から次へと眺め見ていた男爵夫人の親子がいるだけだったのだが、彼らも全員、入って来た男を見て、そのフードから出た顔を見て、動きを止めてしまった。それほど、印象的な、独特な雰囲気のある美しい顔だった。


整っていると言うよりは、面長の色の白い顔は頬がこけはっきりとした意志を見せ、黒々とした切れ長の目に、大きく広がった唇と相まって人を見下しているようにも、周囲の存在を全く認めていないようにも見える。それなのに、ゆっくりと動く視線に当たると、子爵婦人が頬を染め、男爵夫人とその令嬢が思わず視線を落としてしまうような何かがあった。二歩踏み込んで、その後に、再びフードの男が入った時に、ランレルは呪縛が解かれるように身体がやっと動き出し、モップに向かって手を伸ばす。と、そこに、

「今度は何を拾って来たんですか、伯父上」

と言う、店舗の主のアルラーレの声を聞いて、ランレルは背筋を伸ばして緊張した。初めて見る店主アルラーレの親族だった。


ランレルは、住み込みの店員は自分だけだったので慌てて後を追い、積極用の部屋へと入った。はじめて入ったときには空に踏み込んだような気がして、浮遊感を覚えた八角形の部屋だったのだが慣れてみれば、雑多な家具があるだけの部屋だ。そこで、奥から出て来たグーンにタオルを渡され、客人に渡しもてなし始めたのだが、この客人はどこかおかしかった。何がおかしいのか分からない、と思っていたのだが、竜王やら、陛下やら言い始めて、根本がおかしいのだと結論付けた。

アルラーレの親戚なのだから、自分があれこれ言うべきじゃない、と思いつつ、ランレルは着替えをと言われ案内に立ち、先に立って歩く事で思考を隠した。


と言うのに今の今、途方に暮れた青年は、着替え方が分からない、と言うような事を言って途方に暮れている。ランレルが、振り返って部屋の中に突っ立っている青年を見ると、手も伸ばせずにテーブルに置いた服を見ている。タオルはあんなに簡単に外せたと言うのに、服を上に羽織る、と言う事ができない。


壁に掛けたランプの光は、つるりとした青年の頬に光、また、整った表に影を作り、途方に暮れた眼差しまでもが、何かの美しい作り物に用に見せているのだが、「現実離れしすぎている」とランレルは感じていた。普通じゃない、と言うのは別に悪い事でもなんでもない。そこでの常識が違うだけだと思っていた。漁師町でも、網元で暮らす自分と水夫とは大きく習慣が違っていた。水夫にとってはそれが誇りらしかったのだが、女性の評価は低かった。


王都では大声で話したり腕を振って喜びを表したりと言うのはぶしつけに当たったり、わざとらしく見えたりして良くない、と言うような違いがあるのだと学んできた。だから、違いは単に環境が違っているだけで、合わせるか理解するか見なかったことにするかどれかにすれば良いだけの事だ、と思っていた。それが、目の前の青年を見ると、何か身震いしたくなるような、狂気を感じる。

「これでは、陛下のお役に立てない」

とつぶやいて、青年が、ほろりと泣き出すところを見ると、気味の悪い物が背筋を這い上がって、異常さと言うのはそれだけで気味が悪いのだ、と言う嫌な答えに出くわした。


ランレルは、王都に来たばかりの時に、伯父の家で自分を毛嫌いする人たちの事を思い出した。それと同じ事を自分がしそうになっている、と感じると、さらに不愉快になって、がつがつっと靴を床につきたてるようにして部屋に踏み込んでいくと、まるで、自分の意識を殴り捨てるかのようにして、

「覚えればいいんだ。ほら、手を出せ」

と子供の頃、近所のガキを相手にしていたような話し方をして、目をそろりとして上げて見つめてくる頼りなげな子供のような目を、振って落とすような勢いで、青年の腕を掴んで手に服を握らせたのだった。


着替えを終えて、濡れそぼっていた髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭いてしずくを取って、ランレルが店員の身だしなみ用に持っていた櫛で何とか髪を整えてやる。初めは手渡してから壁の鏡を勧めてやろうと思ったのだが、すぐに、一人では櫛が使えないと気が付いて、「そうだろう、そうだろうと思ったさ」と独り言をつぶやきながら仕上げてやると、やっと、着替えのために用意した客室を出れた。


その時には、先ほどまで差し込んでいた日差しも消えて、空は一気に暗く重い雲に覆われだしていて、落ちる雨は、みぞれ交じりになっていた。冬の訪れの長雨の始まりだった。


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