第77話 穏やかな最期を
戦いから逃げるように、ゼロを抱えて走った。
もうすっかり覚えた城の地図は最短の道を即座に導き出す。
「大丈夫か、ゼロ。もうすぐ着くからな」
揺れる細い体は返事をしない。虚ろな瞳で、ゼロはぽつぽつと細い声で語った。
「余が生まれたときを思い出す。右も左も分からないとき、ドルハダスが私をいつも抱えてくれていた。親のような男だった。殺そうとしても死なないから、いつでも余の癇癪を受け止めてくれた」
ごほっ、と咳き込むと血を吐いた。
『なんだあ、お前さん。俺と一緒に生まれたくせに小さいじゃねえか。どれ、面倒見てやるとするか! 同胞ってのは大切にしねえとなァ』
兄のような存在。生まれたときから傍にいてくれた。
思い出すだけで、笑みが零れてしまうほど大切な存在。
「……余が少し大きくなった頃、ヴォリーダと出会った。冷たいようで情熱的で、森で静かに獣を狩りながら生きていた。優しい男だった、人間と対立しても、ずっと希望を抱えて生きていた」
目を瞑り、浅くなっていく呼吸を必死に取り戻そうとする。
『俺の腕が長いのが気になるのか? 弓を射るのに都合がいい。人間はすごいぞ、彼らの技術は認めるしかない。問題は彼らとは相容れないことだ。どうにか歩み寄れればいいのだが……まあ、無理な話かもしれないな』
本質的なところでは似ていたのかもしれない。シレントを見ていると思い出す。希望を抱き続けた者と、絶望に堕ちてしまった者の差をゼロは強く感じた。
「……荷運び人、と呼ぶそうだな」
「え?」
「卿が、やっていることだ。人間はそれをシゴトと言うのだろう」
げほげほと咳き込んで胸をぐっと掴み、苦しみに耐える。段々と手足の感覚がなくなっていく。温度が散っていく。
「余も、生きていたら、そんな仕事をしてみたかったな。たくさんのものを見れるだろう。たくさんのものに触れられるだろう。どんな経験をしてきた。どんなものを見てきた。どんなことを感じてきて、今の卿があるのか……。余も生きて、確かめてみたかったな。今となっては、叶わない、願いか」
窓の外に見えたカラスが、一羽で飛んでいる。ゼロは寂しくなった。
「死にたくなかったなあ。私だって、たくさん、生きてみたかった」
五百年前に生まれたといえども。彷徨い続けたといえども。それは抜け殻のように過ごした五百年で、生きたとは言い難い。
(……余には叶えたい夢がたくさんあった。大勢と肩を組んで笑い合ってみたかった。くだらないことで怒って、泣いて、悲しんで、悔しがって。美味しいものを食べて、見たことのない景色を見て。そんなことを言ったら、お前は泣いてしまうんだろう。疲れたと思わずに目を覚ましてみたかった……ああ、でも、少なくともひとつだけ夢は叶いそうだ。────やっと、ゆっくり眠れる)
かすれた視界に目を瞑り、息を吐く。もう苦しくなかった。
「ゼロ、僕はきっと大した人生を歩んじゃいない。何をしたらいいのか分からないまま、この歳になってたくさんの人たちから学ばせてもらった。僕より若い子でさえ、僕よりずっと自分の人生を全うしてる」
ゼロの身体をぎゅっと抱きしめて、ただ前を見て走り続けた。
「でも幸せだ。君にも分けてやるよ。だから諦めるなよ、生きるのを」
ようやく鐘のある場所まで辿り着く。戦っている仲間たちに背を向けて、ただ何もないインサニアの滅びながらも美しさのある景色を見せた。
「ほら、座って。相変わらず良い眺めだ」
ゼロを隣に座らせて、倒れないように肩を抱く。
「……ゼロ?」
冷たい肩。小さく体を揺らしてみると反応がない。頭はがくんと項垂れて、もう景色など見ていない。ただ静かに眠っていた。
「おい、嘘だろ。ここまで来て……君の最後の願いも……?」
息が詰まる。唇が震えて言葉が出ていかない。
ただ、彼女の死は暗いものではない。
眠った顔はとても幸せそうに微笑んでいたから。
「……そうか。君はそれでも構わなかったんだな」
死ぬのが怖いわけではない。惜しいとは思った。だからといって、受け入れられないほどでもなく。生きたかったとは言っても、僅かな時間で再び過去を取り戻したゼロにとって、今日ほど穏やかな気持ちでいられた瞬間はない。
「よお、大将。もう眠っちまったか」
疲れ切った顔で、ドルハダスが塔の頂上へやってきた。
「もう終わったのかい?」
「ああ。魔物はなんとか片付いた。大体は避難も済んで安全も確保してある」
「仕事が早いね。僕は……この景色を最期に見せてやれなかった」
悔しそうに唇を噛むシレントを、ドルハダスは鼻で笑った。
「いいや、とっくに見せてもらってたさ。ま、お前には言っても分かるわけないだろうが……寂しかったろうが、悪くない時間だったと思うぜ」
隣に立ってドルハダスが腕を伸ばすと、一羽のカラスが止まった。本来であれば二羽来るんだが、と彼は寂しそうに笑ってカラスの頭を指で撫でた。
「偉そうなこと言っておきながら、独りになっちまった」
そら飛んでいけ、とカラスを放す。黒い翼が空に広げられた。
「ゼロの遺体はお前さんが持っていけ」
「……どうして。いいのか、僕らが持っていっても」
「構わねえよ、別に。んなもんいらねえや」
からから笑って、ドルハダスは片膝を立てて座った。
「そいつは亡骸だ。そんなもんに魂は宿らない。俺たちは所詮、クリスタルが生んだ魂のひとつでしかない。死ねば、また何かに生まれ変わるのを待つだけ。記憶も何もかも洗い流して、まっさらな生を歩むのさ」
「理想的だな。僕らとは考え方がまったく違う」
亡くなった人の亡骸は、この世にいた最後の証。丁重に弔うべきと考えるのが普通だが、魔族たちは違う。命など所詮、そのとき限りのものでしかない。死ねば終わりで、未練など残さない。残らない。
「それが生き物ってもんだろ。きっと今頃は、好きなところへ行ってやがるさ。俺だけ置いてな。まったく勝手な奴だぜ、生まれたときからそうだった」
ぼんやりと景色を眺めながら、見向きもせずに言った。
「お仲間が待ってるから行ってやりな。長居してるとまた湧くぜ。此処のクリスタルは長いことゼロの魔力を吸い上げてたせいで、そう簡単には消えやしねえ。壊すにしても、ありゃ硬すぎて俺でも無理だ」
「君はどうするんだ。さっきの状況も考えれば、さすがに彼らも君を受け入れざるを得ないと思うし、良かったらいっしょに……」
誘いをドルハダスはさらっと断って、手をひらひら振った。
「もう興味がねぇ。俺は元々、人間と和解したいなんて言ったことはねえぜ。面白そうだっつっただけだ。もうしばらく此処で景色を眺めとくさ」
シレントには彼に掛ける言葉がなかった。申し訳ないと言うのも違う気がして黙っていると、ドルハダスがそれを横目に見てフッと笑う。
「仕方ねえ奴め。しっかり頼むぜ。そいつを連れてけってのは俺からの依頼だ。そいつの最期を連れ帰って人間共に伝えてやってくれ、荷運び人さんよ」




