第七十四話:特異点
「私は明日、死ぬ必要がある」
ヴィーナスフォートの噴水広場。
夕焼け色の人工空の下で、私が告げたその言葉に、セラフィナは息を呑んで硬直した。
「……何を、言っているのですか?」
「そのままの意味だよ。これが、貴女を元の世界へ帰すための、最も論理的で確実な方法」
私は、震える彼女の手を握ったまま、淡々と『システムの仕様』を説明し始めた。
「そもそも、私が死んだらどうなるか。……この世界のシステムは、私の経験した『記憶データ』を、次の世界に新しく生まれる『次のセラフィナ』へと引き継がせようとするはずだよね?」
「私が、貴女の過去の記憶を受け継いだように」
「そう。その時だ」
私は、空を指差した。
「システムが、私の記憶データを次の次元へと送信する瞬間。恐らく世界と世界の間に、データを転送するための『ゲート(回線)』が必ず開かれる。貴女が元の世界に帰るには、そのタイミングを狙ってゲートに相乗りするしかない」
「……」
「私が生きている限り、次元のゲートは絶対に開かない。私が死んで、記憶を次の世界へ送るプロセスが発生して初めて、道は開かれるの。だから……私は明日、予定通りに死ななきゃいけない」
無論、確定的な話ではない。
あくまでも可能性があるというだけの話。
しかし、私の死こそが、彼女を故郷へ帰すための物理的な『鍵』であることは間違いない。
なぜなら私の記憶のみが、確定的に異世界へと渡ったものなのだから。
「……ふざけないで、ください」
ポツリと、絞り出すような声が落ちた。
見ると、セラフィナが俯き、肩をわななわせていた。
悲しみではない。それは明確な『怒り』だった。彼女が私に対して、初めて見せる激しい感情。
「ふざけないでくださいませ!!」
バシッ、と。
セラフィナは、私の手を強く振り払った。
「私が、貴女の命を犠牲にして元の世界へ帰ると!? そんなこと、この私が許すとでも思っていらっしゃるの!!」
夕焼けの光を受け、立ち上がった彼女の金糸の髪が燃えるように輝く。
その瞳には、異世界の過酷な運命の中で磨き上げられた、高貴な令嬢としての凄まじい矜持と覇気が宿っていた。
「規定された運命がどうだというのです。因果律がなんだというのです! 誰かの命を犠牲にして成り立つ未来など、私は絶対に認めない。……この世界の未来は、私が自分の手で作り替えてみせますわ!」
「なるほどね」
「明日、貴女の命を狙う者が現れることは分かっています。ジュリアスだけではない。……レオンハルト様も」
彼女の口から出たその名前によって、私の論説は的を射ていたことが証明されただろう。
今日一日、彼女がずっと狼狽えていた理由。それは、最愛の人が私の暗殺に動くことを知っていたからだ。
どのように推論したのかは不明。
彼が私こそが、セラフィナの前世の記憶の持ち主であることを知ったかも分からない。
しかし80年近くあったのだ。
それだけ膨大な時間があれば、たどり着けなくもないだろう。
「レオンハルト様は、この80年を……いえ、私に旅行を許したことをとても後悔されていましたわ」
セラフィナが、苦しげに唇を噛む。
「私を元の世界へ帰すことができれば、歴史は修正される。彼はこの世界に落ちることもなくなり、八十年という地獄のような時間をやり直せる……。だから彼は、貴女を殺して私を何としてでも元の世界へと戻そうとしますわ」
愛する女を救うためであり、同時に、自分自身の人生を救済するため。
あまりにも切実で、エゴイスティックな動機だ。彼もまた、己の未来のために戦う一人の人間なのだ。
「いいでしょう。相手が誰であろうと、私がすべて退けてみせますわ」
セラフィナは、私を見下ろして毅然と言い放った。
「私は、持てるすべての手段を用いて貴女を守り抜きます。レオンハルト様が来ようと、ジュリアスが来ようと、絶対に貴女を死なせません」
私は、圧倒的な光を放つ彼女を眩しく見つめながら、小さく笑った。
「……じゃあ、勝負だね。セラフィナ」
「勝負?」
「そう。明日、貴女が私を守り切れたら貴女の勝ち。私が予定通りに死んで、貴女が元の世界に帰ることになったら、私の勝ち」
私はゆっくりと立ち上がり、彼女の正面に立った。
その瞬間、セラフィナのサファイアのような瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
彼女は口元を手で覆い、わずかに息を呑む。無理もない。彼女はあくまでも、私が死の運命に怯え、生きたいと願っているとばかり思っていたのだろうから。
「……貴女、正気ですか? まさか、自ら死を受け入れるとおっしゃるの……?」
「受け入れるっていうか……『証明』したいのかな」
私は、自分でも顔がニヤけてしまうのを抑えきれなかった。
化学式を読み解く時や、複雑なシステムコードが完璧に組み上がった時と同じ。私の胸の奥で、知的好奇心が抑えきれないほどに暴れ出していた。
「いい、セラフィナ? この世界の歴史は『貴女が元の世界に帰らない』という結果をすでに確定させている」
「それが、どうしたというのです……っ!」
「つまり、どっちなのかな、と思ってね」
私は前のめりになり、熱っぽく語り始めた。
「私はね、この宇宙の因果律がどういうソースコードなのか知りたいの。私の死によって何がもたらされるのか。生きることによってなにが起きるのか。それとも何も起こらないのか。少なくとも、私の死こそが貴女をこの世界に繋ぎ止める楔であると考えている人間が二人いる。少なくとも、私が死ぬことによって、新しい貴女を生成するトリガーとなるのだろうけれど、仮に私が生かされるのならそれはこの世界にどのような影響が及ぼされるのだろうか」
「……」
セラフィナは、本気でドン引きしたように、血の気を引かせて一歩後ずさった。
まるで、得体の知れない怪物でも見るかのような目だ。
「……貴女、頭がいかれていらっしゃるの?」
「それは多分、お互い様だと思うけどね。多分貴女も、ずっと言われてきたんじゃない?」
心底理解できないと首を振るセラフィナに、私は楽しげにウインクをした。
「こうしようか。勝負にはルールが必要だもんね。私は決して自殺はしないし、自ら死へと向かうような直接的な行動もしない。刺客に自分の居場所を教えたりもしない。……つまり、私は明日、文字通り『何もしない』。ただ運命を待つだけ。代わりに貴女は、私を金庫に閉じ込めたり、誰の手にも届かないようなところには連れて行かない。みたいな?」
「……勝負になりませんわ」
「確かに、私の方が断然に有利だね」
「……逆にしませんか?」
「逆?」
「私が貴女の命を狙いますので、貴女は必死に逃げてくださいませ」
「あはは、嫌だよ。一介の女子大生が、権力者の暗殺から逃れられるわけないじゃん」
「それは、私だって同じですわ」
「大丈夫だよ。少なくともあの二人は助けてくれるし」
私は、スイーツ店の前で談笑している2人に視線を向ける。
「なるほど、心強いですわ」
セラフィナは、深くため息をついた。
どうやら腹を決めたらしい。
私たちは、勝負の誓いを立てるように、互いの視線を強く絡ませた。
「天地神明に誓って、貴女を決して死なせませんわ」
正々堂々と運命に立ち向かう、気高き光の令嬢。
彼女のその真っ直ぐな美しさに、私は心の底から敬意を抱く。
(――でもね、セラフィナ)
私は、内心でひっそりと、セラフィナに謝った。
ルールを守って正々堂々と戦うのは、貴女のようなお姫様だけだ。
絶対に私を死なせないと誓う、これは多分、最愛の親友と言っていただろう。
その彼女の誇り高いルールを根底から裏切り、敗北を与える。ただの女子大生の最後にしては随分と壮大ではないか。




