第七十三話:ヴィーナスフォート
直樹の運転する車でレインボーブリッジを渡り、私たちは目的の場所――お台場のヴィーナスフォートへとやってきた。
中世ヨーロッパの美しい街並みを完全再現した屋内型ショッピングモール。吹き抜けの天井には精巧な人工の空が広がり、時間帯によって青空から夕焼け、そして星空へとその姿を変えていく。
「……懐かしいですわ」
エントランスを潜った瞬間、セラフィナが目を輝かせて声を上げた。
「そうでしたわね。この噴水広場で……そういえば彼は元気なのでしょうか」
「相田くんね。私と同じ大学だよ。忘れちゃったの?」
「そういえば、そうでしたわね」
ドレス姿のセラフィナが石畳の広場を歩くと、まるで映画のワンシーンのようで、すれ違う人たちが思わず振り返る。
私たちは直樹を荷物持ち(ポーター)に任命し、アパレルショップや雑貨店を巡った。アイシャは片手にクレープを持ちながらも、護衛としての鋭い視線で周囲の安全を確保してくれている。
歩き疲れた頃、私たちはモール内にあるカフェのテラス席に座り、休憩をとることにした。
「……信じられません」
私の勧めで注文した『季節のフルーツパフェ』を前に、アイシャがスプーンを握りしめたまま硬直していた。
「冷たい氷菓と甘い果実、そして滑らかなクリームが、グラスの中で完璧な層をなして……。甘さの中に僅かな酸味があり、食べ進めるごとに味が変化していきます。これは、王宮の料理長でも作れない芸術です……っ」
アイシャは、まるで重要な任務でも遂行するかのような真剣な面持ちで、しかし瞳の奥に感動の涙を浮かべながら、黙々とパフェを口に運んでいる。
「アイシャさん、パフェ食べる時もめちゃくちゃ姿勢良いんだな……」
アイスコーヒーを飲みながら、直樹が呆れたように、しかし少し楽しげに笑った。
買い物を楽しみ、美味しいものを食べ、他愛のない冗談を言い合う。それは、死の恐怖も、異世界の因縁も忘れさせてくれる、本当に楽しくて温かい時間だった。
やがて、モールの天井の人工空が、美しい茜色の『夕焼け』へと変わる頃。
「俺、アイシャさんにタピオカでも奢ってくるわ。姉ちゃんたち、そこのベンチで休んでなよ」
直樹がアイシャを連れ出し、私とセラフィナは噴水広場の脇にあるベンチに二人きりで腰を下ろした。
人工の黄昏時。オレンジ色の光が、セラフィナの金糸の髪を美しく染めている。
「……今日は、楽しかった?」
私が尋ねると、セラフィナは膝の上で両手を上品に重ね、コクリと頷いた。
「ええ。本当に、楽しかったですわ。貴女がこの美しい世界を愛している理由が、よく分かりました」
「そっか。よかった」
私は微笑んだ。だが、すぐに違和感に気づく。
楽しかったと答える彼女の横顔は、ひどく思い詰めたようで――私に対して、どこかよそよそしい壁を作っているように見えたのだ。
「……そろそろ聞いとこうかな」
私は、彼女の重ねられた手に、自分の手をそっと重ねた。
「帰る方法でもわかった?」
セラフィナは、驚いたように目を見開くと、重ねられた私の手を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「……どうして、わかったのですか?」
「まぁ、女の勘ってやつ?」
元の世界へ帰る方法。それは、私たちがずっと探していた最重要課題。
何となくではあるが、レオンハルトさんはヒントぐらいは掴んでいるのではないかと予想はしていた。
そしてその方法を、私は漠然と理解していた。
「……個人的には、予想が外れていてほしいんだけど、どうだろう、予想通りかな」
セラフィナは、私の手を強く握り返した。
彼女の宝石のような瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちる。
「……いえ、他にも方法があるはずですわ」
セラフィナの唇が、震えながらも縋るように言葉を紡いだ。
「どうだろうね。色々考えてみたけど、たぶんそれが真だと思うよ」
モール内に流れる優雅なオルゴールのBGMが、遠くへフェードアウトしていくように感じた。
セラフィナの瞳が、私を一心に見つめる。
とても綺麗な瞳で、涙もあってキラキラと輝いていた。
「綺麗」
そう呟いたのはセラフィナだった。
私の、取り立てて特徴のない黒目を、そんな風に言ってくれるなんて初めての経験だ。話題をそらすための、彼女なりの最後の抵抗のようにも思えた。
「私は明日、死ぬ必要がある」
その瞬間、この世界には私とセラフィナ以外全ての存在が消失したかのような錯覚を覚えた。
私の口からこぼれ落ちた言葉。
それは、この世界に生じたバグ――固定された因果律を解き放ち、彼女を元の世界へ帰すための、唯一と言っていい方法だった。




