第六十七話:末路
直樹のアパートを後にした私たちは、夜の闇に紛れ、電車を乗り継いで千葉県との県境に面した海沿いの広大な公園――臨海公園へと向かった。
深夜の東京湾から吹き付ける潮風が、木々の葉を不気味にざわめかせている。
街灯もまばらな公園の奥、海へ続く遊歩道には当然ながら人っ子一人いなかった。直樹から聞き出した詳細な場所へ向かうと、闇の中に浮かび上がるようにして、それと分かった。
遊歩道の真ん中に、黄色と黒の規制線が張られ、『立入禁止・工事中』と書かれた看板が立てられていたのだ。
「……確かに、見事に抉り取られていますわね」
規制線を潜ってスマホのライトで照らし込むと、セラフィナが感心したように息を漏らした。
直径約十メートルにわたり、アスファルトも、その下の土も、脇の植え込みも、まるで巨大な見えないスプーンで掬い取られたかのように、綺麗な半球状に消失していた。断面は恐ろしく滑らかで、重機で削ったような粗さはない。
「アイシャ、何か魔力やゲートの痕跡は残っていませんの?」
「いえ。私には何の気配も感じられません。ただの物理的な穴にしか見えません」
アイシャが周囲を警戒しながら首を横に振る。
私とセラフィナもライトの光で穴の底をくまなく探してみたが、手がかりになりそうなものは何一つ見つからなかった。特殊な鉱石が落ちているわけでもなく、謎のエネルギーが残っているわけでもない。もし遺留品があったとしても、すでに警察が回収してしまった後だろう。
「……ダメだね。ここからは何の情報も引き出せない」
私がため息をつきながら立ち上がると、セラフィナも同じように顔を曇らせていた。
「手がかりがないこともそうですが……私、先ほどからずっと気になっていることがありますの」
「直樹の、最後のひと言でしょ?」
私の言葉に、セラフィナはコクリと頷いた。
アパートを去る際、弟は私に向けて『死ぬなよ』と殊勝なことを言った。
「あれ、絶対に変だよ。あいつは昔から口が減らなくて、私がちょっと熱を出したくらいじゃ『自業自得だろ』って笑うようなヤツなんだ。いくら事情を聞いてオカルトを信じたからって、あんなに切羽詰まった顔で『死ぬな』なんて言うタマじゃない」
「ええ。私もそう思いましたわ」
セラフィナが顎に手を当てる。
「言葉の表面的な心配よりも、何か別の……『伝えようか迷った末に呑み込んだ事実』があるような、そんな不自然さを感じましたの」
私たちが腕を組んで悩んでいると、周囲を見張っていたアイシャが近づいてきた。
「セラフィナ様、やはり手がかりはないのですか?」
「ええ。ところでアイシャ、あなたから見て、先ほどの弟さんの態度はどう見えましたか?」
セラフィナは、疑問に思ったことを伝え、彼女の考えを尋ねると、アイシャは少し考え込んだ。
「姉である貴女が死ぬかもしれないと聞き、心配して『死なないで』と言うのは、弟として当たり前の感情なのではないですか? 私にもし家族がいたなら、そう言うと思います」
「もちろん、家族としての心配は嘘ではないと思う。でも、あいつの顔は『迷い』に近かった」
「迷い、ですか」
アイシャは鋭い視線を、足元の抉れた穴に向け、ポツリと言った。
「……私の経験則ですが、それは既視感ではないでしょうか? 例えば以前にも同じようなことがあったとか。その時に何か怪我をされたりして、それを心配しているとか」
その言葉に、私とセラフィナは同時に顔を見合わせた。
海風とは違う、氷のような悪寒が背筋を走る。
「……待って。もしかして直樹は、過去にも同じような事例を知っていた?」
「この『地面が半球状に抉り取られる』という現象と、それに付随して起こった何らかの事件……その事件の資料か何かを、警察内部で見たことがあるとか……?」
もしそうなら、この空間転移の痕跡は、私たちがやってきたのが初めてではないということになる。
――ザッ、ザッ。
その時。
私たちの思考を断ち切るように、遊歩道の暗がりから、不規則な足音が聞こえてきた。
「下がって!」
アイシャが即座に私とセラフィナを背中側に庇い、腰の見えない剣(実際には何も持っていないが、構えだけで凄まじい威圧感がある)に手をやった。
等間隔に並ぶ街灯の薄暗い光の中に、一つの人影が浮かび上がった。
足取りは覚束ず、ふらふらと左右に揺れている。服装はボロボロに汚れたコートで、何日も風呂に入っていないような異臭が漂ってくる。ひと目見て、深夜の公園にいるはずのない不審者――浮浪者だとわかる風貌だった。
「……あの男、昨日見た気がします」
アイシャが鋭い声で告げる。
「まさか、つけられていたのでしょうか」
年齢は六十代あたりだろうか。白髪交じりの伸び放題の髪と、深い皺の刻まれた顔。
しかし、その浮浪者は私たちを、正確には『セラフィナ』の姿を真っ直ぐに捉えていた。
男の足が止まる。
焦点の合っていなかった濁った瞳に、突如として狂気のような光が宿り、顔面が凄まじい憎悪で歪んだ。
「お前……ようやく、見つけたぞ……!」
かすれた、しかし地を這うような怨念のこもった声。
男は、セラフィナを指差し、血を吐くような声で叫んだ。
「お前の……お前の、せいだッ……!!」
その声を聞いた瞬間。
私の隣で、セラフィナの身体がビクッと大きく跳ねた。
「え……?」
セラフィナは信じられないものを見るように、両手で口を覆った。
街灯の光が、男の顔を照らし出す。
◆◆◆
垢に塗れ、皺だらけで、年齢も風貌も全く似ても似つかない。
だが、その骨格の造り。瞳の奥底にある傲慢な光。そして何より、自分に向けられる見下すような、しかし今は底知れぬ恨みを孕んだその声色。
セラフィナの脳裏に、かつて自分を断罪した、あの見覚えのある男の姿がフラッシュバックした。
「嘘……」
セラフィナの唇が震え、信じられない名前を紡いだ。
「じゅ、ジュリアス……?」
魔法世界ルミナス王国の第一王子、ジュリアス。
セラフィナを婚約破棄し、辺境へと追いやった元凶。
しかし、なぜその彼が、魔法の一切ないこの現代日本に、しかも六十代の老人のような浮浪者の姿で存在しているというのか。
あり得ない。そんなはずはない。
だが、セラフィナを睨みつけるその濁った瞳は、紛れもなく彼女がよく知る『元婚約者』の狂気を宿していた末路とも言うべき姿だった。




