第六十三話:アイシャ
セラフィナ様と、彼女と同じ顔をした『もう一人の主』がこの拠点を離れてから、数時間が経過していた。
私は一人、しんと静まり返った現代の家屋――『拠点』のリビングで、壁際に鎮座する白い箱型の機械をジッと睨みつけていた。
もう一人の主によれば、これは『洗濯機』という衣類を洗うための魔導具……いや、科学の道具らしい。魔力など一切込められていないのに、ボタンを押すだけで水が湧き出し、内部の筒が凄まじい勢いで回転して汚れを落としていく。
(なんと恐ろしい技術力だ……。ルミナス王国でこれほどの水流を生み出すには、中級以上の水属性魔法が必要だというのに)
私は支給されたメモ帳に、洗濯機の動きを詳細にスケッチした。
隣にある巨大な両開きの箱『冷蔵庫』もそうだ。氷の魔石など使われていないのに、内部は常に極寒に保たれている。
魔法が一切存在しない世界。すべてが物理法則と科学という未知の力で動くこの国は、私にとって驚異の連続だった。
「あら、アイシャちゃん? 何をそんなに真剣に見ているの?」
ふと、背後から柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、セラフィナ様たちが『お母さん』と呼んでいた女性が、あくびをしながらリビングに姿を現したところだった。夜勤明けだというのに、彼女の顔には疲労よりも人の良さそうな穏やかな笑みが浮かんでいる。
「…………」
私は居住まいを正し、深く一礼した。
残念ながら、私にはこの世界の言語(日本語)が一切理解できない。セラフィナ様がいなければ、意思疎通は不可能だ。
お母さんもそれに気づいたのか、困ったように少し笑うと、自分の胸をポンと叩いた。
「ワタシ、サユリ。サ・ユ・リ」
「……サユリ、様」
「そうそう! で、あなたは、アイ・シャ。ね?」
「はい。私は、アイシャです」
言葉は通じなくとも、自己紹介の意図は痛いほど伝わってきた。
サユリ様は、言葉の通じない見ず知らずの異邦人である私に対し、警戒するどころか、まるで親戚の子供を預かったかのような温かな眼差しを向けている。なんという懐の深さか。
(セラフィナ様から、この拠点の維持と補給任務を任されている。ならば、私がすべきことは……)
私は立ち上がり、冷蔵庫を指差してから、キッチン、そして自分の胸を順番に指差した。さらに、包丁で何かを切り、フライパンで炒めるような身振り手振りをする。
「あら? もしかして、お昼ご飯、作ってくれるの?」
サユリ様は目を丸くした後、嬉しそうに両手を合わせた。「お願いしようかしら。お腹ペコペコなの」
私は頷き、キッチンの前に立った。
コンロは火が出ない『IH』という特殊な板だったが、使い方は朝の内に教わっている。冷蔵庫を開けると、見たこともないほど均一な形をした野菜と、薄くスライスされた豚肉が入っていた。
私はかつて騎士として従軍していた経験がある。野営の料理には慣れている。食材の切り方や火の通し方は、どの世界でも同じだ。
手早く肉と野菜を刻み、拠点にあった醤油やみりんというこの国特有の調味料を嗅覚で分析し、適量を見極めて炒め合わせる。
「うわあ、いい匂い! すごく手際がいいのね」
完成した肉野菜炒めと、白いご飯、それに即席のスープをテーブルに並べると、サユリ様は目を輝かせた。
「いただきます。……んっ! 美味しい! アイシャちゃん、お料理すっごく上手ね!」
満面の笑みで親指を立てるサユリ様を見て、私はほっと胸を撫で下ろした。
護衛としての戦闘任務がない今、こうして食事を提供し、拠点の者に喜んでもらえることは、私自身の精神を大いに安定させてくれた。
◆◆◆
昼食後、サユリ様は大きな布の袋を取り出し、外を指差した。
「今日の夕ご飯の買い出しに行くんだけど、アイシャちゃんも一緒に来る? 気分転換になるわよ」
買い物。
私はセラフィナ様から「目立つ行動は控えるように」と命じられていたが、同時にこの世界の生活水準や構造を把握しておくことは、護衛として必須の任務でもある。
というより、私はこの魔法のない世界をもっと知りたいという、抑えきれない好奇心を抱いていた。
サユリ様から借りた、少しサイズの大きいパーカーを羽織り、深くフードを被る。前髪で特徴的な瞳の色を隠し、私たちは昼下がりの街へと歩き出した。
「――――っ」
一歩外へ出た瞬間から、私の視線は釘付けだった。
馬のいない鉄の馬車が、滑るように舗装された道を走り去っていく。空を見上げれば、無数の黒い線が街中に張り巡らされている。
サユリ様の少し後ろを歩きながら、私は右へ左へと忙しなく首を振っていた。
「ふふ、アイシャちゃん、なんだかキョロキョロして、迷子になった子犬みたい」
サユリ様がクスクスと笑う。私は少し恥ずかしくなり、咳払いを一つして前を向いた。
やがて辿り着いた『スーパーマーケット』という巨大な商店で、私の驚きは頂点に達した。
(扉が、人が近づいただけで勝手に開いた!? しかも、この冷気……建物全体を冷やしているというのか!)
中に入ると、そこはまさに宝物庫だった。
虫食い一つない完璧な野菜が山のように積まれ、色鮮やかな果物が並んでいる。肉や魚は透明な膜に包まれて衛生的で、王宮の厨房ですら見たことがないほどの種類の調味料が壁一面を埋め尽くしていた。
(この国は、どれほど豊かなのだ……。ルミナス王国では、これほどの食材を集められるのは大貴族か王族だけだ)
次々とカゴに食材を入れていくサユリ様の後ろをついて歩きながら、私の胸の奥に、フツフツと温かいものが湧き上がってくるのを感じていた。
見たこともないお菓子。色とりどりの飲み物。
警戒しなければならないはずなのに、私は無意識のうちに、ショーケースの前に張り付いて目を輝かせていたらしい。
「アイシャちゃん、それ気になる? 買っていこうか」
サユリ様が、私の見ていたカラフルな『グミ』というお菓子をカゴに入れてくれた。
私はフードの奥で、思わず顔をほころばせた。この国は、平和で、豊かで、優しさに満ちている。
――しかし。
買い物を終え、両手に袋を提げて家への帰り道を歩いていた時のことだった。
公園の横を通り過ぎようとした際、ふと、薄暗い高架下のベンチに座る一つの人影が目に入った。
ボロボロに汚れた衣服。伸び放題の髪と髭。足元には、古びた布や紙屑を詰め込んだ大きな袋が置かれている。
すれ違う人々は、皆一様にその存在を見なかったことにして、足早に通り過ぎていく。
(……浮浪者、か)
私は足を止めた。
王都のスラム街では珍しくもない光景だ。だが、この極限まで発展し、あれほど豊かな食材が溢れかえっている現代の国にも、あのような貧しい者がいるという事実に、私は少なからずショックを受けていた。
どの世界に行っても、光があれば必ず影がある。誰もが等しく豊かになれるわけではないのだ。
「アイシャちゃん」
立ち止まった私に気づき、サユリ様が私の腕を優しく引いた。
彼女は首を横に振り、口元に人差し指を当てる。言葉はわからなくても、『あまりジロジロと見るのは失礼だ』という意図は伝わってきた。
「……申し訳ありません」
私は小さく頭を下げ、歩き出そうとした。
だが、その瞬間。
私の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
もう一度、高架下の浮浪者を振り返る。
彼はうつむいたままピクリとも動かない。薄汚れた毛布を被り、ただじっと地面を見つめている。
しかし、その背中の丸め方。肩の骨格。そして、毛布の隙間からわずかに見えた、異常なほど硬く節張った手の甲――。
(なんだ……? なぜ私は、あの者の姿に『見覚え』があるような気がするのだ?)
強烈な違和感だった。
彼とは絶対に初対面のはずだ。ここは私にとって完全な異世界であり、知り合いなどセラフィナ様しかいない。
だが、私の直感、あるいは本能が、警鐘を鳴らしている。
あの姿、あの佇まい。どこかで――そう、元の魔法世界で、見たことがあるような。
「アイシャちゃん? どうしたの、早く帰らないとアイスが溶けちゃうわよ」
「……いえ。なんでも、ありません」
私は首を振り、サユリ様の後を追った。
気のせいだ。ただの偶然に違いない。
そう自分に言い聞かせても、背中に張り付いた得体の知れない違和感と嫌な予感は、拠点に帰るまで消えることはなかった。




