第六十一話:接敵
学食の騒騒しい空気の中で、きつねうどんの汁を飲み干したセラフィナが、ふと真顔になって言った。
「三日後ですわ」
「……ぶっ」
私はプラスチックのコップに入ったお茶を、危うく吹き出しそうになった。慌てて口元をハンカチで押さえ、ゲホゲホと咳き込む。
「えっ、ちょ、三日後? 早すぎない?」
「ええ。私も、カレンダーとあなた自身の年齢を見て驚きましたわ。まさかこんなにギリギリのタイミングだとは」
「ウソでしょ……。せっかくなら、もっと劇的な最後がよかったな。世界の危機を救って死ぬとか、ノーベル賞もらった直後に暗殺されるとかさ」
思わず不謹慎な軽口を叩いてしまった。だが、セラフィナは呆れたようにため息をついた。
「残念ながら、なんてことのない事故死ですわ。割と避けようのない、物理的な不運の重なり合いによるものですけれど」
「事故死……。交通事故とか? トラックに轢かれるとか、そういう異世界転生のテンプレ?」
「いえ、交通事故ではありませんわ」
セラフィナは少しだけ視線を落とし、テーブルの木目をなぞりながら語り始めた。
「三日後の午後。あなたはゼミの教授に頼まれて、旧理学棟の地下にある古い機材倉庫へ、ある測定器を探しに行きます」
「……ああ、確かに明後日あたり、機材の整理を手伝う予定になってる」
「その地下倉庫は、かつて危険な薬品やガスを扱っていた特殊実験室を改装したもので、分厚い気密扉が備え付けられています。あなたがその部屋に入り、奥の棚を物色している時……老朽化した電子ロックの基盤がショートし、扉が完全にロックされてしまいますの」
「閉じ込められるってこと? でも、スマホで助けを呼べば……あ、あそこの地下、電波入らないわ」
「ええ。そして不運なことに、ショートした配電盤の火花が、ホコリに引火します」
セラフィナの声が、一段と冷たくなった。
「火災自体は小規模でしたが、熱感知センサーが作動し、旧式の『二酸化炭素消火設備』が起動しました。……気密性の高い地下室に、高濃度の二酸化炭素が勢いよく噴射されるのです」
そこまで聞いて、私は背筋に嫌な汗をかいた。
「……ちょっと待って。それって」
「即死ではありませんわ。酸素濃度が急激に低下し、息ができなくなる。最初は激しい頭痛と目眩が襲い、喉をかきむしりたくなるほどの窒息感に襲われます。扉を叩いても、叫んでも、誰にも届かない。徐々に意識が混濁し、床を這いずり回りながら……ひとしきり苦しんで、死ぬのです」
サーッと、顔から血の気が引くのがわかった。
二酸化炭素中毒による窒息死。それは、理系の学生なら誰もが知っている、密閉空間における最も恐ろしい死に方の一つだ。
「……絶対避けたい。なにそれ、前世の私、なんか悪いことしたかなぁ」
「貴女には前世の記憶がないのですか?」
セラフィナが、冗談めかして言う。
「普通はないっての。ていうか、他人事じゃないのになんでそんな他人事みたいに淡々と話すのよ」
私が恨みがましく睨むと、セラフィナは薄く笑った。
「一度死んで受け入れた事象ですから。……それに、避けがたい事故でしたけれど、避けるのはとても簡単な事故ですわ。三日後、旧理学棟の地下に行かなければいい。ただそれだけで、あなたは絶対に死にません」
「そりゃそうだけど」
「あなたを病院で見かけた時から、私は自分が異世界転移しただけじゃなくて、時間跳躍までしているのかと驚きました。でも、今日の日付を見て確信したのですわ」
セラフィナは両手を組み合わせ、口元を隠すようにして私を見据えた。
「私が今ここにいるのは、異世界からの技術供与でもなく、単なる迷子でもなく……貴方のその無惨な死を回避するためなのではないか、とすら今は感じています」
「……」
「しかし、それでも……やはり少し悩むのですわ。あなたの死は、本当に『回避してよいのか』という疑問が」
セラフィナの纏う空気が、ふっと鋭く研ぎ澄まされた。
「タイムパラドックスの問題ね」
私は彼女の意図を正確に読み取り、頷いた。
「もし私が死ななければ、魂が異世界に転生して『セラフィナ』という存在が生まれる因果律が消滅するかもしれない。……多元宇宙論を加えれば、納得のいく説明は簡単に行える。過去を変えることで、私が生き残る『別の宇宙』が生じるだけで、セラフィナが元いた宇宙の歴史は変わらない、ってね。一応の辻褄は合う」
「ええ。ですが、多元宇宙論を持ち出した上で、やはり戸惑うのです」
セラフィナは冷静に分析を続ける。
「現在のように、私たちが簡単に別世界へと移動できる(次元の壁を越えられる)のであれば……過去改変によって、いたずらに並行世界を増やしてしまってよいのかという疑問。そして何より……そもそも、私たちの前提としている宇宙モデルが間違っていて、あなたの命を救うことで、私という存在がこの宇宙から消滅してしまう可能性だってあるのですわ」
自己消滅の恐怖。
それは、生命体として最も根源的な忌避感だ。
「それは杞憂だと思うけどね」
私はコップに残っていたお茶を飲み干し、強気に言い放った。
「そもそも私は、これがタイムトラベルだとは思ってない。私とあなたは、別の存在であることは疑いようがない事実だよ。記憶がコピペされてるだけで、人格も肉体も別物だ。ともすれば、この世界はあなたのいた世界と連続した世界(同一線上)であり、これから起こることに何か修正を加えたところで、既に起きたこと――つまり、あなたの記憶にある『前世の事象』は、変わりようがないんじゃないかと思う」
「私の記憶にある『私』は死に、目の前にいる『貴女』は生き残る。同じタイムライン上で、矛盾が生じないという保証がどこにありますの?」
「ないよ。どちらにせよ確たる証拠はないんだから、推論の域を出ない」
私は肩をすくめた。
「でも、私はあくまでも生きることを諦めない。話を聞いた時点で、回避のために全力で動くよ。地下室になんて絶対に行かないし、教授の頼みはバックれる。……問題は、あなただ」
私はテーブルに身を乗り出し、セラフィナの美しい瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「あなたはどうするの? 自分が消えるリスクを排除するために……三日後、私を殺すの?」
学食の喧騒が、遠くへ退いていくような気がした。
セラフィナは動揺するそぶりも見せず、ただ静かに私を見つめ返している。
「私だって、殺しはしたくありませんわ。この世界が、貴女の言う通りの世界であることを願うし、そのための証拠も探したいと思っています」
「でも」
私は逃げずに、言葉を重ねた。
「いざという時――自分が消滅するかもしれないという不確定要素を排除するためなら、手段を選ばず、私の首を絞めるつもりだよね?」
沈黙。
セラフィナは肯定も否定もしなかった。ただ、極めて冷徹で、合理的な計算機のような瞳で、私の存在を推し量っているだけだ。
自分を生かすためなら、もう一人の自分すら殺す。その選択肢が、彼女の脳内のフローチャートに明確に存在していることがわかった。
しかし、私はその氷のような瞳を見て、なぜか背筋がゾクゾクするほどの歓喜を覚えた。
正直、昨日今日と接してみて、この子は私のことをよく知っているけれど、育った環境が違いすぎる『全然違う人』だなと思っていた。お姫様言葉で、令嬢のプライドを持っていて、護衛なんて連れている。
でも、今は違う。
未知の事象を前にして、あらゆる可能性を計算し、自分の目的(生存)のためなら倫理も手段もかなぐり捨てる。その冷徹なまでの自己中心的な合理性。
ああ、なんだ。
(この感じ……最高に『私』らしいじゃない)
私は思わず、口元を歪めて笑ってしまった。
タイムパラドックスの検証と、自分自身の生存を賭けたデスゲーム。
三日後、私が生き残るのか、それとも彼女が私を殺すのか。これ以上なくスリリングな実験ではないか。




