第6話:勘違いの朝食
昨夜、そして今朝未明まで続いた「深夜の緊急メンテナンス」を終え、辺境伯城の食堂には、かつてないほど奇妙な空気が流れていた。
長テーブルの主座に座るレオンハルトは、まるで数年間の強制労働から帰還したばかりの男のように、げっそりと頬をこけさせていた。目の下には、もはや芸術的な域に達した深い隈が刻まれている。
「……セラフィナ。……頼む、少し離れてくれ……」
「嫌ですわ、閣下! 今この瞬間、閣下の体内で精製されたばかりの新鮮な魔力が、指先から放出されるかどうかの瀬戸際なんですのよ!」
主君の拒絶(のような懇願)を無視して、セラフィナはレオンハルトの右腕をがっちりと抱え込み、あろうことか彼の二の腕に、自分の耳をぴたりと押し当てていた。
はたから見れば、それはもう、片時も離れたくない新妻が夫に甘えまくっている、睦まじい光景にしか見えない。
「見て、セバスチャン様……」
食堂の隅で控えるメイドたちが、頬を赤らめて小声で囁き合っていた。
「あの『北の狂犬』と恐れられた閣下が、あんなに大人しく身を任せているなんて……。セラフィナ様が腕を抱きしめるたびに、閣下、顔を背けて耳まで真っ赤にされていますわ。……なんて尊いのかしら」
「ええ。触れただけで人が死ぬと噂されたあの魔力の嵐を、愛の力で鎮めてしまわれるなんて。セラフィナ様は、まさに閣下のために遣わされた女神様ですわね」
メイドたちの視線の先で、セラフィナはレオンハルトの腕の「音」を聞きながら、狂喜の笑みを浮かべていた。
「ふふ、ふふふ……。聞こえますわ、閣下! 上腕三頭筋の奥で、魔力回路が音を立てて共鳴しています! 昨夜のバイパス工事は大成功ですわね。ああ、吸い付きたい……この腕に管を繋いで、一滴残らず吸い尽くしたいですわ……!」
「……セラフィナ、……台詞が、台詞が物騒すぎるぞ。あと、メイドたちがさっきから『仲睦まじいわねぇ』みたいな目で俺たちを見ているのが、死ぬほど恥ずかしいんだが」
「人の目なんてどうでもいいですわ! それより閣下、このオムレツを召し上がってください! タンパク質を摂らないと、魔力の変換効率が落ちてしまいますもの。はい、あーん!」
セラフィナがフォークに刺したオムレツを、レオンハルトの口元へと突き出す。
それは、世間一般では親密さを表す究極の儀式だ。
「……っ。……自分で、食べる……」
「ダメですわ! 閣下の手は、今、魔力回路の安定のために私のデバイスで固定していますでしょう? ほら、早く口を開けてください。糖分と脂質が、貴方の『発電量』を左右するんですから!」
「発電量とか言うな……っ! ……むぐっ」
無理やり口に押し込まれたオムレツを、レオンハルトは涙目になりながら咀嚼する。その様子を見たメイドたちが、一斉に「キャーッ!」と小さな悲鳴を上げた。
「閣下が……閣下がセラフィナ様に食べさせてもらっているわ!」
「あんなに恥ずかしそうに……。あんな閣下、生まれて初めて見たわ……!」
現場の責任者であるセバスチャンは、執事らしく無表情を保とうと努力していたが、そのこめかみはピクピクと痙攣していた。
「……ガレス卿。貴方の目には、あの光景はどう映りますか」
隣に立つ護衛騎士ガレスは、もはや魂が抜けたような顔で遠くを見つめていた。
「……セバスチャン。……俺の目には、獲物に食らいついたマッドサイエンティストが、被検体に無理やり栄養剤を流し込んでいる光景にしか見えません。……閣下。あの御方、今『咀嚼回数と魔力波長の関係』をメモ帳に書き込んでいますよ」
「……左様ですか。ですが、城の人間には『愛に溢れる献身的な公爵令嬢』と『彼女に心を許した大公閣下』として伝わっています。……もう、それで、良いのではありませんか。閣下の『化け物』という悪評が、彼女の『狂気』によって塗り潰されていくのですから」
「塗り潰し方が極端すぎる気がしますがね……」
そんな男たちのやり取りをよそに、セラフィナの暴走は止まらない。
「閣下! オムレツの次は、このクロワッサンですわ! あ、ちょっと待って。閣下の耳の裏……ここ、魔力が漏れ出していますわね。少し失礼」
「なっ……な、何を——」
セラフィナが、レオンハルトの首筋に顔を寄せ、耳の裏に指を添える。
至近距離で感じる、セラフィナの甘い香りと、柔らかな指の感触。
レオンハルトは全身を硬直させ、顔を真っ赤にして固まった。
「……んん、いいですわ……。この漏れ出した微弱な魔力を、私の『ポータブル吸引機』で……いえ、もったいないから私が直接、肌で感じて……」
「セラフィナッ!! もういい! もう限界だ!!」
ついに耐えきれなくなったレオンハルトが、真っ赤な顔でセラフィナを引き剥がし、逃げるように食堂を飛び出していった。
「あら。閣下ったら、まだデザートの魔力測定が終わっていませんのに! 待ってくださいな、私のバッテリー様!!」
満面の笑みで、スキップをせんばかりの勢いで大公を追いかけるセラフィナ。
「……ふふ。閣下ったら、照れて逃げ出すなんて。本当にお熱いですわね」
「セラフィナ様も、あんなに一生懸命追いかけて……。本当にお幸せそう」
メイドたちの温かなため息が響く中、セバスチャンとガレスだけは、静かに十字を切った。
「……閣下。どうか、エネルギー切れで倒れる前に、彼女の魔の手から逃げ切ってください」




